法鍵士は夕暮れに鳴る
五限の講義が終わった。
鍵城ジョウは誰とも話さず、足早に教室を後にした。急いでいるわけではない。ただ、今日は人混みに紛れる気分ではなかったのだ。
キャンパスの裏手、正門から離れた、用がなければ誰も来ない場所へ向かう。フェンス沿いの細い路地には、端に雑草が固まって生え、誰かが捨てたコンビニの袋が風に転がっている。お世辞にも綺麗な場所とは言えない。
それでも、どうしてもここに来たかった。
ジョウはポケットからスマホを取り出す。検索履歴には「法鍵士」という文字が残っていた。
昼休み、前の席の二人組が話していた都市伝説。
「声で鍵を紡ぎ出し、異形と戦う者がいる」という噂。普通なら笑い飛ばすような話だった。
なのに。
胸の奥で、何かが鳴った。
うまく説明できない。知らない言葉のはずなのに、「法鍵士」という音を耳にした瞬間、身体の深いところが激しく共鳴した。ずっとそこにあったのに気づかれなかった何かが、ようやく名前を呼ばれたような感触。
スマホを仕舞い、ジョウは空を見上げた。
オレンジから紫へと移り変わる夕暮れ。境界線のように色が混ざり合うその空を、ジョウはなぜかひどく懐かしい気持ちで眺めた。
――ふと、気づく。
空が、息を潜めている。
音が遠い。車の走行音はどこかに吸い込まれるように薄れ、景色の輪郭だけが妙に鮮明になっていく。
喉が鳴った。
いつもの、あの振動。カラオケで声が割れるときのような不快な感覚ではない。今日のは強烈だった。胸の奥まで響くような激しい震えが、内側からせり上がってくる。
立ち止まり、喉に手を当てる。
「……あ」
普通の声のはずだった。
だが、空気が揺れた。気のせいではない。ジョウの声が届いた先の空間が、水面のように微かに歪んだ。
やめた方がいい。これ以上踏み込めば、取り返しのつかないことになる。
身体はそう警告していた。しかし、足はすでに一歩、その先へ踏み出していた。
劇的な変化ではなかった。
音が消えた。最初からそこになかったかのように、車の音も、風の音も、自分の足音さえもが消失した。残ったのは、自身の荒い呼吸の音だけ。
ジョウは立ち尽くしたまま周囲を見回す。
色が抜けていた。彩度を完全に失った空。フェンスの錆も、アスファルトの黒も、雑草の緑も、すべてが薄い。現実の輪郭だけが残り、中身が抜け落ちたような光景。
ジョウは、この景色を知っていた。
どこか遠い記憶の底にある、身体が覚えている感覚。空気の重さ、音の消え方、色の抜け方。なぜか怖くはなかった。むしろ、喉の振動が強まるにつれ、全身の感覚が研ぎ澄まされていくような高揚感があった。
フェンスの角を曲がった瞬間、声が聞こえた。
「――っ、そっちに回れ!」
低い、切迫した声。ジョウは考えるより早く走り出していた。
二人の男がいた。
黒いロングカーディガンを纏った青年と、白いシャツの青年。その前に「それ」はいた。
形容しがたい存在。影のように澱み、周囲の光を吸い込むような塊が、いくつも蠢いている。
ジョウの喉が、今日一番の勢いで鳴動した。
二人が声を放った瞬間、彼らの手に光が収束する。黒いカーディガンの青年には群青の鍵、白いシャツの青年には銀白の鍵。
やはり都市伝説ではなかったのだ。声が鍵となり、武器となる。
ジョウの胸の奥で、何かが激しく呼応した。知っている。あの光を、自分は知っている。
「動くなって言ったんだけど?」
銀白の鍵を構えた青年の声が、鼓膜を震わせた。
いつの間にか、自分と異形の間に白いシャツの青年が割り込んでいた。左腕から血を滲ませているのに、その声はどこまでも穏やかで、静かな芯が通っていた。
「なんで……俺を庇うんだ」
「君が迷い込んできたからね。巻き込めないでしょ」
当然のように言い放ち、青年は背中でジョウを庇い続ける。
ジョウは自分の空の手を見つめた。喉の奥で振動が渦巻いているのに、使い方が分からない。ただの大学生の自分には、何もできないのか。
黒いカーディガンの青年が、重心を低く保ちながら群青の鍵を振るう。速い。だが、二対多数の状況は圧倒的に不利だった。
戦う術も、封印空間の意味も、自分の喉の振動の理由も分からない。けれど、全身が熱を帯びていくのだけは分かった。
出したい。
この声を、この光を、あの二人へ届けたい。
ジョウは右手で口元を覆い、声を放った。気づけばそれは、高くも低くもない、芯の響く声だった。
喉から淡いゴールドの光が溢れ出す。
ジョウは、その「鍵」を確かに握りしめていた。
その後の記憶は断片的だ。
三つの光が重なり合い、美しい和音となって異形を霧散させたこと。世界に色が戻ったと同時に、膝から力が抜けて座り込んでしまったこと。
「名前、聞いてもいい?」
白いシャツの青年が、ジョウの手元を見ながら問いかけてきた。
「……鍵城ジョウ。一年」
掌を見たが、鍵は消えていた。それでも、先ほど確かにそこに自分の声が形を成していた感触が残っている。
白シャツの青年が、目元まで優しく笑った。
「僕はヨシ。三年。よく『よっさん』って呼ばれてる」
壁に背を預けた黒いカーディガンの青年は、こちらを振り返りもしない。
「……トウゴだ。二年。」
「じゃあ、ごーさんで」
「……好きにしろ」
夕焼けが路地を橙色に染める。世界の膜が剥がれ、いつものキャンパスの喧騒が戻り始めていた。
ジョウは地面に手をついたまま、二人を見上げた。
まだ何も分からない。この能力も、封印空間も、なぜ自分がここへ導かれたのかも。
ただ、喉の奥の振動だけが、穏やかに続いていた。
――まるで、ずっと待っていた場所に、やっと辿り着いたと言わんばかりに。




