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第十話

 朝は着物姿だった百花が洋装姿で戻ってくれば、女中頭の美代も目を丸くした後、目じりにしわを刻む。


 新樹はどこか人を寄せ付けない雰囲気をまといながら、航平と共に部屋へと向かったようだ。百花もついていこうとしたが、新樹はそれを断り「おまえも休め」と冷めた声をかけただけ。


「あの……今日は朝からありがとうございました。こちら、お土産です。みなさんで……」


 百花は礼を口にしつつ美代に土産を手渡すと、彼女は笑顔を作りながらも眉をひそめる。


「あら、ありがとう。なんだい? デートはうまくいかなかったのかい?」


 他の者には聞こえないようにと、百花の耳元でささやく美代の声に、小さく首を傾げた。


「まぁ、旦那様は気難しいからね。でも、一晩経てばケロッとしていることも多いから、あまり気にするんじゃないよ。今日はもう、ゆっくりお休み」


 美代にいたわりの言葉をかけられた百花は、なぜか目の奥がツンと痛んだ。

 私室に戻った百花だが、荷物を置くと、どさっと畳の上に倒れ込む。


 百花は仕事が不規則で新樹に振り回されることも多いせいか、狭いながらも個室を与えられていた。物書きするための文机と小さな本棚が置いてあり、布団を敷けばいっぱいになってしまうような小さな部屋だ。


 それでも慣れた部屋に戻りい草のにおいを嗅いだら、一気に疲れが襲ってきて、立っているのも嫌になってしまった。


 だが着替えて布団を敷かねば、ゆっくり休めもしない。それにこのワンピースも手入れしなければならないだろう。


 このままではいけないと、重い身体をなんとか起こし、よろよろと立ち上がる。押入れを開けて、布団を引っ張り出した。これさえ出しておけば、あとはなんとかなる。


 それから着替えのためにワンピースに手をかけたが、そこではっとする。洋装は着物と違って、背中に(ホック)(ボタン)がついているのだ。つまり、一人では脱げない。


 誰かに頼もうかと思ったが、この時間、他の使用人たちはまだ自分の仕事をこなしていて、部屋には戻ってきていない。


 茫然と突っ立ったまま「どうしよう、どうしよう」と悩んでいたが、結局、百花が頼れるのは新樹しかいない。


 それに、新樹には渡したいものがある。


 鼓動が急に速くなったような気がしたが、大きく深呼吸をしてから、先ほど菓子店で買った缶入りの菓子を手にした。


 新樹の部屋の前に立ち扉を叩くと、顔をのぞかせたのは航平だった。


「あれ? 百花さん。どうかしました?」

「あの……新樹様にお話があったのですが……」


 航平は困ったとでも言いたげに眉間に力を込めてから、室内に視線をやる。しばらくそうしたあと、もう一度百花に顔を向けて「今、新樹様の機嫌がすこぶる悪いんですよ。十段階で言うと、最大値の十です」と小声で伝えた。


