再発 ──つまりは、どうして桜が一斉に散るのかって話──
『ここで豆知識ですが、日本で最もポピュラーな桜であるソメイヨシノはある時期に一斉に花を咲かせ、またほぼ同時期に一斉に散るという特徴を持ちます。これを利用して開花時期が予想されたり、桜前線なんて表現をされたりするくらいです。これは、現代日本で植えられているソメイヨシノが全てクローンであることに由来します。同族同士では子孫を残さない、一代限りの品種であったソメイヨシノは、江戸時代以降に全国に接ぎ木され……』
パンフレットを手に持ちながら、月野拓海はふわあと大きな欠伸をする。
暇に任せて読んでいた代物だが、やはりと言うべきかそんなに面白いことは書いていない。
もっとも「日本華道本流社主催・春の生け花祭り」などというお堅いイベントで配布されるパンフレットに、そこまで期待するのも酷だろうが。
──あー、普段ならスマホを弄るんだけどなあ。ここだとそういう雰囲気でもない。
うんざりとした気分になりながら、拓海はパンフレットを畳みつつ周囲を見渡す。
瞬間、この数時間で飽きる程見た光景が瞳の中に入り込んだ。
ドーム状の建物のあちらこちらに飾られている、豪勢な生け花。
その隣で得意満面の笑みを浮かべる出品者たち。
この二つの組み合わせが、数えるのも馬鹿らしくなるくらい乱立していた。
現在拓海が参加しているこのイベントは、伝統のある華道行事である。
拓海が祖父から聞いた説明によれば、とある華道好きな資産家の妻が主催するようにして開催され、そのまま現代まで続いているらしい。
主催者である日本華道本流社によれば、日本の伝統ある美と植物の心を見識ある者たちで褒め合うことで文化の発展を促す目的があり、その崇高さが国から認められて……うんぬんかんぬん。
簡単に言えば、金持ちの妻や娘が自分で作った生け花を自慢し合うイベントである。
拓海からすれば勝手にやってろとしか思えない無駄な行事だが、これでも権威とやらがあるのだから恐ろしい。
都内のドームを一日借り切って行うだけあって、会場はかなりの活気と豪奢な装飾に満たされていた。
そして当然のことながら、ここには出品者も見物客も金持ちしかいない。
ちょっと立ち止まって客の姿を眺めるだけで、元首相やら大企業総帥やらがバンバン通り過ぎていく。
中にはこれが華道のイベントだということを忘れたのか、花を見ずに名刺配りや挨拶回りに精を出す人たちもいた。
しかしこれに関しては、拓海に批判する資格はないだろう。
偶々資産家の祖父を持つというだけで、このイベントを見物することになった拓海は。
先程から誰とも話さず、かといって周囲を無視してスマートフォンを弄ることもせず、パンフレットを読んで時間を潰していたのだから。
──しかし、面倒なことを押し付けてくれたなあ。特に何をしろとも言われなかったのは幸いだったけど……ここで一日潰さないといけないって。
改めてその面倒くささに辟易した拓海は、眼の光を失った状態で会場の壁に寄りかかる。
自覚がないだけで意外と疲れていたのか、それだけでも随分と楽になった。
自然とため息が零れる。
昔から拓海のことを溺愛する祖父がこのことを頼んできたのは、三日前のことだった。
拓海が祖父に小遣いをねだることはあっても、祖父が何かを頼んでくることは非常に珍しい。
だからこそ耳を傾けたのだが、これなら聞こえないふりをした方が良かったかもしれない。
「要するに、爺さんがこのイベントに金持ちの一人として呼ばれてけど、急用ができて行けなくなったから代役として参加してほしいって話……それにしたって、華道に一切興味がない孫を行かせるかな?」
不満が大きくなりすぎたのか、ここに至ってついに拓海は声まで出していた。
おっといけない、と反射的に口を押える。
幸い、周囲の喧騒のお陰でこの愚痴は誰にも聞かれていないようだった。
華道にも資産家同士の付き合いにも関心がない拓海だが、それでもこのイベントの雰囲気をむやみに悪くする気はない。
財閥総帥の祖父には普段から世話になっている──というより、孫にダダ甘なのをいいことにたかりまくっている──こともあって、無難にこの代役を乗り切りたいという気はあった。
問題は、無難に過ごすにしても暇すぎることだったが。
──人脈づくりなんかは別に指示されていない……かといって、コソコソ外に出て行って悪評が立つのもアレだ。スマホを取り出していい雰囲気でもないし。結局、我慢して適当に周囲と会話しながら時間を潰すしかないか。
当たり前の結論に辿り着いてから、拓海は再び周囲を見渡す。
どこか、暇潰しの会話相手になりそうな出品者はいないかと思ったのだ。
拓海の場合、その選定に関しても気を遣う必要があった。
理由は単純で、拓海が若い未婚男性だからである。
ついでに言うなれば、こういう世界では未だに血統が異様に重視されているから、という事情もあるだろうか。
財閥総帥の孫という立場はやはり色々と魅力的なのか、拓海はこういう場で厄介な人間に絡まれることが多かった。
具体的には、「是非ウチの娘とお友達に!」「そして月野グループと取引を!」なんてことを言ってくる資産家が多いのである。
拓海には婚約者のような存在がいないため、その手の誘いは無限に存在していた。
現に今だって、壁に寄りかかる拓海のことを何人かの人物がチラチラと見てきている。
それは娘の写真を取り出そうとする中年男性だったり、おずおずとこちらに話しかけようとする令嬢本人だったりした。
彼らに一言話しかけたが最後、拓海はどこぞのお嬢様たちの自己アピールを聞き続ける羽目になるのだろう。
──僕に言わせてもらえれば、時代錯誤の愚かな血統主義としか言いようがないんだけど……今時、金持ち同士で政略結婚なんて。しかもまだ高校生の子ども相手に。
そんなことを言ったらいよいよ迷惑だろうな、と思って拓海は苦笑する。
そして、改めて話しかける相手を探した。
流石に出品者と談笑をしていれば、そこに割って入ってくるなんて失礼なことはしないだろうという打算があったのである。
──あそこのお婆さん……は純粋に華道に詳しそうだな。そっちの話をされたら受け答えどころじゃないし、やめとこう。あちらのおばさん……は娘同伴か。シームレスに娘の紹介をされそうで嫌だなあ。
内心で碌でもない品定めをしながら、拓海は話しかける出品者を選んでいく。
そして不意に。
彼は、会場の一画で視線を止めた。
この広い会場でも、とりわけ隅っこのスペース。
その場所に、小さな壺と枝ぶりの良い桜が飾られていた。
疑いようもなく、今回のイベントのために用意された華道作品の一つである。
しかし、この作品は他の作品とは少しばかり変わっていた。
というのも、作品周囲に殆ど人がいないのである。
このイベントは資産家同士の交流会という側面もあるため、作品の周りでは参加客が出品者と談笑しているのが常だった。
現に拓海の周囲では全員がそう振舞っていて、各作品を覆い隠すほどに人が集まっている。
しかしどういう訳か。その桜の花の前には一切の人がいなかった。
強いて挙げるとすれば、壺の近くにぽつんと立っている女性はいる。
恐らくあの作品の出品者だろう。
だが、その出品者も相当変わっていた。
──彼女、中学生か?普通にセーラー服を着て……どこの家の女性だ?
