黒い好奇心
2月の凍えるような寒さに包まれた土曜昼前。
私は演劇の稽古を終え、帰ろうと宇都宮始発の長い10両編成に乗った。東京まで向かうはずの電車内は、悲しいことに人は疎らで、静かで、冷たかった。
電車は関東平野の北端を駆け抜け、30分で小山に着いた。私含め少しの降りる客と、それの2倍くらいの乗る客とで、ホームは賑わっていた。
ただ一瞬が過ぎると、静けさを取り戻した。
桐生まで乗る両毛線の電車は、13時発。あと30分ある。というのに、もう電車はホームに止まっている。私は寒さをしのぐため、そそくさと電車のドアボタンを押し、車内に入った。
両毛線の古い銀色の電車には学生が一人と老夫婦のみ乗っていて、宇都宮より悲惨だった。
私はドアを閉め、空いている角の席に腰掛けた。長い10人掛け位の席だ。
車内は独特の暖かみを持ち、そして老夫婦の会話だけ響いていた。
私は携帯を開き、桐生までの暇を潰す。
発車までの間に他の乗客が数人乗り、その中の1人が私の対面に座った。
「この電車、山前行きますか?」
私は、突然聞かれた事に正直驚いた。対面に座っていた男だった。
「あ、あぁ、行きますよ」と答えた。正直、これが合っているかの確証は無かった。
これは自信をもって言えるが、両毛線の駅はろくに覚えちゃいない。だが昔から通学で使ってた路線であり、山前という駅は軽く覚えてはいた。
その男は大きなボストンバッグを床に置いた。柄入りの目立たない帽子を深くかぶっている。
それが何か奇妙な感じがした。普段の両毛線には絶対に居ない、そんな感覚だった。
「重そうなバッグですね」なんて言ってみる。
「え、まあ。」少し困惑した様に返事をした。その顔には動揺も見えた。
それ以降、会話は続かなかった。
車内は発車直前から混み始め、私の隣にも人が座り、立ち客も出た。
そして発車時間となり、電車は動き出した。休日の学生で少しばかり騒がしい車内に、懐かしさを覚えた。
1駅目の思川、2駅目の栃木とで乗客はかなり下車し、立ち客どころか隣に座った人さえ居なくなった。
車内に心地よいジョイント音と、少しばかり残った学生の声が響く。先の老夫婦はどこかで降りてしまったらしい。
そこで、やはり目が行くのはボストンバッグの男だ。彼は小山からずっと落ち着かない様子で、人目を気にしているようだった。
大平下、岩舟と更に人は降りてゆく。
同じ号車の乗客はさして近くにはおらず、両手で数え切れる程度には減った。
何か訝しい、不明瞭なこの男に対して、好奇心がだんだんと湧いてきた。怖いもの見たさにする肝試しの様に。
この『悪い好奇心』は昔からだった。よく首を突っ込んでは突っぱねられた。唯、好奇心による少しばかりの成功体験が、自らをこの性格に追いやったと今は思っている。
「お兄さん、両毛線乗るの初めてなんですか?」と、男の隙を見て話しかけた。
「あ…ええ。初めてだよ。」
「そうなんですか…今日は観光で?」
「いや、その足利の方に実家があって…」
「そうなんですね」
会話をしてみて、この男は40代位の風貌であることが分かった。
「今日はどちらから?県内ですかね、」
「…下館から、ですね」
「あら、下館から。」地理に疎い私には、下館がどこだか分からなかった。
「貴方はどちらから?」
「宇都宮です」
「あぁ、宇都宮でしたか」
いつまで経っても、この男は目を合わせなかった。そして、男の回答には毎回僅かながらの沈黙があった。それは気まずさによるものだろうと、私は勝手に理解していた。
こんなような無愛想な会話を続けていると、佐野に着いた。
ここでかなり下車して、残るは学生と御婦人の2名だけになった。
電車はまた、走り出した。
私の好奇心は、止まることを覚えなかった。
「山前にはいつくらいまで住まわれてたんです?」
「…覚えてないですね」
「あら、そんなに前でしたか」
「…はい」何か山前について聞くと、後ろめたい感じがひしひしと伝わってきた。
今、自分の中の好奇心が暴れ、相手を掴み殺そうとしているのがよく分かった。
「実家に何をしにいくんですか?」
