表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/27

第十九話

「百花さん。すぐに新樹様の治療を行いたいので、使用人たちに指示を出してください。私は新樹様を寝室に連れていきますので」

「航平。耳元で騒ぐな、うるさい。百花もわめくな。大したことない……」


 口調だけはいつもの新樹だが、それでも彼の身体は血にまみれているし、彼が歩いた跡には点々と血痕が残されていた。


「はいはい、新樹様。こういうときだけは素直に私たちの言葉に従いましょう」


 新樹を宥めるような航平だが、新樹は聞いているのかいないのかわからない。目を閉じ、静かに呼吸をしている。


 百花は影月に医師を呼ぶよう伝えると、次は使用人に湯の準備をするよう指示を出す。それから清潔なシーツも必要だ。また手の空いている者には、汚れた場所を清掃するようにと伝えた。


 指示に従い動き出した使用人の姿を目にした百花は、急いで航平の後を追う。


「失礼します」


 ノックと同時に新樹の寝室に入り、新樹の着替えを用意する。


「百花さん、新樹様の着替えを手伝っていただけますか?」

「はい。今、お湯とシーツを用意しております。着替えは、浴衣でよろしいですか?」

「それは……そこにおいてください。まずは、汚れた衣類を脱がせます」


 新樹は反論する力もないのか、目を閉じたまま胸を上下させていた。

 百花は新樹の上着を脱がせ、シャツの釦をゆっくり外すが、その釦すら血に濡れ、ぬめってうまくつかめない。百花の指にも血がつき、鉄のにおいが一気に強まった。


「お湯をお持ちしました」


 湯の入った桶やシーツやらを抱えた使用人たちが慌ただしく部屋に入ってくる。

 百花や航平の言葉に従い、使用人たちは必要なものを置いたら、黙って部屋を出ていく。百花はシーツに湯を含ませ、新樹の顔の汚れを拭き取り始めた。


「百花さん、それは返り血です。新樹様本人は、大した怪我はしておりませんので、ぐっと勢いよく拭いてください」

「ですが、苦しそうです。もしかして、どこか傷口が痛むのではありませんか?」

「それは怪我が痛むというよりは、霊力を使い過ぎてぐったりしているだけです」


 霊力、と百花は口の中で呟いた。霊力を使い過ぎた状態というのが想像つかないが、全速力で走った後のような感じなのだろうか。息も上がって、身体も重くて動きたくないような、そんな状態。


 ただ新樹自身が怪我をしていないという事実は、百花の胸の奥を支配していた不安な気持ちを取り除いた。まずは新樹がゆっくり休めるように、身体を清めるのが先だろう。


 額にも赤黒い血液が付着しているが、時間が経ってしまったせいか渇いている。それを湯に浸したシーツでぬぐい取ると、新樹の瞼がぴくぴくと反応を示した。


「……百花? そこにいるのか?」

「はい、新樹様。私はここにおります」

「そうか……」


 百花の存在を確認した新樹は、再び目を閉じたが、その表情は先ほどまでの苦しそうなものとは異なっていた。


 顔を拭き終え、首元から胸元と、とにかく血にまみれた場所を丁寧に拭いていく。髪にも血液なのか泥なのかわからないものでべったり汚れており、絡まらないようにと注意深く拭きとった。


「お医者様が到着しました」


 影月が医師を連れて室内に入ってきた。

 新樹を汚していた血痕はあらかたぬぐい取った。百花は汚れたシーツを桶の中に入れると、桶ごと手にして立ち上がる。


「私は、片づけをしてまいります」

「お願いします」


 航平の言葉を背に受けた百花は、気を抜くとふらふらと倒れそうだった。


 あんなに弱々しい新樹を目にしたのは初めてだ。

 寝起きは悪いが、声をかけて身体をゆすればきちんと目覚めるし、目覚めたら「眠い」とか「起きたくない」とか、すぐに不満をぶつけてくる。


 だけど今の新樹は、そんな不満も口にする力がない。


「百花さん、お預かりします」


 百花の姿を見つけた女中の一人が、百花が手にしていた桶をそっと奪い取った。


「少し休まれたらどうですか? ひどい顔色をしております……」


 百花より少しだけ年上の女中は、いつも姉のように百花をかわいがってくれていた。

 ですが、と百花が言いかけたとき、彼女は小さく首を振る。


「旦那様がお目覚めになられたとき、百花さんに元気がなかったら心配なさいますから。当主様のためにも、今は休んでください」

「はい……」


 返事はしてみたが、ゆっくり休める気分ではない。


 百花は執務室に戻り、仕事机の前に座った。そこには先ほどまで読み解いていた、天璃華語の契約書が乱雑に置かれたままだ。仕事をすれば気がまぎれるかと思ったが、並ぶ文字を読もうとしても目を滑っていき、頭の中にはさっぱり入っていかない。