明らかに幼い容姿を目にして、拓海は疑問を覚える。
出品者として中学生が参加すること自体は、別段珍しい話でもない。
拓海自身、まだ高校生の身でありながらイベントに参加している。
しかしその出品者が、着飾ることもせずに公立中学校のセーラー服を着たまま立っているというのはかなり珍しかった。
加えて、彼女の周囲には付き添いの親や使用人の姿も無い。
──僕みたいに見物客ならともかく、この手の行事の出品者側が一人参加っていうのは……何なんだ、あの子。
他の作品が様々な意味で盛況な中、一人で桜の花を飾る少女。
不必要までに豪華な和服が並ぶというのに、セーラー服一丁で佇む姿。
自然と興味を惹かれた拓海は、いつしか壁際を外れて彼女の元へと向かっていた。
「……お綺麗な桜ですね。ソメイヨシノですか?」
不躾に疑問点を聞くのもどうかと思って、一先ず花の方を褒めてみる。
実のところ拓海に桜を愛でるような感性は無かったが、この世界にはお作法というものがあった。
事実、誰とも話さず下を向いていたセーラー服の少女は、嬉しそうに顔を上げてくる。
「は、はい……お好きですか?桜」
「まあ、はい。でも桜が大嫌いって人、そもそもにして少ない気もしますけど」
少しだけ混ぜっ返してみると、その通りだと思ったのか彼女はクスクス笑う。
間近で見てみると、それなりに容姿の整った少女だった。
地味なセーラー服のせいで悪目立ちしているが、他の令嬢のように着飾れば随分と化けるだろう。
「しかし、桜の傍は少々お寂しいですね。そんなに問題ある作品には見えませんが……」
出品者の少女を観察しながら、拓海は気になっていたことを聞く。
こうして少女と話している最中も、作品周囲には人の姿が無かった。
先程まで拓海を横目で見ていた連中も、まるで何も無かったかのように視線をそらしている。
いくら何でもこれは尋常ではない、と既に拓海は察していた。
さながら、会場全体がこの少女と桜のことを無視しているようである。
学校の教室ならともかく、公的なイベントでこのようなイジメめいたことが行われているというのは、既に一つのミステリーだった。
「ああ、それは……私の家が関係しているんだと思います。その、どこに行ってもこんな風ですから」
「どこに行っても?」
「そ、それより……ええと、この桜を見て何か感じませんか?」
そこで、少女は無理矢理に会話の内容を転換する。
あまりの急回転だったため、話の流れは殆ど切断されていた。
その強引さに目を瞬かせつつ、拓海は一応受け答えをする。
「何か、とは……?」
「その、メッセージというか……何といいますか、桜を見て特別に思うことがないか、教えて欲しくて」
「メッセージ?いや、何も思いませんけど。桜だなあ、と感じるだけで」
訳が分からないまま、正直に答えた。
瞬間、眼前の少女が落胆したような顔をする。
期待が外れた、と言いたげに。
拓海としては、不快に思っても良い態度だったかもしれない。
しかし、不思議とそんな感覚は無かった。
彼女の瞳が必死さを帯びていたからだろうか。
「……どういうことです?この桜を見た人間に対して、何か期待するリアクションがあったんですか?」
だからこそ、会話を打ち切らずに問いかけてみる。
すると少女は、自分がかなり奇特な振る舞いをしていることにそこで気が付いたらしい。
唐突に慌てた様子になって、こんな説明を付け足した。
「す、すいません。実はその、私……とある事情でこの桜を見た人の反応というか、桜に対してどんな感じ方をするかを調べていて」
「桜に対しての感じ方?」
何でまた、という感情が顔に出たのだろう。
拓海の表情を見た少女は、一層慌てた様子になる。
説明に窮した様子で、わたわたと手を震わせていた。
──何なんだ、この子……。
そこでふと、拓海は彼女の胸元に取り付けられているネームプレートに視線をやる。
思えば名前すら知らなかったので、確認しておきたかったのだ。
──「朱院」?……珍しい名字だな。
シュイン、と読むのだろうか。
この会場にいるのだから、資産家の家系だとは思うのだけれど。
どんな家だったか思い出そうとして────途端に、拓海の脳裏をよぎる記憶があった。
「朱院家って……まさか、あのバラバラ殺人の?」
その単語を告げた瞬間、少女の動きがピタリと止まった。
だが、それも数秒の事。
どこか観念したように、少女はコクリと頷く。
「はい、その朱院です……申し遅れました。私、朱院沙羅と申します」
「ええっと、月野拓海と申します……そうか、貴女があの朱院家の」
