気付かないふり
教室の窓から差し込む午後の光は、いつもより眩しく感じられた。机に肘をつき、ノートに落書きをしながら、私は無意識に視線を横に向ける。そこにいるのはS。いつものように、誰にでも優しく微笑んで、軽やかに会話を交わしている。
私は息を呑む。いや、息を呑むような瞬間はもう、何度も経験しているはずなのに。Sを目にするたびに心がざわつく。だが、私の隣にいるこの空気には、何の特別な意味もないのだろう。Sはきっと、私を特別だとは思っていない——そんなことは、心のどこかで分かっている。
それでも、つい視線を追ってしまう。Sが笑うたびに胸がぎゅっと締めつけられ、誰かと話す声を聞くたびに、なんだか胸が熱くなる。どうして、こんなにも心を揺さぶられるのだろう。私の心の奥で、Sだけが特別な存在であることを否定できない自分がいる。
「A、何描いてるの?」隣に座るMが声をかける。私はとっさにノートを閉じ、顔を少し背ける。
「何でもない」——そう答えながら、頭の中ではSのことばかり考えていた。
授業が終わると、教室のざわめきの中でSが友人と話す声が耳に届く。Sの笑い声は、私の心に直接届くようで、胸の奥が疼く。どうして、ただそこにいるだけでこんなに苦しいのか。私は自分に問いかける。だが答えはいつも一つ——「好きだから」。
私は知っている。私がSを好きなのは、ただの暇つぶしや都合のいい存在だからじゃない。Sを見ているだけで、心が満たされるのは、Sが唯一無二だからだ。誰かで代用できるものじゃない。だから、誰でもいい訳じゃない——そんなことを、心の中で何度も繰り返す。
昼休み、廊下でSとすれ違う。Sはいつも通り、軽く手を振り、微笑んだ。私も自然に手を上げようとするが、ぎこちなくなる。声も出ない。心の奥底で、「近づきたい」と思う気持ちと、「近づけない」という現実が押し合う。
その瞬間、Sがふと振り返り、私に目を向けた気がした。心臓が跳ねる。けれど、Sは何も言わず、また友人の方へ歩き去る。私はその背中を見送りながら、自分の心を抑える。近づきたいのに、近づけない。触れたいのに、触れられない。
教室に戻り、席に座る。ノートの文字が手元で揺れる。私の中で、Sだけが特別であることは揺るがない。でも、それを言葉にできる勇気はまだない。私の胸の奥で、Sは遠く、けれど決して届かない場所にいる。
私は小さく、心の中で呟く。
「好きなのは、Sだから……誰でもいい訳じゃない」
その言葉を口に出す勇気はない。だが、心の奥でそれを繰り返すたびに、胸のざわめきは少しだけ落ち着く。今日もまた、Sは私にとって遠く、けれどかけがえのない存在であり続ける——そんな午後だった。




