婚約破棄された回数、五回。すべて同じ令嬢の策略だったと気づいたとき、王国の貴公子たちはもう手遅れだった
婚約破棄された回数は五回。もう一度増えても、きっと慣れる——そう思っていた。
リンデン伯爵邸の自室で、私はそっと窓の外を眺めていた。
春の庭園は華やかな花々に彩られているが、私の心は晩秋の枯れ野のように冷えている。
「ベアトリーチェ」
父の声に振り返ると、リンデン伯爵の顔には複雑な表情が浮かんでいた。
喜びと不安、そして申し訳なさが入り混じったような。
「六度目の縁談が来た」
六度目。
その言葉を聞いて、私の胸に浮かんだのは期待ではなかった。諦めだった。
「お相手は……シュヴァルツェン公爵のご子息、エドヴァルト様だそうだ」
公爵家。
シュテルン王国に三つしかない、王家に次ぐ最高位の名門。
本来なら伯爵家の娘が縁組できる相手ではない。
けれど私は知っている。これは厚遇ではない。憐れみだ。
五度も婚約破棄された「呪われた令嬢」を引き取ってくれる貴族など、もはや存在しない。
父がどれほど奔走して、この縁談を得たのか——想像するだけで胸が痛んだ。
妹のエリーゼの縁談にまで影響が出始めている。「呪われた令嬢の妹」という烙印は、十五歳の少女には重すぎる荷だ。
これ以上、家族に迷惑はかけられない。
「ご迷惑でなければ、お受けいたします」
私は淡々と答えた。
父の顔がほんの少し、強張った。私の声に感情が欠けていることに、彼は気づいているのだろう。
「ベアトリーチェ……」
「大丈夫です、お父様。今度も、きっと……」
大丈夫ではないことくらい、分かっている。けれど、どうすればいいのか分からない。
六度目の婚約は、また壊されるのだろう。それが私の星回りなのだから。
翌日、エドヴァルト・フォン・シュヴァルツェンが挨拶のために訪れた。
応接間で私は彼を待った。
淡い亜麻色の髪を控えめに一つにまとめ、質素だが仕立ての良いドレスを身につけた私は、できるだけ目立たないように——これ以上失望させないようにと、そう思っていた。
扉が開き、彼が入ってきた。
濃い栗色の短髪。深い青色の瞳。
長身で引き締まった体格は文武両道を思わせる。
端正な顔立ちだが、威圧感はない。むしろ穏やかな印象を与える青年だった。
「初めまして、ベアトリーチェ・フォン・リンデン様。エドヴァルトと申します」
丁寧な挨拶。
ああ、この人も社交辞令で始めるのだろう。そして数週間後、何かの噂を耳にして——
「五度の婚約破棄について、お聞きしてもよろしいですか?」
思考が止まった。
今まで、婚約者となる男性たちは二種類に分かれていた。
「過去は気にしない」と表向きは言う者と、最初から偏見を持っている者。
でも、こんなふうに真っ直ぐ尋ねてくる人は——誰もいなかった。
「……何を、お知りになりたいのですか」
「全てです」
エドヴァルトは静かに言った。
その青い瞳に浮かぶのは、好奇心でも蔑みでもなく、ただ真実を知りたいという意志だった。
「私はあなたを調べさせていただきます。五度の婚約破棄、その全てについて。不快に思われるかもしれませんが、真実を知りたいのです」
「……お好きになさってください」
私は淡々と答えた。
何を調べても構わない。何も出てこないから。
いや、何かが出てきても——もう慣れているから。
「何も出てきませんが、何かが出てきても、もう慣れていますから」
自嘲的な笑みを浮かべた私に、エドヴァルトはじっと視線を向けた。
その瞬間——彼の青い瞳に、ほんの一瞬、何かが走った。
怒り、だろうか。
でもそれは私に向けられたものではなかった。もっと漠然とした——理不尽な現実そのものに対する、静かな憤りだった。
「……本当に、あなた自身に問題があると、そう思っておられるのですか?」
「五度も婚約破棄されれば、そう考えるのが自然でしょう」
「違う」
彼は静かに、けれど断定的に言った。拳が微かに握られていた。
「五度も婚約破棄が続くのは、自然ではありません。むしろ不自然だ。だから私は調べる。必ず真実を見つけます」
その言葉に、私の胸が——ほんの少しだけ、震えた。
そして、凍りついていたはずの心のどこかで、小さな火が灯った。
不自然。
そうだ、不自然なのだ。五度も続くのは。
——なぜ、私は今まで「自分が悪い」としか考えられなかったのだろう。
