その代行者、異端につき
白昼の街中、統夜とレフィアは大勢の人々に取り囲まれていた。大半は興味本位で集まってきた野次馬などで、この騒乱を遠巻きに眺めるだけだったが、中にはあからさまに敵愾心をむき出しの者らもいる。
端を発したのは歩いている最中、唐突にレフィアへと石を投げつけられたことだった。統夜がとっさに反応したおかげで怪我こそしなかったものの、だからといって笑って済ませられるはずもない。普段は温厚な彼も、今ばかりは険しい目つきである。
「こんなことされる理由は見当たらないんだが。彼女が、あんたに何かしたのかよ」
統夜は掴み取った石を放り捨てながら下手人の男を問いただした。
「おいおい、何を怒ってんだよ。吸血鬼を庇うってのか? 変わった奴だな」
男は悪びれもせず、それどころか自分の行動が糾弾されたことに対して意外そうな顔で言う。レフィアを指差して彼は続けた。
「非があるのは街中をうろついてるそいつの方だろ。そこの怪物が誰かに襲い掛かったりでもしたらどうすんだ」
その、何ら根拠のない意見に対して統夜は即座に反論するつもりだった。ところが、そうだそうだと周囲から上がる追従の声がそれをさせない。
確かに吸血鬼は、普通の人間などでは太刀打ちできないような強さを持つれっきとした魔物だ。言うなれば今の状況は、街に猛獣が入り込んでいるようなものである。人々がこれを不安に思い、排斥しようとするのは当然の流れだった。
統夜としては、少しも納得できなかったが。
そもそも彼らは口をそろえて危険を訴えるが、レフィアの人となりを見る限りそんなものは言いがかりもいいところである。彼女が誰かを傷付けようとしたことなど一度もない。
「心配しなくても、この子はあんたらに危害を加えたりしないよ」
「そんなもん信用できるか。何かあってからじゃ遅いんだよ」
説得を試みてはみるものの、相手は聞く耳を持たずにせせら笑うのみだ。
統夜は嘆息した。
どうにも、人間という生き物はどこの世界でも同じらしい。ひとたび叩かれるに値する理由を背負った者に対して一切の情け容赦がない。面白半分で痛めつけ、標的がどれだけ追い詰められようとお構いなしだ。
そんな気の毒な少女へ目線を向けてみると、当の本人は言い返したところで無駄だと悟っているのか、さっきから黙ったままである。
「悪いことは言わねえから引っ込んでな。一緒に殴られたいって言うなら話は別だが」
二人の沈黙を観念したものと判断して男が言うと、私刑の始まりそうな期待からお節介な連中がちらほらと出てきた。無抵抗の存在を一方的にいたぶる、下種な趣味の同士といったところか。
今にも血なまぐさい沙汰が起きそうだと、にわかに空気が熱を帯びていく。
周りを見渡してみても、味方をしてくれそうな人は皆無だった。面倒な事とは関わり合いになりたくないようで、みなの視線はよそよそしい。
(ま、傍から見りゃ敗色濃厚だしな)
そんな状況に置かれているにも関わらず、統夜はあっけらかんとした感想を持つだけであった。まさしく多勢に無勢、だというのにまるで他人事のような気軽さだ。表情には危機感のかけらさえ見受けられない。
この期に及んで彼が余裕綽々なのには大きな理由があった。
なぜなら、ここデュナミスは魔法の存在する世界。勝敗を決するのは何も、単純な腕力の有無だけではないからだ。