こんなところで会うとは、と拓海は驚きつつも自己紹介をする。
なるほど確かに、他の資産家に無視されるはずだと思いながら。
────朱院家のことを簡単に説明すれば、華道における名家である。
その始まりは江戸時代初期に遡るとされ、現代まで脈々と血統を存続させてきた。
かの一族が日本の華道に残した業績は、並大抵のものでは無いとされている。
しかしそれだけなら、拓海が朱院家の名前を知ることは無かっただろう。
どれだけ華道の世界で有名だろうが、一般社会での知名度は低いというのはよくあることだ。
朱院家もこの例に漏れず、多くの人は四年前までこの家系について知らなかった。
そんな朱院家が全国区の知名度を獲得したのは────四年前に起きた、バラバラ殺人が原因だった。
被害者は、当時の朱院家当主を含む男女。
朱院家当主の男性、その弟、そして両者の母親にあたる老女の三人。
この三人はある日、家に押し入った一人の女性によって惨殺された。
当主は両手両足を切り取られ、屋敷のあちこちに放り捨てられていた。
その弟、つまり朱院家の次男は斧で頭を割られた後、全身をナイフでめった刺しにされている。
一番悲惨だったのが老女で、ご丁寧にノコギリを使って解体されていたという。
最早その有様は人間の死体というよりも、腐りかけのサイコロステーキと呼ぶ方がイメージに近かった。
骨の一片に至るまでハンマーで潰されていたというから、犯人の執念は尋常ではない。
当然というべきか、このバラバラ殺人事件は日本中の注目を集めた。
そしてそのお陰か、犯人はすぐに捕まる。
事件よりもずっと前に離縁されていた、次男の妻────かつては朱院家の一族だった女性が、返り血塗れで近くの路上を歩いているところを警察に確保されたのだ。
取り調べは迅速だった。
その手法、及び動機に日本中が注目した。
何故、離婚した次男の妻が事件を起こしたのか。
彼女からみて元夫、元義兄、元姑にあたる存在をどうして惨殺したのか?
誰もが気になっていただろう。
しかし生憎と、その答えは誰にも与えられなかった。
取り調べの最中、犯人が舌を噛み切って自殺したが故に。
そう、この犯人は自殺したのだ。
何も言わず、何も打ち明けずに。
当然ながら、様々な憶測が流れた。
離婚のことで逆恨みをしたのではないか、いや結婚していた頃にDVでも受けていたんじゃないか、犯人は犯行直前にずっと介護してきた親を亡くしたそうだから、それが影響しているのでは。
果てはデマや陰謀論まで飛び出しつつ、事件は容疑者の自殺という形で片が付いたのだった────。
──それ以降はニュースでも見たことが無かったけど……生き残り、いたのか。
幽霊でも見たような気持ちになって、拓海はまじまじと沙羅のことを見つめる。
無礼な仕草ではあったが、見られる方も慣れているのか特に非難の言葉は無かった。
それどころか、解説までついてくる。
「私は、殺害された朱院家当主の一人娘に当たります。まだ中学二年生ですけど……今は、母と二人暮らしをしていて」
「朱院家ご長男の娘、ということですね?あの事件を生き残った……」
「はい……犯人から見れば姪っ子だ、と言えば満足でしょうか?」
ある種挑発的に問いかけられ、拓海は苦笑を浮かべる。
どうも、こちらが野次馬根性的に事件のことに興味を抱いたのがバレているようだった。
恐らく、この四年間何度もこんな質問をされてきたのだろう。
「すみません。どうしてもショッキングな事件だったもので、つい質問をしてしまって……」
「いえ、私もその好奇心を利用してこんな作品を提出している立場ですから」
偉そうなことは言えません、と無表情で返される。
それを見て、拓海はまた彼女に興味を持った。
今の言い方からすると、この桜の花が持つ意味が変わってくる。
「詳しい事情はよく分かりませんが……貴女は要するに、四年前の事件について何か調べているのですか?だからその活動の一環として、このような行事にも参加していると?」
直接的に問いかけてみると、沙羅が分かりやすく言葉に詰まったのが分かった。
初対面の相手に、こうも突っ込んだ質問をされるのは想定外だったのか。
しかし、最初に奇妙なことを言ったのは沙羅自身でもある。
その負い目があったせいか、割合にすんなりと彼女は拓海に自分の事情を明かした。
「その通り、です……私、叔母さんの動機を調べていて」
「動機?」
「はい。私はそれを知ることができるはずなんです……だって私、犯行直前の叔母さんに会っているんですから」
──会っている?犯行直前に?
