(2)
……目の前には、赤レンガの壁が美しいこじんまりとした一軒家。隣には、アイビーが立っている。
赤レンガの壁を木ヅタが這っているのを見て、「アイビー」という名はこの世界でも「木ヅタ」という意味なのだろうかと、明らかに今考えるべきではないことに思いを馳せる。
わたしは今日から、この赤レンガの壁を持つ小さな一軒家で、アイビーと暮らす。
そう決まったのは一ヶ月近く前の話だったが、未だにその事実を並べ立てられても、吞み込むのには時間がかかる。
わたしが? アイビーと? 一軒家で? いっしょに? 暮らす? ……というような調子で、すべてのワードに疑問符をつけてしまいたくなる。
「……素敵なおうちですね」
赤いレンガの壁を素敵だと思ったのは事実だったけれども、わたしの口から出てきた言葉は実のないおべっかのようだった。
けれどもアイビーは気づいていないのか、はたまたそう思っても気づかないふりをしたのか、「気に入ってくれたならよかった」と、以前よりもやや気安い口調で返してくれる。
わたしは――今日からアイビーと、王都にある一軒家でふたり暮らしを始める。
……氷皇帝を退けた今、「魔女」のわたしはもう必要ない。
これまで暮らしていた王宮を出て、アイビーが褒賞として賜ったこの一軒家で、わたしは彼と暮らす。
アイビーはわたしよりも先にこの赤レンガの一軒家に引っ越していたから、もう荷ほどきは終わっていると言う。
「荷物はこれで全部?」
先ほど去っていった車から、玄関先に降ろされたわたしの荷物を見て、アイビーが問う。
わたしはそれに「はい」と答えた。
わたしが王宮を出るにあたって、持ち出したのは大きめのトランク四つ。
そもそも身に着けていた服以外に、なにも持たずにこの異世界へやってきたのだ。
それを考えると、トランク四つでも、わたしからすれば思ったよりも荷がある、という感想になる。
アイビーが抱いた感想は、また違うようだが。
「エフェメラ様が仕立ててくださった普段着と……いただいたアクセサリーくらいしかないので、これで全部です」
「あのひと、全然気が利かないでしょう?」――と言って困ったような顔をした、王妃様……エフェメラ様の優しげな顔を思い浮かべる。
エフェメラ様の言う「あのひと」とは、この春の国の王様で、つまるところエフェメラ様の夫のことである。
エフェメラ様はわたしがこの春の国にやってきたときから、ずっとわたしのことを気にかけてくださった方だ。
なにかと後ろ盾になって、陰になり日向になりわたしを守ってくださっていたことは知っているため、エフェメラ様には頭が上がらない。
異世界から「魔女」を召喚することに最後まで反対していたのもエフェメラ様だと聞く。
大変に慈悲深い方で、ゆえに王宮を出る……つまりその庇護から遠くなるわたしの身も心配されて、色々と餞別を贈ってくださったわけである。
……きっと、愛情深い母親というのはこういう感じなのだろうと思った。もちろん、エフェメラ様に直接そのようなことを言ったことはないわけだけれども。
さすがに貴金属や宝飾品を、という話になったときは固辞したのだが、結局エフェメラ様に説き伏せられて受け取った。
なにかあったときに換金できるからと言われると、あまり楽天的でないわたしは、辞退せず受け取る方向に傾かざるを得なかった。
わたしは「魔女」だ。この異世界ではそういうことになっている。
けれどもそんな称号を抜けば、わたしは賢くもなければ特別美しいわけでもない、一八歳の小娘。
手に職があるわけでもない小娘が、ひとり異世界に放り出されて生きていけるはずもない。
そう考えて、わたしはエフェメラ様からありがたく数々の品を受け取ることにしたのだ。
アイビーのことは、まだよくわからない。
「結婚を前提に同棲したい」と言われはしたものの、わたしは頭からその言葉を信じたわけではなかった。
アイビーのその言葉が発せられた背景を、わたしなりに想像する。
今年で二五歳になるというアイビーには弟妹がいるという話は本人から聞いていた。
とすれば、アイビーよりも歳下の異世界人の行く末を心配して――同情して、同居を提案したというのが一番筋が通る理屈ではないだろうか。
氷皇帝が退けられたことで、わたしの「魔女」としての力も弱まっているらしい。
氷皇帝がいない今、「魔女」は不要の存在だ。
そこへ氷皇帝を退けた英雄のひとりであるアイビーが、「魔女」と同棲したいなどと言い出したのは、王宮側からすれば渡りに船というやつだろう。
色々と、都合よく回っていることは、わたしにだってわかる。
けれどもわたしは、それに天邪鬼を発揮して抗うような性格でもなかった。
「……本当にいいんですか? せっかくの一軒家でしょう」
それでも、アイビーに問わずにはおれなかった。
アイビーと並んで、赤レンガの壁が美しいささやかな一軒家を見上げる。屋根は白いフチに、深いグリーンの色をしていた。
やおらそこから視線を外し、アイビーがわたしを見つめる。
「だから、ノノカと一緒がいいと思ったんだ」
引っ越すまでにアイビーとやり取りをする中で、わたしの名前から敬称はすでに取れていた。
それでも、アイビーと距離が近づいたような感覚はない。
「魔女」として、花の騎士たちを侍らせていたときは、距離が近かったような錯覚をしていた。
けれどもそんな魔法が解けた今となっては、アイビーとの心の距離は夜の森に放り込まれたかのように、まったく推し量れない。
「ノノカともっと一緒にいたいと思ったから、こういう提案をしたんだ。同情とかじゃないよ」
アイビーに心を見透かされたような気がして、ドキリとする。
けれどもアイビーはそんな緊張感を打ち消すような微笑みをすぐ浮かべて、冗談めいた語調で言葉を続けた。
「ノノカには絶対に無体を働かないと誓うけど、下心があるのは隠すつもりはないよ」
「下心、って……」
「幸せになるなら、ノノカと一緒がいいと思った。そういう我欲とか……まあ下心」
「……わたしは、それに応えられるかわからないですよ」
「うん。さすがにそれはわかってる」
そこで言葉が途切れたが、あまり居心地が悪いとは思わなかった。
春の国らしい、穏やかな陽気がそよ風に乗って、わたしたちのあいだを吹き抜けていく。
「幸せになって。約束よ」――王宮を出る際にエフェメラ様にかけられた、最後の言葉を思い出す。
わたしはそれに上手く返せなかった。
「……あの、それじゃあ、これからよろしくお願いします」
「うん、これからよろしく。できれば、末永く」
「それは、ちょっとわかりません……」
「あはは」
それは苦し紛れでも、皮肉でもない、うららかな春の空気みたいな、あたたかさのある笑い声だった。