人を含めた多くの生き物は空気中に漂う微細な粒子、エーテルを取り込み、体内で魔力として蓄えることが出来る。この魔力は様々な現象を引き起こす魔法の行使、あるいは身体能力の増幅といったことへの燃料となるのだ。もちろん無制限に自身を強化できるわけではなく、許容量を超えれば激痛が走るという制約もある。そうならない為の回路の拡張には常日頃からの地道な鍛練が不可欠で、魔力を扱い始めて一ヶ月程度の統夜では、よほどの才に恵まれでもしていない限りまだまだ貧弱の域を出ない。
はずだった。本来ならば。
彼を例外たらしめる事態が起こったのは、ほんの数日前。〝剣の王〟とも称される、難敵という表現すら生温い一人の少年が、レフィアを連れ去ることを目的に現れたのである。統夜は当然これに抗う姿勢を見せたものの相手にならず、圧倒的なまでの戦闘力の違いを思い知らされる結果に終わった。
かすり傷の一つも負わせることが出来ずに敗北した。
ところが止めを刺される寸前、
何の因果か、まばゆい鱗に覆われた銀色の竜から、ある種の賭けを持ちかけられた。この先、真っ当な人間として生きられなくてもいいのなら力を貸そうと。
甘んじて死を受け入れるよりはマシ、と統夜は話に乗った。その竜曰く、非常な苦痛を伴うとの前置きにも躊躇することなく。
そうして彼は、力を得ることに成功した。竜との合一に際して、死の淵をさ迷うほどの経験と引き換えに強靭なエーテル回路を手に入れたのである。これにより彼が扱える魔力量は、もはや常人とは比べ物にならないほどとなっていた。今の彼は長年に渡って戦闘稼業を生業としてきた達人と同等、もしくはそれ以上の途方もない力を発揮することが可能であり、普通の町民などがいくら束になったところで苦も無く蹴散らせる。
「よーし、上等だ。まとめて相手してやるからかかってこいや」
統夜は受けて立とうと腕捲りして啖呵を切った。
たった一人でも物怖じしない彼の様子に、男達がわずかにたじろぐ。
「へっ、ハッタリは止せよ」
構わず前に進み出ようとした統夜だったがそのとき、後ろから急に服を掴まれた。引っ張られた服で首元が締まり思わずむせ返る。先ほどの威勢の良い台詞も格好がつかない醜態である。
「喧嘩はダメ」
止めたのは、今まで言われるままにしていたレフィアだった。彼女は向かい合う統夜と男達の間に割って入り、自分を追い出そうとしている人達を守るように手を広げて立ちはだかった。
「あんなことされてもか?」
声色に若干の呆れを含ませて統夜は訊く。
レフィアが首を縦に振った。そんな彼女の背後から、今がチャンスとばかりに男がにじり寄る。
「……それじゃお暇しますかね」
少女の意思を尊重し、統夜はあっさり矛を納めた。もとより自分に売られた喧嘩ではない。彼は小柄なレフィアを脇に抱え、羽交い絞めにしようと飛びかかってきた男を踏み台にして跳躍する。そうして人々の輪から一気に抜けると、
「では、そういうわけで皆さんご機嫌よう」
呆気に取られる人々に言い残してくるりと振り向き、レフィアの手を引いて駆け出した。
「あっちへ逃げたぞ!」
一瞬の間を置いて、暇を持て余した町民たちによる熱狂の狩りが開始した。
レフィア・アルトという少女にとって、日の当たらない裏路地を追われるままにただ走ることなど馴れっこだった。理不尽な因縁をつけられるのは何も、今日が初めての経験ではない。
物心ついた時から慈悲なき眼差しに晒され、心ない罵詈雑言が浴びせられてきた。年端もいかない少女にはあまりに過酷な仕打ちであったが、しかし彼女は決して誰かを恨んだりはしなかった。それどころか自分の方から進んで歩みより、困っている人に声を掛け、力になろうとした。
互いにきっと分かり合えるはずと信じてこられたのは、両親の例があったからである。
人間と吸血鬼、種族の垣根を越えて二人は愛し合い、自分は生まれた。