予想外の発言に、拓海はその場で目を見開く。
その驚愕に構わず、沙羅はポツリポツリと自らの事情を明かしていった。
<朱院沙羅の証言>
小さい頃の私は、非常に満ち足りた生活をしていたと思います。
両親は優しくて、祖母や叔父もとても穏やかな人で。
勿論朱院家の一人娘として、物心つく頃から華道の勉強をさせられていましたが、決して苦にはしていませんでした。
因みに後から聞いたんですけど、親族の優しさには理由があったそうです。
何でもそれまでの朱院家では、中々子宝に恵まれていなかったらしくて。
不妊治療などで色々と苦心した末に私が生まれたので、それはもう大層可愛がってくれたのだとか。
そのせいなのか、私の親族は写真を撮るのを趣味としていました。
成長記録をつけたかったんでしょうね。
ある程度成長してからの私は、そんな写真を引っ張り出して鑑賞するのを楽しんでいたくらいです。
実際、当時の写真には私の知らない親族の姿も多くありました。
特に叔父などは、どういう訳か数年おきに結婚と離婚を繰り返していて──そんなに女遊びをする性格では無かったと思うのですが──写真を見るたびに奥さんが変わっていました。
当時の祖母の写真は苦み走った表情のそれしかないのですが、これはひょっとすると叔父のことで心を痛めていたからかもしれません。
何にせよ、そうやって昔の家族写真を見る中で知ったんです。
後にバラバラ殺人の犯人となる、叔母さんのことを。
叔父が初めて結婚した相手のことを。
その人は、坂東羽白さんという方でした。
写真に映っている時には、朱院羽白という名前に変わっていましたけど。
叔父が大学時代に出会った人だそうで、恋愛結婚の末に結ばれたとのことです。
ただ羽白叔母さんは、その、あまり良家と呼べるようなご家庭の出身では無かったそうで。
恋愛結婚だったこともあって、色々と祖母とは揉めたそうでした。
祖父がずっと前に亡くなってから、当主の座は長男である父が継いでいたんですけど、やはり当主の母である祖母の発言力は大きかったですから。
最終的に、叔父が押し切る形で結婚はしたんですけど。
最初の揉め事が後を引いたのか、ある程度してから離婚してしまったんです。
丁度、私が生まれて少し経ってからのことだそうなので、私は覚えていないのですが……。
何にせよ、私は羽白叔母さんのことは写真でしか知らないまま過ごしました。
家の中でも、次男の離婚した元妻の話なんてしていませんでしたし。
やがて叔父も再婚と離婚のサイクルを止めてくれたので、そんな過去も無かったかのように振る舞っていましたから。
だけど、あの日。
私が十歳の誕生日を迎えてすぐの春。
分かりやすく言えば、事件の前日。
母が突然、私に羽白叔母さんの元に会いに行くように言ってきたんです。
羽白叔母さんが住んでいるという家の地図と花束を渡して、会いに行って欲しいと。
勿論、これには理由があります。
当時の週刊誌とかにも出ていましたけど、羽白叔母さんは当時、親を亡くしたばかりでした。
彼女は叔父さんと離婚した後、実家の方で親の介護をして過ごしていたそうなんですけど、病状が回復することなく両親を亡くされていたんです。
だからあの花は、母が用意した贈答品だったんでしょうね。
中身は見ていなかったんですけど、花束の根元には香典も包んでいたのかも。
離婚したとは言え元は家族だったんですから、花の一束くらいは届けようとしたんでしょう。
しかし祖母や叔父の手前、朱院家を出ていった人に花を贈っているのを見られるのは憚られた。
祖母は私には優しかったんですけど、家を出ていった人には厳しい人でしたから。
だからこそ私に花を託した、という流れです。
母は昔から、そういう義理堅いところがあるんです。
朱院家を辞めた使用人が別件で怪我をした際には、わざわざお見舞いに行くようなこともあって。
特に羽白叔母さんは母と同様、外の家から朱院家に嫁いだ立場ですし、色々とシンパシーがあったのかもしれません。
何にせよ、当時の私は母に言われるままに羽白叔母さんに会いに行きました。
丁度、初めてのお遣いに挑む子どものように。
あの頃の私は箱入り娘で、一人で電車に乗ったようなことも無かったので、随分とドキドキしたものです。
しかし、そんな高揚があったからでしょうか。
私は羽白叔母さんの家に向かう途中、あるミスをしました。
……母から渡された花を、手を滑らせて落としてしまったんです。
ただ地面に落としただけなら良かったんですが、不味いことにその時の私がいた場所は歩道橋の上。
哀れ、母の用意した花束は風に煽られて車道に飛び出し、車に轢かれてグチャグチャになってしまいました。
とても、人に贈ることはできないような状態に。
子ども心に、青ざめた記憶があります。
その花は母が周囲には内緒で用意したもの。
駄目になってしまったからと言って、すぐに作り直すようなことは難しい花たちでした。
かといって、小学生のお小遣いでは自費で買い直すようなことはできません。
朱院家は裕福な家でしたが、子どもの所持金には厳しかったですから。
そんなお金は持っていなくて。
今まで一人で外出することすらなかった私は、一人でオロオロしていました。
人目が無かったのであれば、泣きだしていたかもしれません。
そして、そんな精神的な混乱があったからでしょうか。
当時の私は不意に、こんなことを思いつきます。
何とかして、このミスを隠し通せないかと。
この時、私の目に桜の木が入ってきました。
歩道橋の上ということで、街路樹の枝が飛び出していたんです。
折しも季節は春、街路樹のソメイヨシノは可憐な花を咲かせていました。
だからこそ、思いついたんでしょう。
私はパッと腕を伸ばすと、そのソメイヨシノを手折りました。
何本かの桜の枝をボキリと折って、手元に残っていた包装紙に包んだんです。
ただただ、自分のミスが周囲にバレたくない。
それだけの思いで、花束を偽造したんです。
さも、最初から桜の花が包まれていたみたいに。
今思うと、人の死に対して桜を贈るというのは中々考えにくい取り合わせですが。
その時の私は、自分が落としてしまった物がそういう目的の花だとは分かっていませんでしたから。
花ならこれでも良いか、と思ってしまったんです。
いくら華道を幼い頃からやっていると言っても、当時の私はまだ小学生。
思考回路は幼稚なものでした。
そうして、私は桜の枝を何本か持って羽白叔母さんの家──簡素なアパートでした──に向かって。
そのまま、初対面の彼女に花を渡しました。
アパートの玄関先で話した羽白叔母さんは、いたって普通の人に見えました。
一応母から連絡があったのか、私のことも知っていて。
私の方も、写真のお陰で判別自体はすぐにできました。
どうも彼女はうっかり屋さんでドジしやすいところがある人らしくて、写真では常に腕や足に絆創膏や包帯があったんですけど。
