そして私は夢から醒める:彩香×啓一郎
自宅の書斎で書類を片付けていた啓一郎は、ノックの音で顔を上げた。
「どうぞ」
その声で姿を見せたのは、彩香だ。
「どうした?」
普段は冷徹この上ない眼差しも、この義理の妹に向けた時だけは穏やかに和らぐ。
「兄様、これ……」
彩香はそっと温かな湯気が立つマグカップをデスクの上に置いた。
「ああ。いつもありがとう」
毎年バレンタインデーに彩香から贈られるチョコレートは、甘いものが苦手な啓一郎のために彼女が考えた、シナモンをアクセントにしたノンシュガーのホットココアだ。
啓一郎はまだ熱いそれを慎重に一口含んで、微笑んだ。
「うまいな」
「いつもありがとう、兄様」
そう答え、彩香は艶やかな笑みを浮かべる。『あの事件』から1年以上が過ぎ、彼女の身体の傷は癒えている。けれども、眼差しは、以前とは違う翳を含むようになった。それが彼女の怜悧な容貌を更に際立たせるのだが、それは悲しい美しさだった。
「彼に、会いたいかい?」
敬一郎が問う。もしも彩香が是と言えば、啓一郎はどんな手を使っても彼を捜し出し、呼び寄せるだろう。
けれども。
彩香は静かに首を振る。
「いいんです。あの人は、ちゃんと私と約束してくれましたから」
そうして、彼女は笑む。
彼が姿を消した、あの夜。
二人の間にどんな言葉が交わされたのか、啓一郎に知る術はない――知る必要もない。それは、彩香と彼だけが心に置いておけばいいことなのだから。