ただいま、そして、いってきます
「おはよう、湊。今日はいい天気よ」
母の声が、階下から届く。
休職して三ヶ月。最初は布団から出ることすらできなかったが、今はこうして毎朝、窓を開けることができるようになった。
それでも、「職場に戻る」という言葉が心に触れるたび、胸がざわつく。息が浅くなり、視界が少しずつ狭まっていくあの感覚が、まだ残っていた。
ある朝、父が何気なく新聞を広げながら言った。
「湊が家にいてくれるから、静かで助かるよ。母さんも心強いってさ」
その言葉に、なぜか涙がこぼれた。
――何もしていない自分でも、誰かにとって“居てくれるだけでいい”存在なのか。
***
再び職場の近くを歩いたのは、それから二週間後。中に入るのは怖くて、向かいのカフェで温かい紅茶を頼んだ。震える手を押さえながらも、湊は自分に言い聞かせる。
――怖くても、ここに戻りたいって、心のどこかで思ってる。
***
復職初日。
玄関で立ち止まった湊に、母がエプロン姿で寄り添った。
「今日一日、全部できなくてもいいのよ。行って、戻ってこられたら、それで十分」
「……うん、いってきます」
ドアを開けた先には、懐かしい朝の空気があった。
歩き出す背中に、父の「気をつけてな!」、妹の「がんばりすぎないでねー!」の声が続く。
湊の心に、少しずつ光が差す。
“ただいま”と言える場所があるから、“いってきます”が言える。
今日の一歩は、昨日までの自分がくれた勇気だ。
そしてその一歩は、家族というぬくもりが、そっと背中を押してくれている。