その一例を知っていたからこそ、彼女は今日まで心を閉ざすことなく積極的に関わりを持とうとしてきた。たとえ助けた当人に辛く当たられるようなことがあろうとも。
そうした行いが実を結び、今では一人の味方が側に在る。自分を色眼鏡で見ることなく、普通の少女として接してくれる、異世界から来た青年。
レフィアは、自分の手を引いて走る統夜を見上げた。
彼には感謝している。その言葉だけではとても言い表せないほど。
同時に、秘めた思いもあった。
彼をこんなことに巻き込んでいいのだろうか、という後ろめたさである。自分と一緒にいるという理由で、彼も白眼視されるのは容易に推測できることだった。事実、危惧していたことが今まさに起こっている。
道行く人々に目の敵にされ、追い回されることを本当は苦痛に感じているんじゃないか。自分のせいでこんな目に遭わせてしまって申し訳ない、という懊悩が少女の胸の内に重くのしかかる。
この手を繋いだままでいるのが、もし迷惑なのだとしたら。
それでも、離れるのは嫌だった。一緒にいたい気持ちは何よりも強い。
しかし彼の重荷になるくらいならばいっそ……、という思いの堂々巡り。
自分がどうすればいいのか、まるで複雑に入り組んだ迷路へ入り込んだように、いつまでも出口は見えてこない。
「そろそろ撒いたか……?」
適当な所で足を止めた統夜は後ろを振り返りながら呟いた。そのまましばらく待ってみても、追いついてくるような根性のある人はいないらしい。あとは人込みに紛れてしまえば一丁あがりだ。
彼が大通りに繋がる細い道から顔を出して辺りを窺っていると、
「ごめんね、わたしのせいで……」
後ろからしゅんとした声でレフィアが謝った。
「おいおい、俺達のどこに過失があったんだよ。そういう弱腰な態度が連中をつけあがらせるんだ。なんなら今からでも引き返して一緒にとっちめてこようぜ」
統夜は深刻に取り合わず、重くなりかけた雰囲気を冗談めかして吹き飛ばす。
もっとも、その内容は決して実現不可能な絵空事ではない。見た目こそか弱いレフィアだが吸血鬼の血を引いていることもあって、普通の人から見れば彼女も相当に強い部類に入る。その気になれば因縁をつけてきた相手くらいボコボコにできるはずだった。それをしないのは彼女が、両者の決定的な亀裂になることを恐れて、力を振るわないように自分を戒めているからだ。
「そんなことしたら、もっと強い人が来るよ」
レフィアが困ったような表情で言った。
「来たいなら来ればいいさ。文句がある奴は俺がもれなく返り討ちにしてやる」
「そしてその次は、トウヤより強い人達が束になって来たらどうするの?」
さらなる指摘に、統夜は言葉を詰まらせる。
「それは……とても困る」
自分こそが世界最強の存在だと豪語するつもりなど毛頭ない。はっきりと勝利を断言できない相手にもこれまでに会っている。もしもそんな存在に徒党を組まれたりしたら、確実に守りきれる保証はどこにもなかった。
「ほらね、きりがないんだよ。わたしが我慢すれば……それでいいんだから」
声音にわずかな寂しさを響かせて、レフィアが噛んで含めるように諭す。
あくまで全てを一人で背負おうとするその姿勢を、統夜は歯痒く思った。ひょっとすると自分を助けてくれる人など、いるはずがないと信じ込んでいるのかもしれない。彼女はまず第一に他人を気遣い、そのせいで自らが損をすることも厭わない性格をしている。
「良くないっつの」
甘えるのが下手な少女の額に、チョップをお見舞いしながら統夜は言った。辛い境遇から培われてしまった誰も頼らないという性格が、少しずつでもいいから変わってくれる事を願って。