その時の彼女も手首に包帯を巻いていて、変わっていないなあと思ったことをよく覚えています。
多分、当時もどこかで怪我をしたんでしょうね。
ただこの時、私は偽造花束を持ち込んだ引け目がありますから、緊張して色々と話をしました。
あまり花について詮索されたくなかったので、「写真で見るより元気そう」とか、「叔母さんはこの桜みたいに綺麗な人ですね」とかお世辞を言った覚えもあります。
羽白叔母さんも朱院家に嫁いだくらいの人ですから、花にはそれなりに詳しいはず。
花束をじっくり見られると、それがただの街路樹だと気が付かれる恐れがありました。
そうなったら私は母に叱られるかもしれない、という恐怖があったんです。
ただやはり、お互いに初対面ですから。
いえ勿論、羽白叔母さんは赤ちゃん時代の私のことを知っているでしょうけど。
盛り上がれる話題自体が特に無いので、お世辞の時間は時期に終わって、すぐに帰ってしまいました。
私としては、花の偽装がバレなくて良かったとしか思っていませんでした。
幸いというべきか、羽白叔母さんはもう離婚によって朱院家を出た人ですから、これから彼女が私や母に会う機会は少ない。
だから今回の私のミスも、特に問題にされるようなことは無いだろうと────それだけを思って、初めてのお遣いを終えたんです。
羽白叔母さんが多数の凶器を持って朱院家の屋敷に侵入し、父と叔父、そして祖母を殺害したのはその翌日のことでした。
彼女は屋敷に侵入してすぐ、使用人たちを脅して強制的に屋敷から追い出して。
取り残された三人をバラバラにしました。
私と母は幸い、ちょっとした用事があって外出していたために難を逃れましたが……。
その後に起きたことについては、月野さんもよくご存じのことと思います。
メディアの報道、羽白叔母さんの逮捕、自殺、そして動機の解明に至らないままの捜査終了。
何もかもが突然過ぎて、私たちはとても受け止めきれませんでした。
だから当時、私と母はひたすらに呆然としていたと思います。
世界そのものから、突然取り残されたかのように。
間引きをされた花ってこんな気持ちなのかな、と思ったこともあります。
不幸中の幸いは、母の実家からの支援があったことでしょうか。
華道の名門に嫁ぐだけあって、母は良家の出身でしたから。
現在の私と母は、その実家からの支援で暮らしている身分です。
以前ほどの豊かな生活とはいかず、こうして中学校も公立に変えていますけど。
世間からの注目も容疑者の自殺でやがて収まり、何とかやっている次第です。
────しかし、それでも。
今この歳になっても、やはり気になっているんです。
どうして、羽白叔母さんはあんなことをしたのだろうと。
犯行前日に私が会った限りでは、彼女はごく普通の人に見えました。
多少は疲れた様子などを見せていましたが、親の葬式などが同時期にあったことを考えれば当然のことでしょう。
とても、あのような猟奇犯罪を行うような様子には……見えなくて。
羽白叔母さんは何も言わずに自殺してしまいましたから、今でも動機が分かっていません。
だからこそ、四年前からずっと考えてしまうんです。
何故あんなことが起こったのか────私の父と叔父、そして祖母はどうして死ななければならなかったのか。
母にも相談したことがあるのですが、母は事件以来精神的に不安定になっていて……その、あまり事件の話はできなくて。
だからこそ、一人で考えるしかなかったんです。
そして、そうやって考えている内に。
ふと思ったんです。
もしかして、あの日の邂逅が何らかの原因だったのではないか?
あの日、私と羽白叔母さんが初めて出会ったことが。
事件を起こす切っ掛けになったのではないかと。
そうとでも思わないと、彼女の行動には腑に落ちない点が多すぎますから。
だってそうでしょう?
仮に羽白叔母さんが、朱院家に対して大きな恨みを持っていたとします。
週刊誌で書かれていたようにDVがあったのかもしれませんし、或いは古い業界故のモラハラやパワハラだってあった可能性は否定しません。
父や叔父は悪い人ではなかったと思うんですが、どうしても伝統ある家の人でもありましたから。
外から嫁いだ羽白叔母さんから見れば、理不尽に思えることだってあったかもしれない。
しかしそうだとしたら、何故あのタイミングで殺害したのでしょう?
羽白叔母さんが朱院家から逃げられなかったならともかく、彼女はとっくの昔に離婚しています。
犯行時点で、離婚してから十年もの時間が経過していたんです。
もし恨みや復讐が動機だったというのなら、このタイムラグはおかしい。
そんなにも殺したかったのなら、どうして離婚直後にやらなかったのか。
十年経ったあの時期に突然事件を起こしたのは、本当にどうして……。
というかそもそも、彼女がどんな目に遭ったにせよ、離婚が成立した時点で朱院家との縁は切れています。
つまり、彼女を追加で傷つけるような物はあの朱院家ではもう存在しなかった。
それなのに、事件は起こった。
こう考えると、彼女の身に起きた唯一の変化と言えば、私の来訪としか解釈できません。
十年ぶりに、朱院家に連なる存在である私が羽白叔母さんの元を訪れた。
そのことが、何か羽白叔母さんの心に影響を与えた、とか。
それこそ、十年ぶりに殺意を蘇らせるほどに。
こう考えると、彼女があのタイミングでバラバラ殺人を犯した理由になると考えたんです。
自分で話していてなんですが……恐ろしい考えです、これは。
つまりは私が、あのバラバラ殺人の原因だったということですから。
本当なら、こんな仮説は信じたくありません。
実際、この仮説には謎が残っています。
私のどんな振る舞いが、羽白叔母さんに犯罪を決意させたのか。
ここが分からないんです。
あの時の私は、そんな悪い態度をとっていた訳ではありません。
勿論、羽白叔母さんを侮辱したようなこともしていません。
急遽用意した桜の枝を渡すという無作法をしましたが、まさかそんなことが殺人の動機になるとは思えません。
それにあの桜の枝は、私が包装紙を整えてから渡したので──華道を幼い頃からしていたのが役に立ちました──急遽誂えたものとは思えないくらい、綺麗な花束になっていました。
羽白叔母さんにはきっと、最初からあの花束は桜の花で構成されていたかのように見えたはずです。
母が桜の花をチョイスしたのだ、と。
色々と調べたのですけど、桜の花を贈ることが侮辱的な意味を持つなんて風習は、少なくとも日本にはありませんでした。
結婚式で刃物を贈るのは「縁切り」を連想するので駄目とか、鉢植えを病人に贈るのは「根付き=寝つき=寝たきり」に繋がるので縁起が悪いとか、そんなタブーはありましたが。
桜の花を贈ることに、ネガティブな意味なんて特に無いはずなんです。
一応、両親の死に対するお悔やみで桜というのは、やや非常識かもしれませんが……バラバラ殺人を起こす程の理由になるでしょうか?