ほんの一瞬だけ、この人の調査の行方を知りたいと思った。もう期待しないと決めていたのに。
エドヴァルトの調査は、驚くほど迅速だった。
公爵家の情報網を使い、彼は過去五人の元婚約者たちに接触した。
そして私も、彼に求められて、五度の婚約破棄の記憶を語った。
一度目。十七歳の春。相手は侯爵子息フリードリヒ・フォン・ブレンナー。
彼は華やかで自信に満ちた青年だった。
私たちの婚約は、両家にとって理想的な縁組だとされていた。
婚約式の準備は順調に進んでいた。招待状は発送され、私のドレスも仕立て上がっていた。
けれど式の三日前、突然の噂が流れた。
「ベアトリーチェは使用人の男と密通している」
根も葉もない嘘だった。
私は誰とも密通などしていない。でも、噂はあっという間に広がった。
婚約式の会場で、大勢の貴族たちの前で、フリードリヒは私を糾弾した。
『お前のような不貞の女と、俺は婚約などできない! 今すぐ婚約を破棄する!』
彼の声は怒りに震えていた。
会場がどよめいた。視線が私に突き刺さった。
何が起きたのか分からなかった。ただ呆然と立ち尽くし、視線が刺さるのを感じながら、私は泣くことしかできなかった。
友人たちは離れていった。誰も私を信じてくれなかった。
十七歳の私には、何が起きているのか理解できなかった。
ただ、世界が崩れていくのを感じていた。
二度目。十八歳の夏。相手は騎士団副団長カール。
彼は真面目で実直な人だった。華やかさはないが、信頼できる男性だと思っていた。
カールとの婚約は、前回の失敗から立ち直った私にとって、新しい希望だった。
でも、また噂が流れた。
「ベアトリーチェは前の婚約者にまだ未練がある。不実な女だ」
今度こそ弁明しようと、騎士団の詰所を訪ねた。門前で取り次ぎを頼んだ。三時間、立ったまま待った。
返事は扉越しだった。
『騎士の妻にふさわしくない。婚約を解消する』
感情のない、事務的な声。扉は最後まで開かなかった。
顔すら見せてもらえなかった——その事実が、噂の内容よりもずっと深く、私の胸を抉った。
その頃から、私は自分を責めるようになった。
私が悪いのかもしれない。何か、私に問題があるのかもしれない。
夜、一人で泣いた。誰にも相談できなかった。
三度目。十九歳の秋。相手は魔法学院の教授ヴィルヘルム。
彼は学識豊かで、穏やかな人だった。
彼との婚約のために、私は必死に勉強した。
歴史も地理も数学も、彼の専門分野を学び、少しでも役に立てるようにと。
夜遅くまで書物を読み、試験も受けた。学院長からも優秀だと認められた。
けれど流れた噂は「魔力を偽装している、学歴詐称だ」。
学院長立ち会いのもと、ヴィルヘルムは婚約を破棄した。
「学院の体面がある」と。
必死に積み重ねた努力が、全て否定された。
その日から、私は自信を完全に失った。
何をしても無駄なのだと、そう思うようになった。
四度目。二十歳の冬。相手は辺境伯次男ルートヴィヒ。
彼は穏やかで、野心のない人だった。
本来なら伯爵令嬢の私が辺境伯次男と婚約するのは格下婚だが、もう選べる立場ではなかった。
ルートヴィヒは花が好きで、婚約の日に野の花を一輪くれた。「花屋で買うのは恥ずかしくて」と耳を赤くしながら。
彼と過ごす時間は静かで、温かかった。これなら噂が来ても——大丈夫かもしれないと、僅かに思った。
噂は「リンデン伯爵家は没落寸前、持参金目当てで近づいている」。
ルートヴィヒの家族が反対し、彼は渋々婚約を破棄した。
彼は謝罪の手紙を送ってきた。「申し訳ない」と。短い手紙だった。でも便箋が少し皺になっていて、書いては丸め、書いては丸めた跡があった。
ルートヴィヒは優しかった。ただ、家族に逆らう勇気がなかった。
もう泣かなかった。ただ黙って受け入れた。
感情が麻痺していくのを感じていた。
五度目。二十一歳の春。相手は男爵家当主オスヴァルト。
最も格下の相手だった。それでも私には相応しいのだと、そう思っていた。
噂は「呪われている、関わると不幸になる」。
迷信深いオスヴァルトは恐れおののき、婚約を破棄した。
最後の対面で——彼は、後ずさった。
私が一歩近づくと、彼は二歩下がった。視線を合わせようとしない。手が震えている。まるで私が瘴気を纏っているかのように。