「殊勝な心がけも結構だけどな、自分を大切にしないでどうする。他の奴らなんか二の次でいいんだよ」
「じゃあ敵わない相手と知りながら、体を張って足止めしようとするのはどうなの」
額をさすりながらレフィアが、むーっと不満そうに唇を尖らせる。
「それはお前、ほら……。なかなか痛いところをつくじゃないか」
これは中々思いがけない反撃だった。心当たりがあり過ぎてぐうの音も出ない。
統夜はぽりぽりと自分の頬を掻き、お手上げの仕草をした。
「分かったよ。お前がそれでいいなら、もうとやかく言わない」
「心配しなくてもわたしなら大丈夫だよ」
自信ありげな様子で答えた彼女の言葉に込められていたのは、単なる希望的観測ではない。自分の進む道が一筋縄ではいかない、それどころか多くの艱難に満ちている事を知りながらも、怯まず進んでいこうとする覚悟があった。その姿は少女を実際の年齢よりもずっと大人びて見せる。
「だって、今は味方がいるもん」
守りたいと思わずにはいられない、屈託のない微笑みを浮かべてレフィアは言った。
直向きな少女の決意、その余韻に浸る間もなく、
「見つけた、こっちだ!」
そんな叫び声が上がる。見れば、獲物を追い詰めようと躍起になっている町民たちが、押し寄せてくるところだった。
「ええい、しちめんどくせえ。一日中追いかけっこなんてしてられっか」
「どうしよう?」
「んー、そうだな……。あそこに行ってみよう」
統夜の指差した建物へ向かって、再び二人は走り出した。
デュナミスには、代行者協会というものがある。日々舞い込む依頼を代行者と言う存在に斡旋し、円滑に解決を図る場所だ。
代行者とは文字通り、人々の困りごとを代わりに請け負う者達であり、その対価として報酬を貰い生活の糧とする。簡単なお使いレベルのものから、一方で危険地帯を同行する傭兵や、魔物の討伐など、危険が付きまとう類の依頼も多いが、そのスリルを楽しむためにこの仕事をしている者も少なくない。
人の多い街には大抵、協会の支部が置いてあり、ここテルセアも例外ではなかった。
「さて、どうしたもんか」
その一室で、机に積み上げられた書類と格闘している男がいた。
名前はノーマン・ラウル。テルセアの協会を切り回す長だ。燃えるような赤毛が特徴的で、年齢は四十歳ほど。デスクワークよりも肉体労働の方が得意そうな頑健な体つきをしている。
彼は今、とある業務に追われていた。
期日までに受け手が現れそうにない、依頼の処理である。
そもそもの前提として持ち込まれる依頼の内容と、それに見合った報酬額は、前もって依頼者と話し合いの末に取り決めるので、あまりにも割に合わないと思われるものはあらかじめ弾かれている。それでも様々な依頼が並ぶ以上、旨みの少ないものはやはり敬遠されがちである。結果として、いつまでも残ってしまう事態が発生するのは仕方のないことだった。
その場合には協会から、代行者としての資格を持った職員を派遣する事になっているのだが、これはあくまでも最終手段。誰かが抜ければ当然、相応の負担を他の者へと強いることになる。日々の運営に支障を来さないためにも、軽々に出動の判断を下すのは憚られるのだった。
その上、内容によっては怪我のリスクが高いものや、何日間も拘束されるものもある。そういったものは極力、フリーの代行者に振り分けて消化していかなければならない、というわけだ。
(とりあえず残ってるのはあと一つか……。優秀な奴は軒並み振り分けちまったし、かと言って半端な奴に任せるのはちと不安が――なんだ?)