どう考えても、あの時の私が犯罪の動機になるほどの問題行動をしたとは思えないのです。
私の行動の何が、彼女の犯罪のトリガーになったのか?
桜の花というものは、羽白叔母さんのような人にだけ伝わる特別なメッセージでもあるのか?
それが分からない限り、この仮説は妄想でしょう。
だから────私はここに、確かめに来たんです。
「つまり、華道の知識がある人に桜の枝を見せたかったんですね?もし桜の枝を見せるという行為に、何か特別な意味があるのなら……人を不快にさせ、犯罪に駆り立てる程の意味があるのなら、このイベントで誰かにそれを指摘されるだろうと」
拓海が話をまとめ直すと、沙羅は神妙な顔で頷いた。
当たっていたらしい。
彼女は本当に、あの事件の動機を調べるためだけにこんなことをしているのだ。
「しかし、思い切りましたね。一応は一般公開されているイベントとは言え、参加するだけでも相当な手間だったでしょう?」
「そこは、母の実家の力を借りまして……かなり反対されましたが。ここの主催者の方にも変な顔をされましたし」
まあそうだろうな、と拓海は頷く。
こう言っては可哀想だが、よく参加申請が受理されたものだ。
恐らくこの動機を主催者に言ってはいないだろうが、どう誤魔化して参加したのやら。
「でも、これだけは知りたかったんです。羽白叔母さんは、朱院家に嫁いだことでそれなり以上に華道の知識がありました。だから、もしかすると……」
「桜の花を贈るという行為は、実は『一般的にはタブーではないが、華道関係者では避けられる行為』かもしれない。華道の世界や富裕層にだけ共有されている、マナーに関する伝統があるのかもしれない。こういうところにくれば、それを教えてくれる人がいる。そう期待したんですね?」
「はい……凄いですね、月野さん。先程から私の考えを当てて……名探偵みたい」
名探偵、と言われて拓海は苦笑をする。
それは少し、自分には似合わない言葉だった。
「……そうなると、貴女の目的は今一つ達成できていませんね。事件のことがあったせいか、貴女の作品は避けられているようです」
「はい……正直、予想以上でした。今まで何度か似たようなことをしているんですが、私に話しかけてくれた人は月野さんだけです」
「予言しますが、恐らく僕に続く人は現れませんよ。あの事件はちょっと有名過ぎる。評判を気にする金持ちは、関わり合いを避けるでしょう」
「そうかもしれません……だ、だから、あのっ」
そこで不意に、沙羅は自分のポケットからいかにも現代的なスマートフォンを取り出した。
厳かな華道の場においては中々見られない電子機器に、拓海は少し目を見開く。
それに構わず、沙羅はこんなお願いをした。
「今すぐでなくても構いません。もし月野さんがこの桜の花を見て、何か思うことがあったのなら……羽白叔母さんの思考回路が分かったのなら、連絡をくれませんか?突然のお願いで、迷惑なのも分かっているんです。でも私、このことを確かめないと、どうしてもあの事件を終わらせられない……永遠に前を向けないんです!」
──「永遠に前を向けない」か……。
何ともまあ、と思いながら拓海は会場の一画をぼんやりと歩いていた。
沙羅に言われるまま連絡先を交換し、それを最後に彼女の前から離れた数分後のことである。
再び暇になった彼は、沙羅とのトーク画面──互いにメッセージを送り合えるアプリのIDを交換したのだ──を展開しながら考え事をしていた。
それは、彼女の頼みごとを受けるべきか思案していたから────ではない。
実のところ、拓海は既にその依頼を解いていた。
四年前のバラバラ殺人、坂東羽白の動機を解明していたのである。
だから正直、言おうと思えば即座に沙羅に言うこともできた。
君の懸念は正しいと。
その事件の原因になったのは、間違いなく君が贈った桜の花だと。
──まあでも、一応考えをまとめておこうか。間違っていても嫌だし。
彼にしては珍しく律儀なことを考えながら、拓海は会場の隅でベンチを見つけて腰を下ろす。
そのまま、首の力が抜けたようにガクッと首をのけ反らせて。
ドームの天井を見上げたまま、探偵よろしく呟いていた。
「さて────────」
……拓海の指が動く。
考えをまとめるままに。
アプリの画面に、長い長いメッセージを記載していった。
<月野拓海からのメッセージ>
朱院沙羅さんへ。
先程約束した通り、気が付いたことがあるのでお知らせしたいと思います。
どうして、坂東羽白はバラバラ殺人を行ったのか?
仮に恨みを抱いていたにしても、離婚後十年も経ってから実行に及んだ理由は何か?
この点の考察については、貴女の考えた推理は概ね合っていると思います。
坂東羽白と出会って桜の花を贈ったからこそ、あのタイミングで事件は起きた。
犯人が十年間、実行もしない犯罪計画を温めていたと考えるよりも、よっぽど納得のいく仮説です。
故に考えることは、第二の疑問。
どうして、坂東羽白は桜の花を贈られたということにそこまでの反応を示したのか?