人扱いすら、されなかった。
何も感じなくなった。怒る気力も、悲しむ気力も残っていなかった。
諦めだけが残った。
——そして今、六度目。
「エドヴァルト様の番です」と私は彼に言った。
「次はどんな噂が流れるのでしょうね」
けれど彼は首を横に振った。
「次の噂は流れない。なぜなら——」
彼は私の目を真っ直ぐ見つめた。
「全ての噂の出所を、突き止めたからです」
一ヶ月後、エドヴァルトの書斎で、私は調査結果を聞いた。
机の上には、五枚の紙が並べられていた。
それぞれに、噂の伝播経路が図解されていた。
「五度の婚約破棄、全てに共通点がありました」
エドヴァルトは静かに語り始めた。
「第一回の密通の噂。最初に広めたのは、リンデン伯爵邸の元使用人でした。彼は買収されていた」
私の手が震えた。
「彼の証言を得るまでに一週間かかりました。最初は口を割りませんでした」
エドヴァルトの声に、微かな疲労が滲んだ。
「四度足を運びました。三度目までは門前払いです。四度目に——私は公爵の名ではなく、自分の名で頼みました。『頼む。真実を知りたいだけなのだ』と」
彼はそこで一瞬、言葉を切った。
「……五度目を待っている女性がいるんです。五度、裏切られて、それでもまだ微笑んでいる人が。その人のために——どうか力を貸してください」
私の胸が詰まった。
「彼は泣きながら全てを話しました。金銭を受け取り、偽の噂を流すよう指示されたと」
「第二回の未練の噂。出所は社交界の下級貴族夫人。彼女もまた、金銭を受け取っていた。ただし——この証人は一度証言した後、何者かの圧力で行方を晦ましていました。見つけるのに二週間かかった」
「第三回、第四回、第五回——全て同じ構造です。誰かが金を払い、噂を流させていた。そして証人たちの多くが、事後に口止め料を受け取っていた」
エドヴァルトは五つの図を指差した。
それぞれの噂が、異なる人物から発信されている。
でも、全ての線が——一つの名前に収束していた。
「そして——全ての買収者に繋がる人物が、一人だけいました」
彼が告げた名前に、私の思考が真っ白になった。
「マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク。あなたの幼馴染です」
嘘だ。
マルガレーテは、私の友人だった。
五度の婚約破棄のたびに、誰よりも先に慰めに来てくれた。
『ベアトリーチェ、辛かったでしょう。大丈夫、次はきっと上手くいくわ』
優しい声。優雅な笑顔。
慰めの言葉をかけながら、彼女は私の手を握ってくれた。
その温かさが、どれほど私を支えてくれたか。
「証拠は揃っています」
エドヴァルトは、買収された使用人たちの証言書を示した。
全てに、マルガレーテの名があった。
「彼女は十五歳の頃から、あなたに嫉妬していたそうです。何でも器用にこなすあなたが、許せなかった。そして十七歳、あなたの最初の婚約を知ったとき——彼女は行動に出た」
エドヴァルトは一拍置いた。
「一度目は、半ば衝動だったのだと思います。でも——成功してしまった。婚約が壊れ、あなたが泣き崩れ、マルガレーテが真っ先に慰めに来た。……彼女はそのとき、優しくしながら胸がすく思いを味わった」
吐き気がした。
「二度目以降は計画的でした。三度目からは手口が洗練されている。証人の選び方、噂の内容、タイミング——回を追うごとに巧妙になっています。彼女にとって、あなたの婚約を壊すことは——もはや習慣になっていた」
違う。違う。
マルガレーテは私の友達だった。幼い頃から一緒に遊んだ、大切な——
「五度全てが、彼女の策略でした」
エドヴァルトの言葉が、胸に突き刺さった。
「あなたは何一つ悪くなかった。全ては一人の人間の悪意によるものです」
私は——泣いていた。
五度の婚約破棄で、私は泣かなくなったはずだった。感情を失ったはずだった。
でも今、涙が止まらなかった。
マルガレーテに怒鳴りつけたいわけではなかった。殴りたいわけでもなかった。
ただ——あの温かい手が、嘘だったことが。
五度の破棄のたびに握ってくれた手が。『大丈夫、次はきっと上手くいくわ』と言いながら、次の破壊をもう計画していた手が。
その手の温度を、私は信じていた。心が壊れかけた夜に、何度もあの温かさを思い出して——耐えた。
