どうやらここにはいられないようです
「はち!」
「おはようございます」
この世界の名前ができた。
名付け親は志朗様だ。
あれ以来、壱のところにいるんだけど、毎日のようにやってくる。暇なのかな。
「これあげる」
にこやかな口調でビワの実の入ったカゴを差し出した。
しかもいっつも手土産付きで、はっきり言って高感度が爆上がりだ。
なんかいい匂いもするし。
(柔軟剤?何の匂いだろ)
『ふふ。”じゅうなんざい”ってなあに?』
『服を柔らかくするやつ』
『ふうん?志朗のは薫物よ。趣味はいいわね』
姫との脳内会話も絶好調だ。
初めはびっくりしたけど、慣れると便利で心強い。
毎日、壱について川へ行く。
「遠くへ行くなよ」
「うん、この辺で摘んでるね!」
彼が魚を獲ってる間、川原で野草を集めるのが日課だ。
この世界に来る前の記憶はほとんどないけど、私は野草を愛してたみたい。
「ノビルだ!」
頭の中にはあらゆる野草情報が詰まってる。
この日も夢中で野草を集めてたら、草むらからガサガサと音がした。
(え、なに……?)
……蛇とか?
鉢で見えないから余計に怖い。
じわじわとそのまま後ろへ下がった瞬間――
「ワン!」
草むらから犬が飛び出してきた。
「わーーーっ!」
「うわぁっ!」
思わず大声を上げて立ち上がった瞬間、向こうからも叫び声が聞こえた。
ふり返る余裕もなく、そのまま一目散に駆け出す。
壱の漁師小屋まで戻って戸を閉めた。
『なによ騒々しいわねぇ』
『だってっ!いぬ……犬が!』
肩で息をしながら言うと姫に思い切り笑われた。
失礼じゃない?
誰にだって怖いものあるよね?
犬、というか動物が苦手だ。大きいほどダメ。
たぶん前世とかで、噛まれたり踏まれたり追いかけられたりしたんだと思う。冷や汗出るもん。
勝手に帰ってきたから、心配した壱に怒られた。
しょぼんとしてたらさらに追い打ちが――。
「お前しばらく外出歩くな」
夕飯を食べながら壱がボソッと言う。
「えっ!なんで?!」
「犬に会っただろ」
「そうなの!!突然ワンッてねっ――」
「妖怪って噂になってる」
「え……」
なんで?鉢のせい?
――ひどくない?
こわかったのはこっちなのに!
姫がまた笑ってる。
「これ以上噂になったら面倒だ」
「面倒……?」
「ビビってるやつは何するかわかんねぇからな」
「え……」
なにされるの?
村八分にされたり?
石投げられたり……?
――犬に追い回されたり……?!
(……これはまずい)
『あらおいしくない?何が?』
銛を補修しながら考えてたら、姫がのんきに聞き返す。
『そうじゃなくって、このままだと私、お荷物じゃん!』
『そうお?』
そうだよ。そうに決まってる。
居候でご飯の世話をしてもらい、私の分まで余分に魚を獲らせて――。
妖怪騒ぎで、さらに迷惑をかけてるじゃないか。
『気にすることないわよ』
『気にするよ!』
姫って、ときどき感覚バグってない?
(何かできることないのかな?)
銛の次は網の破れを繕いながら考える。
野草の調理や道具の修繕はしてるけど、そんなんじゃお腹は膨れないし全然足りない。
「戻った」
壱が魚をたくさん携え川から戻ってきた。
「大漁だね!」
「そろそろ梅雨時期だからな」
「あ!保存するの?」
思いつくまま聞いてみる。
漁はできないけど加工作業とかなら手伝えそうじゃない?
「保存?」
「えーっと。開いて洗って、干して燻して、みたいな……?」
「……」
あれ、違う?
「ごめん。違った?」
「いや。初めて聞いたから」
「あ、そうなの?開いて干すと傷みにくいでしょ?煙で燻すとさらに持つはずだけど……」
「うま……」
試しに燻した魚を一口頬張り、男二人の声が重なった。
見よう見まねで作った燻製だけど、まあまあの出来みたい。
レシピもちゃんとメモしてあるし、いろいろ試してみよう!
嬉しくって心の中でダンスしてると、志朗様が言った。
「……はち」
「はい?」
「壱とも相談したんだけど」
なんだか深刻めいた口調だ。
なになに。良くない話?
「――うちに来ない?」
「”うち”……?」
うちってどこ?
「うちの邸で働きなよ」
「邸……?なんで――」
聞きかけて思い当たる。
「ひょっとして……」
(妖怪の噂がどんどん広がってるとか?)
「うん。これから暑くなるしね」
「暑く?」
どう関係あるんだろう。
夏は怪談話が盛り上がってくるのかな?
「行った方がいい」
壱が淡々と言う。
「なんで……?」
「……鉢かぶってるお前の世話すんの大変なんだわ」
『あら、そんな言い方しなくたって』
(まじか――!)
やっぱ燻製じゃぜんぜん足りなかった。
”暑くなる”とか、志朗様の謎の理由は、遠回しに「お前迷惑」って意味だったんだ……!
『そうかしら……?』
姫がのんびり何か言ってるけど、ショックで考えられない。
そんなに迷惑かけてたなんて――。
「……ごめんね。じゃあ行くね」
「いや……」
壱はそれ以上は何も言わなかった。
そんなわけで、"邸"で働くことになったんだけど……。
思いもしなかったんだ。鉢を失うことになるなんて。