どのような思考回路であれば、桜の花と殺人が結び付くのか?
この点について考えるならば、更に過去のことを振り返らなくてはなりません。
坂東羽白が、まだ朱院羽白だった頃の話。
どうして彼女が離婚をしてしまったのか、それを考えてみましょう。
貴女の話では離婚したという事実については触れられていても、具体的な理由については語られませんでした。
恐らく、貴女自身も知らないのでしょうね。
しかし他の話を繋ぎ合わせると、その理由は見えてきます。
話によれば、坂東羽白が離婚したのは事件から十年近く前。
貴女が生まれて少し経った頃に離婚した、という話でした。
そして貴女が生まれるまで、朱院家の人間は不妊治療で長く苦労したとも。
この流れをまとめると、こういう言い方もできます。
長男夫婦に娘が生まれると同時に……次男夫婦が離婚をしている。
貴女の誕生を契機に、次男の嫁が家から追い出されているんです。
突飛な言い分に思えますか?
ですが、この考えが僕の推理のキーとなります。
一人の赤ん坊によって坂東羽白が離婚したとすれば、事件の全てが繋がるんです。
だから、こんな仮定をしましょう。
平たく言えば────坂東羽白は、子どもを産めなかったがために離婚せざるを得なかった。
朱院沙羅の誕生によって、彼女は朱院家から追い出されたと、そう考えるんです。
この世界から離れて久しい貴女には分かりにくい感覚かもしれませんが、僕たちの属するこの社会では、未だに血統という物がかなり大事にされています。
僕もこのイベント中はずっと、どこぞのお嬢様に話しかけられるのではないかと警戒していました。
高校生や中学生相手にすら、お世継ぎだの結婚相手だのを求める人たちが大勢いる。
僕からすれば愚かな血統主義としか思えないこの考えですが、未だに多くの人々の間で大事にされている考えでもあります。
自分たちの血を未来に残したい、後継者が欲しいと思われるのは常識化している。
ひょっとすると、朱院家もそうだったのではないでしょうか。
当時の朱院家の人間は、「血の繋がった後継者」がどうしても欲しかった。
長男夫婦、もしくは次男夫婦に何としてでも跡継ぎを作って欲しかった。
名家出身でないという坂東羽白が次男との結婚を認められたこと自体、この事情が関係している可能性もあります。
結婚を認める条件として、「絶対に子どもを産むこと」なんて時代錯誤なことを言われたのでは?
だからこそ彼女は、長男夫婦に子どもができた瞬間に離婚してしまった。
坂東羽白からすれば、全く納得出来ない展開だったことでしょうね。
恋愛結婚だったそうですし、こんなところで愛する夫との関係を切りたいとは思わなかったに違いない。
しかし当時の朱院家の人間──恐らく、実質的なトップだった貴女の祖母──の意向には逆らえず、泣く泣く別れざるを得なかった……こんなところでしょうか。
無論、この考えに証拠などはありません。
事件関係者は殆ど亡くなっているため、今更確かめることもできない。
しかし一つ、傍証となりそうなものはあります。
途中で語っていましたが、朱院家の次男は坂東羽白と離婚した後、何度か再婚と離婚を繰り返したそうですね。
最初の離婚から事件で彼が死ぬまでが十年程度なのですから、これは随分と奇妙な話です。
朱院家次男は、数年単位で結婚生活をリセットし続けていたことになりますから。
しかし、朱院家の人間が「血の繋がった後継者」に執着していると考えれば、この理由も分かります。
貴女に続く子ども、後継者のスペアが欲しかったのであろうと考えるだけですから。
坂東羽白とは子どもができなかったから、別の女性なら大丈夫と考えた誰か──恐らく、これも貴女の祖母──が何度も縁談をセッティングしていたのではないでしょうか?
ただそれでも、次男夫婦に子どもができなかったことからすると、この目論見は失敗に終わったんでしょうね。
推測に推測を重ねる形になりますが、ひょっとすると貴女の叔父の生殖能力には、何らかの問題があったのかもしれません。
以前聞いたことがあるのですが、夫に起因する不妊というのはよくあることだそうです。
子どものできない夫婦で、女性側に問題があると思って治療を繰り返していたが、実は夫側に原因があった、というのは珍しくもない話。
こういった知識に疎かった朱院家の人間が、まさか次男に問題があるとは思わずに結婚と子作りを繰り返していた……割と、有り得そうではありませんか?
話によれば、途中で再婚は止めるようになったそうですし。
どこかで医者に指摘されて、無駄な再婚は控えるようになったのだと考えれば、矛盾はしません。
この理屈で行くと、貴女の妹か弟を産めなかった貴女の母親も離婚されそうなものですが……当主の離婚は流石に目立つということで、実行に移せなかったのでしょうか。
或いは貴女の母親は名家の出身だということですし、流石にこのような使い捨ての真似はできなかったのかもしれません。
言い方は悪いですが、長男夫婦ほど注目度の高くない次男でスペアを作ろうとしていたというか。
何にせよ、こういう事情があったために坂東羽白は朱院家を追い出された。
朱院家も他に後継者を作ることができないまま、十年が経過。
唯一の子宝である貴女には、こんな生臭い事情は教えないまますくすくと成長させた……こんなところではないでしょうか。
さて一方、坂東羽白はこの十年をどう過ごしたか?
これはまあ、あまり華やかとは言えない状態だったのでしょう。
理不尽にしか思えない理由で離婚させられた辛さに加え、両親の介護などもあったようです。
元は一般家庭の人だったそうですし、出戻りという立場では生活も苦しかったのかもしれない。
そもそも彼女が朱院家にいた時、ドジで怪我ばかりしていたというのも本当の話でしょうか?