それが全部、嘘だった。
胸が引き裂かれるとは、こういうことなのだと知った。
けれど、涙の中で——ほんの小さな光が見えた。
五年間、自分を責め続けてきた。
何が悪かったのか。どうすれば良かったのか。
夜ごと自分に問い続け、答えが見つからないまま、自分を削り続けてきた。
でも——違ったのだ。
私は、何も悪くなかった。
エドヴァルトに言われたからではない。証拠を見せられたからでもない。
五年間ずっと、心のどこかで感じていた。「おかしい」と。「こんなに続くのは不自然だ」と。
でもその声を、自分で押し殺していた。誰も信じてくれないから。自分で自分を信じることすら、怖かったから。
今、私は自分の声を聞く。
——私は悪くなかった。
この言葉を、初めて自分自身に許すことができた。
「ベアトリーチェ様」
エドヴァルトが静かに手を差し出した。
「私が必ず、全てを明らかにします。あなたの名誉を回復させます。そして——」
彼の青い瞳が、真っ直ぐ私を見つめた。
「六度目の婚約は、必ず守ります」
その言葉が——ほんの少しだけ、私の心を温めた。
春の大舞踏会。
シュテルン王国の主要貴族が一堂に会する、社交シーズン最大の催しだった。
調査結果を得てから二週間後、エドヴァルトは舞踏会を断罪の場に選んだ。五人の元婚約者全員がこの舞踏会に出席することを、彼は事前に確認していた。
私はエドヴァルトの婚約者として、初めて公の場に姿を現した。
淡い水色のドレスを身につけた私に、貴族たちの視線が集まる。
「呪われた令嬢だ」
「六度目の婚約者とは、公爵家も物好きだな」
囁き声が聞こえる。いつものことだった。
でも今日は——エドヴァルトが隣にいる。
「大丈夫ですか?」
彼の問いかけに、私は小さく頷いた。
会場の一角に、見慣れた姿があった。
マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク。
艶やかな黒髪を完璧に整え、華やかなドレスを身につけた彼女は、社交界の華だった。
彼女はこちらに気づき、優雅な笑顔を浮かべて近づいてきた。
「あら、ベアトリーチェ。六度目の御縁談ですって? 今度こそ上手くいくといいわね」
その声は、いつもと同じだった。
優しくて、温かくて——嘘に満ちていた。
「マルガレーテ様」
エドヴァルトが彼女に声をかけた。
「これから少々、皆様にお話があります。あなたも、ぜひお聞きください」
「まあ、何かしら?」
マルガレーテは首を傾げた。その表情には、まだ余裕があった。
エドヴァルトが壇上に上がった。
会場がざわめく。公爵子息が何を話すのか——皆が注目した。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。本日は、ベアトリーチェ・フォン・リンデン様の名誉に関わる重大な事実を、ご報告させていただきます」
会場が静まり返った。
「ベアトリーチェ様は五度の婚約破棄を経験され、『呪われた令嬢』と呼ばれてきました。しかし——その全てが、一人の人間による計画的な策略でした」
どよめきが広がった。
「第一回。密通の噂。出所は買収された使用人でした」
エドヴァルトは証人を呼んだ。
老いた使用人が震える声で証言する。
『お金をいただいて、嘘の噂を流しました。指示をくださったのは——マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク様です』
会場が騒然となった。
マルガレーテの顔色が、ほんの少し変わった。
「第二回。未練の噂。これも買収された下級貴族の夫人によって広められました」
次の証人が呼ばれる。
年老いた貴族夫人が、震える声で語った。
『金銭的に困窮していたとき、マルガレーテ様が助けてくださいました。その代わりに、噂を流すようにと……』
「第三回。詐称の噂。第四回。金目当ての噂。第五回。呪いの噂——全てです」
次々と証人が呼ばれた。下級貴族、使用人、商人。
彼らは皆、同じことを証言した。
『マルガレーテ様に頼まれました』
『金銭を受け取りました』
『嘘だと知っていましたが、断れませんでした』
エドヴァルトは噂の伝播経路を示した図を掲げた。
全ての線が、一点に収束している。