ここで、今まで無い数秒に渡る沈黙があった。緊張の糸が私の首に掛かった。
「…実家に顔を合わせにね。もう居ないが」
緊張の糸が緩んだのが分かった。刹那、暴れる好奇心がやっと抑えられた気がした。そうして、胸が申し訳なさで一杯になった。
「そうだったんですか…つかぬことを聞いて申し訳ない」
「いいんだ」
電車はそうして富田に着いた。
ついには学生も御婦人もドアを開けて降り、車内は私と男、そして栃木の冷たい赤城颪に満たされた。
両毛線が富田に止まっている間、私も男も一言も喋らなかった。
膨張する好奇心とともに、恐怖心がせり上がり、緊張の糸が太く張っているのが分かった。
絶え間ない空調の音と共に、車掌の笛が聞こえた。同時に、男が辺りを見回したのが分かった。
閑古鳥の鳴く電車は、駅を普段通り出発した。
そして、「次はあしかがフラワーパーク」と放送が入った。
この車両には、誰もいなくなった。その事実が私の好奇心を刺激した。そうしてこの状況を愉しむ様に、次々と脳に言葉が浮かび上がってきた。
私は、私自身を止めることが出来なかった。目の前にある悦楽に手を伸ばす以外無かった。
「そのバッグの中、何入ってるんですか?重そうですけど」
「…ははっ」彼は嘲笑した。続けて、
「こっちおいでよ。私の横に。」彼は手で招いた。
私の本能は、やめろと叫んでいた。実際、手足は恐怖で震えている。
ただ、好奇心が命令する。「行け」と。
私は子鹿のような足取りで、男の隣に座る。
そして男は、初めて目を合わせたかと思うと、私の手首を掴んだ。
「お望みのものだろう?」男は囁く。
私の思考は石の様に固くなり、そうして恐怖心さえ感じなかった。目の前の光景に、総てを取られていた。
ボストンバッグのジッパーを開けると、ビニール袋が見えた。中は暗く、何が何だか分からなかった。男はまだ喋らない。
男は私の腕をぐっと持っていき、得体のしれないビニール袋に触れさせようとした。
その一瞬、建物や森林の影が無くなり、窓から日光が差し込んだ。
私が見たビニール袋は、はっきりと赤黒かった。それは、鮮明に、鮮明に映った。
はっと、好奇心が消えた。腕を一杯に引いて、そのままの勢いで床に倒れ込んだ。
男は笑っていた。私は声も出なかった。冬なのに、汗が有り余る程湧き出て来た。 逃げろ、本能がそう叫ぶ。しかし、腰が抜けて後退りしか出来ない。
息が荒い、焦点もろくに定まらない。
そこに好奇心など存在しなかった。あれほど私を突き動かしたものは何だったのか。
電車がブレーキを掛け、駅に停車する。
なんとか止まり切る前に、対角線の角席には到達が出来た。
あしかがフラワーパークでは、多くの観光客が乗ってきた。先程までの閑散ぶりが嘘のようだった。
私は感じたこともない恐怖に震えた。携帯を開くこともせず、ただ男の降りるはずの山前駅まで待ち続けた。絶対に見てはならないものが、視界に入らないように。
その場から動くことさえ出来ない。
山前までの11分間が一生のように感じられ、その長さと、日常に存在し得る狂気に噎せいだ。
時間は経ち、山前に着いたのが分かった。目の前のドアが開く音が聞こえる。
「いいかい、イギリスにはこんな諺があるんだよ。少しばかり変えてはいるが。」
男の声がした。私は聞き流そうとして、顔を背けた。恐怖以外の感情は無かった。
そうして発車の笛が聞こえた。
「好奇心は人をも殺す、とね」
ドアが閉まる音がした。そこからの記憶は無い。記憶があるのは、桐生駅をとうに過ぎた高崎駅からだった。
結局その日は誰にも相談に行かず、家に篭った。
明後日、ローカルテレビで演劇の廃材を不法投棄したとして、男が逮捕されたという事を知った。
中には血糊も混じっていたと聞く。
その一件以来、私の中の『悪い好奇心』は消え失せた。ただ今は、この世に生きる人間に畏れを持っている。
そして何よりも、あの男の渾身の演技は、私の心に釘を深く、それはもう深く刺している。
この作品は全くのフィクションです。
なろう初作。
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