「だったら、深山さんにお願いがあるのですが……」


 つまり航平は新樹に声をかけたくないらしい。不機嫌な新樹の八つ当たりを受けてしまうからだろう。となれば、百花は航平に頼るしかない。


「私にですか?」


 自身を指差した航平は、目を大きく見開き、調子の外れた声をあげた。


「はい……着替えようと思ったのですが、この服が脱げなくて……背中の鈎を外していただけないでしょうか」


 ごほっと航平が咽て、わざとらしいくらいの咳ばらいをする。


「う~ん、ちょっとそれは私には……あぁ、美代さんを呼びましょう」


 他の使用人は仕事中で、彼女たちの手を煩わせるのは申し訳なくてここに助けを求めに来たというのに、わざわざ女中頭を呼ぶだなんて。


「航平、うるさいぞ。誰が来たんだ!」


 部屋の奥から、新樹の鋭い声が飛んできた。航平から聞いたとおり、決して機嫌がいいとは言えないような声色だ。苛立ちと怒りと、そういった負の感情が交じり合った声。


「新樹様、申し訳ありません。百花さんが……」

「はぁ? なんで俺に言わないんだ。すぐに通せ」


 大げさに肩をすくめてから、航平は百花に部屋に入るようにとうながした。


「失礼します」


 内心、びくびくしながら新樹の私室に足を踏み入れた百花だが、どうやら新樹は寝台で横になっていたらしい。


「もしかして、おやすみになられていたのですか? 申し訳ありません」


 機嫌が悪いのではなく、気分が悪かったのではないだろうか。それを百花が聞き間違えたのかもしれない。


「いや……」


 額を押さえるようにして起き上がる新樹を目にしてしまうと、タイミングの悪いときに来てしまったと、後悔が込み上げてくる。


「それで、なんの用だ」

「あっ、その……大したことではないんです。だから、具合が悪いのなら後にします」


 百花はいつだって蛙だ。蛇に睨まれてしまったら、動けない。逃げ出せるだけまだマシである。


「おい、行くな」


 百花が後ずさろうとすれば、新樹の手が伸びてきて、手首を掴んだ。突然の出来事に驚いた百花は、抱えていたクッキーの缶をぽとりと落とした。


「それは、なんだ?」


 新樹が目ざとく見つけ、寝台から降りて拾おうとするが、百花はそれを制す。


「あ、申し訳ありません」

「いや……それよりも、それはなんだ?」


 怪訝そうに目を細くした新樹の視線からは逃げられない。


「あの……どうぞ」


 百花は拾ったクッキー缶を新樹の前に両手で突き出した。


「俺に?」


 不意を衝かれたように、新樹は目をきょとんとさせるが、その表情はいつも大人びた振る舞いをする彼のものとは異なり、年相応のもの。


「はい。今日、買い物に付き合っていただいたお礼です。新樹様がこちらのクッキーが好きだとおっしゃっていたから」

「だから、あのとき……?」


 まるで答え合わせするような新樹の言葉に、百花は頬に熱をためて頷いた。


「そうか……ありがとう」


 今までの尖った声色とは異なり、やわらかな声が百花の耳をふわりと刺激した。


「お言葉ですが、新樹様。百花さんからの贈り物、中味は食べ物のように見えますね。まさか食べずに取っておこうとか、そんな馬鹿なことは考えておりませんよね?」


 今まで静かに控えていた航平の言葉割り込んできて、新樹はむっと頬を膨らませる。


「おい、航平。おまえ、もう少し空気を読めよ! なんなんだよ」

「新樹様の機嫌が直ったように見えたので、確認の意味で声をかけてみました。ですが、すっかり機嫌は直ったようですね。ありがとうございます、百花さん」


 航平から礼を言われても、百花からしてみればなんのことやらさっぱりわからない。


「あの……新樹様。実は、もう一つだけ、お願いがあるのですが……」


 百花が言いかけたところで、航平には察する何かがあったようで「百花さん、それは駄目です」と止めに入る。


「はぁ? なんで航平が知っていて、俺がそれを聞くのは駄目なんだよ」


 みるみるうちに、新樹の表情が曇っていく。


「いったい、何があったんだ? 百花、言ってみろ」

「あ~あ~あ~」


 航平は百花の声を遮るようにわざとらしい大声をあげたが、新樹に「うるさい」と一喝され、渋々と口を閉じた。


「あの……私も休みたかったので、着替えようと思ったんです。洋装は、背中に鈎や釦があるものが多いんですね」

「ああ、そうだな。正面から見たときに、整って見えるように作られているらしい。特に女性ものにはそういったデザインの服が多いと聞いている。ドレスとかもそうだろ?」


 新樹の解説に頷きながら聞き入る百花は、やっとの思いで本来の目的を口にする。


「だから、その……この服も背中に鈎があって、私、一人では脱げなくて……」


 恥ずかしいと思いながらも、他に頼れる人間がいない以上、新樹に頼むしかない。


「後ろの鈎を外していただけませんか?」


 寝台の上に座る新樹の身体がピシっと固まり、何か言おうと唇を震わせるものの、それが言葉になって出てくる様子はない。


「新樹様、落ち着きましょう」


 まるで暴れ馬を落ち着けるかのように、両手を上下に振る航平だが、「だから、言わんこっちゃない……」と、呆れた声が聞こえたような気がした。


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