(5)
風呂釜の内側を、洗剤を漬けた布でごしごしとこすりながら、わたしはアイビーとのやり取りを思い出して気恥ずかしくなった。
アイビーはわたしと「結婚を前提に同棲がしたい」などと言って、実際にわたしとのふたり暮しをスタートさせた、そんな人物だったが、四六時中熱心に口説いてくる……というわけではなかった。
けれどもふとした瞬間に、ああして「口説いている」としか表現のしようのない言葉をかけてくることがある。
わたしはそのたびにアイビーの言葉に戸惑って、赤面したり言葉に詰まったりしてしまう。
思えば、「魔女様」などとわたしを呼んで、侍っていた花の騎士たちは、みなそのような甘いセリフを口にはしなかった。
……わたしに好意なんてなかったのだから、当たり前のことだ。
けれども恋愛経験という文字の最初の一画目すら書けないようなわたしは、その不自然さに、あの瞬間まで気づかなかった。
多くのひとに好かれるような魅力が、自分に備わっていないことなんて、わかっているつもりだった。
だれかを本気で好きになったことなんてないくせに、だれかからの好意を求めていた。
だから、花の騎士たちにちやほやされて、思い切り舞い上がって、恥ずかしいことをしてしまった――。
彼ら花の騎士たちには悪いことをしたと思う。
好きでもない人間とベッドを共にするだけでも苦痛だっただろうに、わざわざおべっかを使ってわたしをちやほやしていたのだから、その心労を思うといたたまれない気持ちになる。
けれど、わたしからの謝罪なんていらないだろう。
わたしにできることといえば、彼らの人生に今後一切かかわらないことだけに違いなかった。
……気づいたのだが、わたしがアイビーの思考を理解できないと感じるのは、わたしがだれかを本気で好きになったことがないからかもしれない。
アイビーからの好意は、素直にうれしいと感じる。
けれどもその好意の理由だとか、根源だとかが見えてこないから、アイビーにわたしからも好意を返していいのかどうか、判断がつかない。
もし、アイビーのこれまでの行動の根っこにあるのが、わたしへの同情だとしたら?
わたしはまた、王宮にいたときと同じ過ちを繰り返すことになる。
それだけは避けたかった。
……わたしはどうしても後ろ向きになってしまう思考を、無理やり前へと向ける。
アイビーとふたり暮しを続けていれば、きっとどこかの瞬間で彼の本心が見えるときがあるかもしれない。
そのときに、もしアイビーのわたしへの好意の正体が同情だとわかれば、穏便に同棲を解消すればいいだけだ。
どうすれば「穏便に」同棲を解消できるかはわたしにはさっぱりわからなかったが、そのときになってまた考えればいいと、問題を先送りにしておく。
ついでにアイビーと同棲を解消して、わたしがどこへ行けばいいのかという問題も、棚に上げておく。
そう考えると、わたしにとって一番ラクな人生の選択は、アイビーの言葉に流されて、彼と結婚することなのだろう。
けれどもわたしはもう、同じ過ちを繰り返したくはない。
その決意の結果、とんでもなく苦労をする未来が待っているとしても、ためらいたくはない。
軟弱なわたしがそう腹を括るていどには、あのときの花の騎士たちの、気まずい表情とそれを見てしまったときの衝撃が、脳裏に焼きついて消える様子がないのだ。
しかし現実問題として、女性の働き口というものはほぼほぼこの国には存在しないらしい。
――いざというときは、エフェメラ様に恥も外聞もなく泣きつくという選択肢も取らないといけないのかな……。
将来について思いを馳せても、湧いてくるのはネガティブな想像ばかり。
風呂釜をごしごしとこする、単調な作業を続けていたのもよくなかったのだろう。
潔く風呂掃除を終えれば、少しだけ達成感で心が満たされて、単純だがうれしくなった。
この一軒家に引っ越してきて、意外とわたしはこういう細々とした家事が好きなことに気づいた。
掃除すればそのぶんだけ綺麗になるし、上手く食材を組み合わせて二品三品と料理を作るのは楽しい。
元の世界では家の中では息を殺して生きていたが、ここではそんなことをする必要がない。
どちらかと言えば、自分がインドア派だということにも気づいた。
特別、外出できずとも反発心を覚えたり、鬱屈を抱えたりすることはない。
つくづく、この世界にとってわたしは都合のいい存在なんだなと思う。
そしてこの異世界が、わたしにとって都合のいい世界だということも。
食材や日用品の買出しは、すべてアイビーがしてくれる。
アイビーは王宮勤めで、わたしたちの暮らすこの一軒家とを往復するあいだに市場に寄って買ってきてくれるのだ。
わたしはその品々を受け取り、日々家事をこなす。
最初はほぼ一日かけて諸々の家事を終わらせていたけれど、毎日反復を続けていれば効率化できるし、「今日はここはさっと済ませて明日に回そう」だなんて、手を抜くべきときもわかってくる。
そのうちに半日に満たない時間で、一日の家事を大体終わらせられるようになった。
もともとふたり暮らしだから洗濯物も少ないし、日中アイビーは家にいないからそのぶん家の中が汚れることもない。
日常を平坦だとか地味だとか思いはしたものの、家事に慣れを感じても、当初から感じていた楽しさはあまり薄れなかった。
余った時間は、アイビーから借りた本を読む時間にしている。
春の女神の加護とやらのお陰で、言語面で苦労がないのは大変にありがたかった。
アイビーが好んで収集している博物学の本から園芸を始めたりした。
わたしがこの世界の植物について興味を持っていることを食卓で話題に出したら、アイビーが園芸を勧めてきたのだ。
「洗濯物を干してもらってるからわかっているとは思うけれど、この家には結界魔法を張っているから、庭で作業しても大丈夫だよ。ただ熱中症には気をつけて」
そう言ってアイビーは次の日には通気性の高いつば広の帽子と、タオルやスコップ、土に苗を買ってきてくれた。
アイビーからそのようにお膳立てをされては園芸に着手しないわけにもいかず、しかしこれも存外とわたしには向いていた。
なにかしら、明確に目の前で結果が出る作業がわたしは好きなのだろう。
それと、ちまちまとした地道な作業も苦痛に感じない。むしろ楽しい。
……というようなことをアイビーとの食卓でまたとつとつと語れば、「じゃあ編み物とかも向いてるかもね」と提案された。
世の女性たちは家の中に留め置かれてなにをしているのかと言うと、レース編みや刺繍をするのだとアイビーが説明してくれる。
そしてまたアイビーが初心者向けの刺繍セットや、レース編みをするためのかぎばりを買ってきてくれる。
――余生を送るってこんな感じなのかな。
ちくちくと木ヅタ――アイビー――の刺繍を白いハンカチに刺しながら、まだ一八歳だというのにわたしはそんなことを考えた。