頭を悩ませていたノーマンだったが、ふと外に気を取られた。何やら騒がしい。街中で騒動でも起こっているようだ。窓辺から様子でも見るか、と席を立つ。
すると突然、開いていた窓から人影が部屋へ飛び込んできた。あろうことか、建物の三階にも関わらずである。
その飛び込んできた張本人たち、統夜が底抜けに気軽な声で、
「ちょっと失礼しまっす」
「こ、こんにちは」
彼の胸の前に抱かれたレフィアが申し訳なさそうに、それぞれ挨拶した。
ノーマンは特に驚いた風もなく応対する。
「一体どうした、そんなとこから。無断で駆け落ちでもしてきたのか?」
「失敬な。ちゃんとオルバスさんには断ってますから」
統夜はとりあえずそう言いながらレフィアを下ろすと、身を隠すように窓辺に座り込んだ。ややの間を置いて、怒号が通り過ぎていった音が届く。それが静まったとみるや慎重に外を覗きこんで辺りを確認した。
それら一連の行動は、どう見ても追われている者のそれである。察するに、先ほどまでの喧騒と無関係でないのは明らかだ。
「なるほど、事情は概ね分かった」
「それなら話は早い。どうにも彼女はこの辺りじゃ有名人みたいでして。どこ行っても熱烈な歓迎を受けちゃうんですよ」
戯れ言で答えると統夜は、応接用のソファにどっかと腰を下ろしてくつろぎ始めた。レフィアもテーブルを挟んだ向かいの席にちょこんと座る。
(そうか、こいつを忘れてたな)
ノーマンの思考の中で、未処理の依頼と現れた統夜が結びつく。最近になって代行者の仲間入りした、彼という存在を失念していた。もしかすると適任かも知れない、と頭脳を高速で回転させて念入りに吟味する。少しばかり経験に乏しいものの、実力の面において信頼できるのは言わずもがなだ。手が空いているなら使わない道理はない。
「まったく、おちおち散歩も出来ないとはね。早々にどこか別の街へ行ったほうが良さそうだ」
統夜の呟いたその不平で、ノーマンは思考の埋没から引き戻された。
「ちょうどいい、ここを離れるつもりなら一つ頼まれちゃくれねえか? 差し迫ったやつがあるんだが……」
待ってましたとばかりに、書類で埋め尽くされた机の上を探し始める。
「おっと、こいつだ」
ほどなく目当ての物を見つけ、ひもで括られた依頼書を投げて寄越した。
受け取った統夜がそれを開いてしげしげと眺める。もっとも、あいにくとこちらの地名には疎い。一通り読んだ彼は、手持ち無沙汰にしている少女へ話を振った。
「ふむふむ、要はこのランドールってとこまで行けばいい、と。レフィア知ってるか?」
「行ったことないけど……。ここから大した距離じゃないはずだよ」
その情報にノーマンが補足を加える。
「馬車だと大体、一日半てとこか。風光明媚な名所で、金持ち連中の保養地としても有名だな。観光にはもってこいだろ」
依頼の内容は別段特殊なものではない。目的の街まで荷物を運ぶ馬車の護送である。代行者のランクは不問となっており、報酬も妥当なところだった。敬遠されるような理由はこれといって見当たらない。
統夜は首を傾げて疑問の氷解を求めた。
「じゃあなぜ残ってるんですか?」
「いや、なに……大したことじゃねえよ」
ぎくっ、とノーマンが体をこわばらせる。
「そういう在り来たりな言い回しは結構なので続きをどうぞ」
統夜の非難めいた目つきに促され、ノーマンが仕方なく受け手の現れないわけを開示した。
「何でもその辺りの街道じゃ近頃、追い剥ぎが出るらしくてな。通りがかった商人が襲われることがあるんだと」
「そんな物騒な案件を純朴な若者に任せるってどうなんですか……」
「何言ってやがる。オルバスの爺さんから聞いたぜ。あの〝剣の王〟と渡り合ったってな。お前ならたとえ賊が百人単位でいたって返り討ちだろうよ」
いまいち乗り気ではない統夜の様子からノーマンはもうひと押しすることにした。おもむろに、わざとらしい咳払いをする。
