(3)
赤レンガの壁が美しい一軒家の内装は、外観のイメージそのままの落ち着いたものだった。
シックな家具は主張しすぎず、しかし見た目が寒々しくなりすぎないようにか、敷かれた絨毯は落ち着いたトーンながら色とりどりで、空間に華を添えている。
中古物件だと事前に聞いていたが、前の住人が綺麗に使っていたのか、はたまたリノベーションでもしたのか、内部に褪せたような汚れだとかは見受けられない。
「……きれいですね」
月並みな言葉がわたしの口からこぼれ落ちた。
素直に物件の印象を述べたが、なんだか嫌味なところがなかったかだとかが、妙に気になってしまう。
「家具はアイビーが?」
気になって、言葉を続けた。
アイビーとのあいだには、あまり沈黙を置きたくなかった。
アイビーは柔らかく笑って「いや」と否定する。
「前の住人が置いていった家具がほとんどだよ。足りないものは、勝手ながらこちらで買い揃えたけれど――」
「とっても、素敵ですね」
「ノノカが気に入ったならよかった」
アイビーがわたしの反応を気にしていることを察して、思わず彼の言葉を食い気味に答えてしまう。
とっさに、ちょっと失敗したと思ったけれども、アイビーはそんなわたしを咎めるようなことは言わなかったし、そういう雰囲気も出しはしなかった。
短い付き合いながらも、アイビーがそう短絡的に怒りや不快感を表明したりする人間ではないことは、わたしにだってわかっている。
それでもしつこい汚れみたいに、わたしの思考にしみついたネガティブな考え方は、そう簡単に消えるはずもなかった。
「ここで毎日過ごすわけだから。なにか欲しいものがあれば買い足していこう」
「今のところは……思いつかないです」
「そっか。もしなにか足りないものとか、欲しいものがあったら気軽に言って」
「はい……」
「それじゃあ次は二階にいこう」
経年のせいか、板を踏むとかすかに音が鳴るこげ茶色の階段をのぼり、アイビーに先導されて二階にある寝室を覗いた。
正方形に近い、大きなベッドがひとつ。クイーンサイズくらいだろうか。
大人ふたりくらいは余裕で寝転がれるベッドが、壁にくっつきながらも、部屋の中心部に近い場所にどんと置かれている。
「ここは共同寝室。ノノカの部屋にも寝室はついてるから、この部屋の出番はないかな」
「アイビーはどこで寝るの?」
「私の部屋にベッドを置いてて、そこで寝てる」
わたしがこの家に入るのは初めてのことだったから、つい「どこで寝るの?」だなんて聞き方をしてしまったが、アイビーはすでにこの屋敷に暮らしてしばらく経っているのだった。
「共同寝室があって、わたしの部屋にも寝室があるんですね?」
「そのほうがいいと思って。私たちは『共寝』をした仲だけれど、別にノノカが望んでしたことではないし」
「……そう、ですね」
アイビーの言葉に、あの日の、彼以外の花の騎士たちの気まずげな顔を思い出してしまう。
「望んでしたことではない」――。それはわたしも、彼らも同じことだった。
少し考えればすぐに思い至れるその事実を、なぜかあのときのわたしは、まったく頭の端にものぼらせていなかった。
「望んでしたことではない」……。その言葉が出てくるということは、アイビーにとっても共寝の一件はそうなのだろう。
それでもなぜかアイビーは、わたしと「結婚を前提に同棲したい」などと言ってきて、実際にふたり暮らしを始めようとしている。
やっぱり、その本心はよくわからない。
歳下の、世間に放り出せばすぐに野垂れ死にしそうな小娘を放っておけない、底なしのお人好しなのかもしれない。
アイビーは、わたしに恋しているというよりも、同情していると言われたほうがまだ理解できる。
また元の世界でも、恋愛感情だけが婚姻にいたるただひとつの理由ではないことは、わたしもわかっている。
近年では友達同士で結婚するだとか、あるいは結婚せずとも親しい友人同士で一軒家に同居するなんてトピックも耳にしたことがある。
けれども――アイビーは「結婚を前提に同棲したい」とわたしに乞うた。
春の女神によって与えられた加護のうち、いい感じに言語を翻訳してくれる力が、なにか不具合をきたしていない限り、アイビーが「同棲」という語を用いたという事実は揺るぎがない。
単に、「同居したい」というよりも「同棲したい」と恋愛感情を含ませたほうが己の主張が通ると思ってのチョイスかもしれない。
わかっているのは、わたしはアイビーのことをなにもわかっていない、ということだけだ。
「私の部屋は階段すぐ手前のところ。ノノカの部屋は一番奥。ああ、私の部屋も見ていく?」
「いやじゃないですか?」
「いやではないけれど……ノノカが見て、おもしろいかどうかはわからないかな」
「……『おもしろいか、どうか』?」