その中心に——マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルクの名前。
「マルガレーテ・フォン・ヴァイスブルク。あなたが五度の婚約破棄を仕組んだ張本人です」
会場の視線が、一斉にマルガレーテに向いた。
彼女は——まだ笑っていた。
「何のことか分かりませんわ。わたくしがベアトリーチェに、そんなことをする理由がありますか? わたくしたちは幼馴染で、親友なのですよ?」
その声は優雅だった。完璧な演技だった。
「理由ならあります」
エドヴァルトは静かに言った。
「嫉妬です。何でも器用にこなすベアトリーチェ様が、あなたには許せなかった。十五歳の社交界デビューで、彼女が好評を博したとき——あなたの中で何かが壊れた」
「それは——」
「五度の破棄のたび、あなたは真っ先に慰めに行った。友人を演じることで、罪悪感を打ち消し、優越感に浸っていた。違いますか?」
マルガレーテの顔が、みるみる青ざめていく。
「証拠は全て揃っています。買収の記録、証人の証言、噂の伝播経路——全てがあなたを指している」
「嘘よ!」
マルガレーテの声が、初めて乱れた。
「わたくしは何もしていない! 証拠だなんて、でっち上げに決まっているわ! ベアトリーチェが——あの女がっ!」
会場がどよめいた。
「あの女さえいなければ、わたくしが一番だったのに! 何でもできて、みんなに好かれて——あたしより目立って——!」
一人称が崩れた。
「わたくし」が「あたし」に変わった瞬間、マルガレーテの仮面が剥がれ落ちた。
「五回も! 五回も邪魔してやったのに! なんでまだ、あんたは——!」
錯乱した彼女の叫びが、全てを証明した。
会場は静まり返った。誰もが、真実を理解した。
そして——私の視界の隅に、見覚えのある姿があった。
フリードリヒ・フォン・ブレンナー。
私の最初の婚約者だった男性。
彼は顔を覆っていた。その肩が、小刻みに震えていた。
「俺は……噂一つで……」
彼の声が聞こえた。
「あんな素晴らしい女性を……確認もせず……手放した……」
カールの姿もあった。かつての騎士団副団長。
彼は壁に背をつけ、直立不動の姿勢で——動かなかった。騎士として鍛え上げた体が、微動だにしない。だが顎の筋が何度も引き攣っていた。
「扉越しに突き返した。三時間待っていたのに。……騎士の誇りだと。真実から逃げることが誇りか。俺は騎士の名に値しない」
ヴィルヘルムは蒼白な顔で、何度も眼鏡を押し上げていた。指先が震えて、うまくかからない。
「彼女は私の講義を誰よりも熱心に聞いていた。試験の答案は学院でも五指に入る出来だった。……それを『詐称』の一言で切り捨てた。学院の体面? 体面を汚したのは私のほうだ」
ルートヴィヒは俯いたまま、手の中で何かを握りしめていた。褪せた押し花——かつて彼がベアトリーチェに渡した、野の花と同じ種類だった。
「家族に反対されて、一度も——一度も抗えなかった。あの花を渡した時の気持ちは、嘘じゃなかったのに」
オスヴァルトは震えていた。後ずさった自分。化け物でも見るように逃げた自分。呪われていたのは——彼女ではなく、噂を信じた自分のほうだった。
彼らは皆、打ちのめされた表情をしていた。
真相を知ったとき——もう手遅れだった。
私の心は、もう彼らには向いていない。
隣にいるエドヴァルトに、全てを委ねていた。
舞踏会の後、マルガレーテは社交界から追放された。
ヴァイスブルク侯爵家は多額の賠償金を支払い、公式に謝罪した。
リンデン伯爵家の名誉は回復し、「呪われた令嬢」という異名は消えた。
エリーゼの縁談にも、ようやく光が差し始めたと父が言っていた。姉の呪いが解けたのだと——妹は泣いて喜んだそうだ。
数日後、元婚約者たちが、謝罪に訪れた。
最初に来たのはフリードリヒだった。
「ベアトリーチェ様……あの頃の俺は、愚かでした」
彼は深く頭を下げた。
かつて私を糾弾した男は、今は後悔に満ちた瞳をしていた。
「噂一つで、確認もせず、あなたを傷つけた。あなたの誠実さ、優しさ、全てを疑った。許してくれとは——言えません」
カールも来た。直立不動で。騎士が罰を受ける時の姿勢だった。
「騎士として、真実を見極めるべきだった。あの日——あなたは詰所の前で三時間待っていた。俺は扉の向こうにいた。知っていた。……それでも開けなかった」