「さてと、ここに逃亡犯が隠れてることを通報してくるか」
「うわっ、信じられねえ……。わかった、わかりましたよ。やればいいんでしょ」
口を尖らせ、ふて腐れたように統夜は言う。しかしながら、無理難題を押し付けられているわけでもない。これまでも世話になっていることだし、頼みごとを引き受けるのはやぶさかでなかった。
「そういうわけだが……いいか?」
「うん」
旅の相棒たる少女に確認を取り、こうして彼らのランドール行きが決まった。
所変わって、東京のとある場所。
まだあどけなさの残る少年が、放棄された廃ビルの前に一人立っていた。誰かを待っているらしく、頻繁に携帯電話を取り出しては、ちらちらと時間を確認している。
「中学生の夏休みは残り少ないしね。デュナミスがどんなところか、一度見に行こうか」
彼は自分の師事する人物にそう言われるまま、大いに期待してやって来たのだが、肝心の本人が約束の時間を過ぎても現れないのだった。
そのまま待つこと三十分あまり、やがて大学生ほどと見える男がやってきて、
「やあやあ、蓮君。遅れてすまないね」
おざなりな謝罪の言葉を投げ掛けた。口元には軽く笑みを浮かべており、遅刻したことを本気で悪びれている様子はない。容姿は眉目秀麗ながら時間にルーズな性格らしい。
そんな彼のことを怒るでもなく、待たされていた少年は不安げにしていた表情を崩して胸を撫で下ろした。
「よかった、場所を間違えたかと思いましたよ。伊吹さん」
「大丈夫、それじゃ行こうか」
伊吹と呼ばれた青年は、立ち入り禁止の注意書きを堂々と無視してビル内へと先導した。蓮もその後ろをおっかなびっくり、ついて行く。
人の立ち入らないそこは、扉一枚隔てるだけで異界めいていた。電気が通っているはずもなく、内部は昼間にも関わらず薄暗い。静まりかえった空間に木霊する靴音が、不気味な雰囲気を醸し出している。
夜中には絶対に来たくない場所だ、と蓮は身震いした。
対照的に伊吹は鼻歌を歌いながら、埃っぽい湿った空気に包まれているロビーを踏破していく。先んじる彼の足取りはまるで、目には見えない目印を辿るように軽やかだった。
その背を追っていくうち、蓮は気が付いた。
(これは、エーテルの気配……?)
その存在を感じられるようになったのは、ごく最近のことであったが間違いない。気配は進んでいくほどに段々と濃くなっている。
エーテルとはすなわち、魔力の素である。魔法を知ってからというもの、今日まで蓮は一通りの知識と使い方を教えられてきた。
それはひとえに、想いを現実へと引き寄せる業なのだ。こういう場所で幽霊などの目撃談が出るのは、ひょっとするとそうした念が強まるからなのかもしれない。
そんなことを考えていると、上階へ続く階段の踊り場で伊吹の足がピタリと止まった。
「開け」
彼が壁に向かって短い命令を下すと、その言葉に従うようにいとも容易く空間が裂けた。月の無い夜を凝縮したような濃密な黒が眼前に広がる。
原因は解明されていないが、こうした穴は自然発生してしまうこともあるらしい。魔法に接した事の無い者は穴そのものを感知できないのだが、見えずとも偶然に入り込んでしまうケースはあり得る為、放置しておくとなんの手がかりもない行方不明者が出てしまう。それを防ぐために不安定な穴は塞ぐのが通例なのだが、人気の無いところに発生したものは簡単に行き来ができるように、開きやすい状態のままキープしておくのだった。
ぽっかりと空いた人間大の穴はゆるやかに、その直径を縮めている。本物の異界への入り口を目の当たりにして蓮は呟いた。
「これが、デュナミスへの入り口……」
「その通り。ここは確か、ランドールって街の近くに繋がっているんだったかな」
それだけ言うと伊吹は気負うことなく、自らが作った黒い穴へと入って行った。すぐさま、闇に溶かし込まれたように姿が見えなくなる。
緊張からゴクリと生唾を飲み込み、意を決して蓮も足を踏み入れた。