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法鍵士は夕暮れに鳴る

掲載日:2026/06/11

五限の講義が終わった。


鍵城(かぎしろ)ジョウは誰とも話さず、足早に教室を後にした。急いでいるわけではない。ただ、今日は人混みに紛れる気分ではなかったのだ。


キャンパスの裏手、正門から離れた、用がなければ誰も来ない場所へ向かう。フェンス沿いの細い路地には、端に雑草が固まって生え、誰かが捨てたコンビニの袋が風に転がっている。お世辞にも綺麗な場所とは言えない。


それでも、どうしてもここに来たかった。


ジョウはポケットからスマホを取り出す。検索履歴には「法鍵士」という文字が残っていた。


昼休み、前の席の二人組が話していた都市伝説。

「声で鍵を紡ぎ出し、異形と戦う者がいる」という噂。普通なら笑い飛ばすような話だった。


なのに。


胸の奥で、何かが鳴った。


うまく説明できない。知らない言葉のはずなのに、「法鍵士」という音を耳にした瞬間、身体の深いところが激しく共鳴した。ずっとそこにあったのに気づかれなかった何かが、ようやく名前を呼ばれたような感触。


スマホを仕舞い、ジョウは空を見上げた。


オレンジから紫へと移り変わる夕暮れ。境界線のように色が混ざり合うその空を、ジョウはなぜかひどく懐かしい気持ちで眺めた。


――ふと、気づく。


空が、息を潜めている。


音が遠い。車の走行音はどこかに吸い込まれるように薄れ、景色の輪郭だけが妙に鮮明になっていく。


喉が鳴った。


いつもの、あの振動。カラオケで声が割れるときのような不快な感覚ではない。今日のは強烈だった。胸の奥まで響くような激しい震えが、内側からせり上がってくる。


立ち止まり、喉に手を当てる。


「……あ」


普通の声のはずだった。


だが、空気が揺れた。気のせいではない。ジョウの声が届いた先の空間が、水面のように微かに歪んだ。


やめた方がいい。これ以上踏み込めば、取り返しのつかないことになる。


身体はそう警告していた。しかし、足はすでに一歩、その先へ踏み出していた。


劇的な変化ではなかった。


音が消えた。最初からそこになかったかのように、車の音も、風の音も、自分の足音さえもが消失した。残ったのは、自身の荒い呼吸の音だけ。


ジョウは立ち尽くしたまま周囲を見回す。


色が抜けていた。彩度を完全に失った空。フェンスの錆も、アスファルトの黒も、雑草の緑も、すべてが薄い。現実の輪郭だけが残り、中身が抜け落ちたような光景。


ジョウは、この景色を知っていた。


どこか遠い記憶の底にある、身体が覚えている感覚。空気の重さ、音の消え方、色の抜け方。なぜか怖くはなかった。むしろ、喉の振動が強まるにつれ、全身の感覚が研ぎ澄まされていくような高揚感があった。


フェンスの角を曲がった瞬間、声が聞こえた。


「――っ、そっちに回れ!」


低い、切迫した声。ジョウは考えるより早く走り出していた。


二人の男がいた。


黒いロングカーディガンを纏った青年と、白いシャツの青年。その前に「それ」はいた。


形容しがたい存在。影のように澱み、周囲の光を吸い込むような塊が、いくつも蠢いている。


ジョウの喉が、今日一番の勢いで鳴動した。


二人が声を放った瞬間、彼らの手に光が収束する。黒いカーディガンの青年には群青の鍵、白いシャツの青年には銀白の鍵。


やはり都市伝説ではなかったのだ。声が鍵となり、武器となる。


ジョウの胸の奥で、何かが激しく呼応した。知っている。あの光を、自分は知っている。


「動くなって言ったんだけど?」


銀白の鍵を構えた青年の声が、鼓膜を震わせた。


いつの間にか、自分と異形の間に白いシャツの青年が割り込んでいた。左腕から血を滲ませているのに、その声はどこまでも穏やかで、静かな芯が通っていた。


「なんで……俺を庇うんだ」


「君が迷い込んできたからね。巻き込めないでしょ」


当然のように言い放ち、青年は背中でジョウを庇い続ける。


ジョウは自分の空の手を見つめた。喉の奥で振動が渦巻いているのに、使い方が分からない。ただの大学生の自分には、何もできないのか。


黒いカーディガンの青年が、重心を低く保ちながら群青の鍵を振るう。速い。だが、二対多数の状況は圧倒的に不利だった。


戦う術も、封印空間の意味も、自分の喉の振動の理由も分からない。けれど、全身が熱を帯びていくのだけは分かった。


出したい。


この声を、この光を、あの二人へ届けたい。


ジョウは右手で口元を覆い、声を放った。気づけばそれは、高くも低くもない、芯の響く声だった。


喉から淡いゴールドの光が溢れ出す。


ジョウは、その「鍵」を確かに握りしめていた。


その後の記憶は断片的だ。


三つの光が重なり合い、美しい和音となって異形を霧散させたこと。世界に色が戻ったと同時に、膝から力が抜けて座り込んでしまったこと。


「名前、聞いてもいい?」


白いシャツの青年が、ジョウの手元を見ながら問いかけてきた。


「……鍵城ジョウ。一年」


掌を見たが、鍵は消えていた。それでも、先ほど確かにそこに自分の声が形を成していた感触が残っている。

白シャツの青年が、目元まで優しく笑った。


「僕はヨシ。三年。よく『よっさん』って呼ばれてる」


壁に背を預けた黒いカーディガンの青年は、こちらを振り返りもしない。


「……トウゴだ。二年。」

「じゃあ、ごーさんで」

「……好きにしろ」


夕焼けが路地を橙色に染める。世界の膜が剥がれ、いつものキャンパスの喧騒が戻り始めていた。


ジョウは地面に手をついたまま、二人を見上げた。


まだ何も分からない。この能力も、封印空間も、なぜ自分がここへ導かれたのかも。


ただ、喉の奥の振動だけが、穏やかに続いていた。


――まるで、ずっと待っていた場所に、やっと辿り着いたと言わんばかりに。

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― 新着の感想 ―
Xからきました。 いいねやリポストありがとうございます! 鍵城ジョウって「じょうじょうじょう」だと思ったら「錠」じゃなくて「鍵」でしたねw 色のない世界に色が戻る。 いいですね。 続きを読んでみた…
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