「本が並んでるばかりで、退屈かなって。ほぼ本しかないからね、私の部屋」
アイビーはそう言って、珍しく視線を少しだけ外して、居心地悪そうな顔をした。
けれどそうは言いつつも、わたしに自室を見せてくれる。
「全面本棚……」
思わずそんな言葉がわたしの口からこぼれ落ちた。
たしかに、アイビーが言った通り、「ほぼ本しかない」。
右を見ても左を見ても、奥を見ても本棚と、そこにぎっちりと収められた本の背表紙ばかり。
床にも本が重ねられて、見るからに不安定そうな塔がいくつもある始末。
「あの、地震とかはだいじょうぶなんですか?」
「地震? 天変地異か……起こったら、この部屋は大変なことになるだろうね」
わたしの懸念に対し、アイビーからはこれまた珍しく――わたしからすると――頓珍漢な答えが返ってくる。
どうやら春の国では地震というものは滅多なことでは起こらない災害のようだ。
それならば、部屋の中心部に「とりあえず置きました」とばかりに配置されたひとり用ベッドに寝ていて、本の雪崩や倒れてきた本棚で圧死する――というようなことは、まず起こらなさそうではある。
「……共同寝室、アイビーが使ったほうがいいんじゃ……」
「うーん、でも、本のにおいって安心するから」
世の中には本とか本屋のにおいを嗅ぐとトイレに行きたくなる――というようなひともいると聞いたことがある。
しかしアイビーはまったくそんなことはない様子。
当たり前だけれども、色んなひとがいるのだなと思った。
「気になる?」
「え?」
「背表紙、じっと見てるから……」
「え、ええと……どんな本を読まれるのかなって……」
初めに目に入ったのは、巨大な図鑑と思しき本だ。
背表紙に刻まれた文字を読む限りでは、海洋生物のフルカラーの図版が入った本だと察せられる。
わたしの質問に、アイビーは少しはにかんで、けれどもうれしそうな声で答える。
「もっぱら、博物学の本だね」
「博物学……動物とか、植物とか、鉱物とか?」
「そうだね。もちろん通俗小説とかもこの部屋にはあるけれど、だいたい大きなものが博物学の図鑑とかになるね。……意外?」
わたしはアイビーの、こちらの反応を探るような語調に、思わずまばたきをした。
「いえ……納得です」
「納得? それはどうして」
「えっと、共寝のときに色々とお話してくださったじゃないですか。星座の話とか、神話とか、この国の昆虫の話とか……。知識が豊富な方だなと前々から思っていたので、どちらかと言えば、意外じゃないです」
「そう……」
アイビーがふっと、軽く息を吐くようにして笑った。
「……私は騎士だから、そんな知識をつけるよりも剣の腕に邁進したほうがいいだなんて言われることもあるから、つい」
「でも……『花の騎士』は、剣の腕だけでなれるものではないとお聞きしましたが……」
「そうだね。まあ、なんていうか――やっかみだっていうのは、わかっているんだけれどね」
「やっかみ」
「うん」
アイビーは決して線の細い青年ではない。
その逆で、ふにゃふにゃのわたしなんかと並べば、その体を余念なく鍛えていることは、だれだってわかることだ。
実際に剣術も達者だと、花の騎士のひとりから聞いたことがあった。
そのまだ若いと言うより幼さの残る騎士は、アイビーが憧れの存在だとも言っていたから、そうして慕われるアイビーをやっかむ気持ちは、なんとなくわかってしまう。
たとえそれが、血のにじむような努力の末に手に入れたものであったと理解していても、人間は他者と比較することをやめられないものだ。
……わたしは圧倒的にだれかをやっかむ立場ばかりで、きっとだれかからやっかまれることなんてなかった。
だからと言って、アイビーの態度を嫌味に感じることもなかった。
アイビーはただありのままの事実を述べているだけだと、その声音が明瞭に語っていた。
「――アイビーにできないことって、ないように見えちゃうから、だからやっかまれるのかもしれませんね」
「できないこと、たくさんあるんだけどなあ。たとえば――ノノカの本心を見透かすこととか」
わたしはまた、素早くまばたきをした。
そんなわたしの顔を見て、アイビーは柔らかく微笑んだ。
「あのね、ノノカともっと一緒にいたくて同棲を提案したっていうのは、嘘じゃないよ」
「……見透かしてるじゃないですか」
「そんなことないよ。結構、あてずっぽう。でも当たったみたいだね?」
図星を突かれて、わたしは黙り込むことしかできない。
そんなわたしを見て、アイビーは今度は悪戯っぽく微笑んで、わざとらしく話題を変える。
「読みたい本があったなら言って? 何冊でも貸してあげるから」
「……考えておきます」
……そのあと新居で迎えた初めての夜は、アイビーのことばかり考えてしまって、よく眠れなかった。