 椅子の背もたれに身体を預け、百花は天を仰いで深く息を吐いた。


 あんな新樹の姿を目にしたら、胸がつぶれるくらいに苦しい。両親を失ったときの喪失感とは別のやりきれない気持ちが、百花に襲いかかってくる。


 両親が亡くなったときは、そういった前兆もあったせいか、諦めもどこかに交じっていて、悲しいながらもそれを現実として受け止める余裕があった。


 だが、新樹がいなくなってしまったら――。


 それを考えるだけで、まるで半身をえぐられるような痛みを感じる。なぜここまで胸が痛むのかはわからない。


 やはりゆっくり休んでいるような状況ではないと判断した百花は、新樹の寝室へと向かった。室内には入らず、扉の前で医師の診察が終わるのを待った。


 この場所であれば、新樹に何かあればすぐに足を運ぶことができる。


 部屋からはぼそぼそと人の話し声が聞こえるが、それが何を言っているかまではわからない。

 百花は祈るような気持ちで、医師が部屋から出てくるのをいまかいまかと待っていた。


 どのくらいの時間、そこに突っ立っていたかはわからない。扉が開き、航平と医師が姿を見せたところで、百花は深く頭を下げた。


「百花さん、こんなところにいたんですか?」


 航平は目を見開いて百花を凝視してきた。


「はい。新樹様の様子が気になりましたので……」

「そんなに心配なさる必要はありませんよ」


 男性医師のやさしい声が、百花の心を荒波から救った。


「裂傷はいくつかありましたが、命に関わるようなものではありません。それよりも霊力の消耗が激しいので、今晩と明日は、ゆっくり休ませるようにしてください」

「はい、ありがとうございます」


 礼を口にした百花だが、それは医師の言葉が心に刺さった不安の棘を抜いてくれたからだ。


「百花さん。私は先生を送ってきますので、しばらくの間、新樹様の側についていてくれませんか? まだ少しうなされているようなので」


 申し訳なさそうに頼んできた航平に、百花は「まかせてください」とわざと明るい声をあげた。


 医師と航平がその場から立ち去るのを見送ってから、百花は新樹の部屋へと入る。少し湿度の高い室内に置かれている寝台では、新樹が眠っていた。苦しそうな呼吸音と、ときどき唸るような声が聞こえる。


 寝顔をのぞき込めば、頬を赤くして熱っぽい顔をしていた。

 百花は急いで冷たい水と手ぬぐいを用意する。水に浸した手ぬぐいをきつく絞って、新樹の額にのせると、苦しそうな呼吸が少しだけやわらいだ。それと同時に、眉間に寄っていたしわもゆるんだようだ。もう一枚の手ぬぐいを濡らし、顔に浮かぶ玉のような汗をぬぐう。


「……百花?」

「申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」


 目を閉じたまま、軽く顔を振った新樹は「いや……喉が渇いた。水……」と、ぼそりと呟く。


 百花は水差しを手にすると、それを新樹の口元へと寄せる。彼は目を開けず、そのままごくごくと喉を鳴らして水を飲むが、飲み干せなかった水が口の端からつつっとこぼれた。


「もう、いらない」


 顔をそむけて水差しから口を離した新樹は、寝ているのか起きているのかわからない。濡れた口元を拭いてあげると「百花?」と、まるで存在を確認するように名を呼んでくる。


「はい」

「そこにいるのか?」

「はい。おりますよ」


 すると掛布の下がもぞもぞと動き、新樹が手を伸ばしてきた。


「俺が眠るまで、手を握っていてくれ……」


 百花もよく、熱を出して寝込んだときは、母親に同じお願いをしたものだ。熱に浮かされ苦しんでいると、この世界に一人っきりにされたようで、異様に寂しさを感じてしまう。だから手を握って、母の存在を実感したかった。


「はい」


 新樹の手を握った百花は、空いているもう片方の手で、彼の頭をやさしく撫でた。かつて百花の母親が、百花をそうやってあやしていたときのように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