ヴィルヘルムも謝罪した。彼は一冊の本を差し出した。
「あなたの試験答案を、実は保管していました。学院でも五指に入る出来だった。学院の体面のために切り捨てたのは——この答案ではなく、あなたの未来でした」
彼らの謝罪は、心からのものだった。
でも——
「もういいのです」
私は穏やかに答えた。
「あの経験がなければ、エドヴァルト様と出会えなかったのですから」
フリードリヒの目が見開かれた。
そして——彼は静かに微笑んだ。
諦めと、祝福の入り混じった笑みだった。
「……そうですか。それなら、良かった」
彼は去っていった。二度と振り返ることなく。
断罪から一週間後の夕暮れ。
庭園で、私はエドヴァルトと二人きりだった。
春の花々が咲き誇る中、彼は私の隣に立っていた。
「六度目の婚約は、破棄されずに済みそうですね」
彼の言葉に、私は——笑った。
心から笑ったのは、何年ぶりだろう。
五度の婚約破棄を経験してから、私は笑顔を忘れていた。でも今、頬が勝手に緩んで、止められなかった。
「ええ。……もう、壊されませんね」
丁寧語が少し崩れた。自分でも驚いた。でも、不思議と恥ずかしくなかった。
エドヴァルトが優しく微笑んだ。その笑顔が、とても温かくて——胸の奥から、何かが込み上げてきた。
「では、次は結婚式の準備ですね」
「……はい」
涙が一筋、頬を伝った。
五度の婚約破棄で流した涙とは、まるで違う。温かくて、軽くて、胸が痛くない涙だった。
ああ——泣いても、怖くない。
五度の傷を乗り越えて、私は初めて「幸せ」を信じることができた。
私は悪くなかった。
その言葉を、今なら心から——自分自身に言える。
六度目の婚約は、私の人生を変えた。
呪いではなく、祝福として。
そして——エドヴァルトの手が、そっと私の手を包んだ。
温かかった。
この温かさが、これからもずっと続くのだと——私は、もう怖がらずに信じることができた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今作のテーマは「繰り返される加害と、それを見抜く人」です。ベアトリーチェは五度の婚約破棄を経験して、自分を責め続けました。「私に問題があるのだ」と。これは現実のいじめや嫌がらせの構造と同じです——被害者が自分を責め、加害者は友人のふりをして近くにいる。マルガレーテが毎回「辛かったでしょう」と慰めに来る場面は、書いていて一番ぞっとしました。慰めるその手が温かいから信じてしまう。心が壊れかけた夜に何度もあの温もりを思い出して耐えた——それが全部嘘だったと知る瞬間を、怒りではなく「喪失」として書きたかった。
この作品でいちばん大切にしたのは、五人の元婚約者がそれぞれ違う形でベアトリーチェを傷つけた、その「違い」です。カールは騎士団の詰所で三時間待たせて扉越しに事務的な一言で終わらせた。ルートヴィヒは婚約の日に野の花をくれるような優しい人だったのに、家族に逆らえなかった。オスヴァルトは彼女を見て後ずさった——人扱いすらされなかった。五人が同じように「捨てた」のではなく、それぞれの弱さで傷つけた。だからこそ、五度目に感情が麻痺してしまう過程がリアルになると思いました。
エドヴァルトの調査シーンも力を入れた場面です。最初の証人には四度足を運んで、三度門前払いを食らった。公爵の名を捨てて自分の名前で頭を下げた。二人目の証人はマルガレーテの圧力で姿を消していて、見つけるのに二週間かかった。この「泥臭さ」がないと、エドヴァルトがただの完璧な王子様になってしまう。彼は超人ではなく、ただ諦めなかった人です。
元婚約者たちの後悔も丁寧に書きたかった場面です。カールが直立不動で顎を震わせながら「三時間、待っていてくれたのだろう」と言う——彼はずっと知っていたんです。ヴィルヘルムがベアトリーチェの試験答案を持ってきた場面は、「捨てたのに捨てられなかったもの」の象徴として書きました。彼らは悪人ではなかった。ただ、真実を確かめる勇気がなかっただけ。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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