子どもができなかったということで、周囲の人間に辛く当たられていたのでは?
朱院沙羅さん、貴女もDVの可能性は否定しませんでしたね。
過去の写真のどれを見ても、坂東羽白には包帯やら絆創膏やらが貼られていると言っていましたが、はっきり言ってこれは異常です。
その写真を見ていたから、貴女もDVの可能性を否定しきれなかったのでしょう?
ついでに言うと、貴女が出会った時、坂東羽白の腕には包帯が巻かれていたようですが────それは本当に、彼女のドジ故に生まれた傷なのでしょうか?
消えないトラウマと介護疲れから生じた、リストカットの痕だったのでは?
或いは、昔からのDVによる傷跡がまだ残っていたとか……。
貴女の母親は、辞めていった使用人などに連絡を取ることがよくあったそうですね。
坂東羽白に十年ぶりに花を渡しに行ったのも、その一環だったとか。
しかしそれも、本当にただの心遣いだったのでしょうか。
例えば、その使用人が雇用主──つまりは貴女の父親や祖母です──からの酷い暴力を受けていたとして。
それに耐えきれずに辞めていったとして。
その事実を誰かに暴露していないか確かめるため、定期的に連絡を取ったり、口止め料を支払ったりしていたのでは?
まあ、この辺りは全て邪推です。
そうも考えられる、というだけの話。
重要なのは、坂東羽白は離婚後十年経っても、あまり幸福な状態ではなかったであろうということ。
しかも、貴女が会う直前に両親を亡くされていますしね。
肉体的にも精神的にも、追い詰められていた可能性は高い。
そんな彼女のもとに、花束を抱えた貴女が訪ねてきます。
正直、この時点でかなりキツかったでしょう。
貴女は悪くないとは言え、長男夫婦に子どもが産まれたことを契機に離婚したんですから。
しかも、その子どもが。
自分を朱院家から追い出した元凶となった存在が────桜の花を渡してきた。
朱院沙羅さん。
この桜の花が、決して悪意による贈り物ではないということは確かなのでしょう。
貴女はただ、本来用意されていた花束が駄目になってしまって、慌てて取り繕っただけだった。
しかし、彼女にだけは。
坂東羽白にだけは、この花は悪意に満ちて見えてしまったんです。
だって、桜は。
ソメイヨシノは。
子孫を作れない品種なんですから。
元華道関係者の貴女に、今更解説するのも恐縮ですが……。
日本において非常に広まっている桜、ソメイヨシノは種を殆ど作りません。
花を散らし、果実を作り、種子をどこかで発芽させるという植物の一般的なサイクルから、外れた存在です。
ソメイヨシノは、本来なら一代限りの品種。
現代に残っているソメイヨシノは全て、接ぎ木などによって人為的に増殖させたクローンたちです。
まあこの知識は、イベントパンフレットからの引用ですが。
遺伝子が全て同じだからこそ、同じ地域にあるソメイヨシノは一斉に咲いて一斉に散る。
見ようによっては非常に美しく、同時に奇怪にも思えるこの光景は、人間が手を加えたが故に起きていることです。
もし、ソメイヨシノが山奥でひっそりと咲くだけだったならば────純粋な子孫を残せないこの品種は、誰にも知られないまま絶滅していたのかもしれません。
こんな知識は、今時検索すればすぐにでも調べることができます。
曲がりなりにも華道の家に嫁いでいた坂東羽白も、きっと知っていたことでしょう。
クイズ番組にすら簡単過ぎて出てこないような、豆知識レベルの雑学ですから。
そんな、子孫を残せないことでよく知られる花を抱えて。
坂東羽白を追いやった一族の末裔が一人で現れて。
その上で、貴女は彼女にこう言った。
「叔母さんはこの桜みたいに綺麗な人ですね」
普通なら、これは褒め言葉です。
十歳の子どもが慣れないお世辞を言っていると思えば、微笑ましくすらあります。
しかし、当時の坂東羽白には。
子どもを作れなかったことで離婚せざるを得なくなり、その後もあまり幸福には生きられなかった彼女は。
もっと悪意的な捉え方をしたかもしれない。
桜のような人とはつまり────子孫を残せないソメイヨシノのように、子どもを作れない人のことではないか?
理不尽に離婚させられた自分のことを、揶揄しているのではないか?
十年も経ったというのに、朱院家の人間は自分を嘲笑いに来たのではないか────?
勿論、これはただの誤解です。
被害妄想と言って良い。
その花はあくまで、貴女が適当に近くの桜の枝を折ってきただけの代物に過ぎない。
貴方にも、お遣いを命じた貴女の母親にも悪意はありません。
そもそも本来なら、届くのはもっと別の花だったはずなのですから。
しかし、状況は揃い過ぎていました。
離婚の契機とも言える、朱院沙羅自身が。
自分の元に子孫を残せない花を贈って。
なおかつ、自分のことをソメイヨシノに例える。
流れで見てみると、高度な煽りと解釈できなくもない。
事実、坂東羽白はそう解釈したのでしょう。
両親が亡くなったというこのタイミングで、朱院家の人間が自分のことを笑いに来たと。
かといって、いくら何でも当時の貴女の独断によるものとは考えなかった。
話によれば、貴女はその桜が急造品であることを正直に打ち明けなかったそうですから。
綺麗に包装されたそれは、最初から桜の花が収まっていたようにしか見えなかったのですよね?
だからこそ坂東羽白は、その花束が朱院家の人間の総意でチョイスされたものだと勘違いした。
朱院家の当主たちが、このような子どもを使ってまで当てこすりをしてきたと誤解したのです。
意図的に贈られたソメイヨシノこそ、他の誰でもない、自分宛てのメッセージなのだと。
実際のところ、全ては偶然の産物だったのですが……。
ただでさえ、両親を亡くした直後。
元来の結婚生活での恨みもある。
元夫に対しても、自分との離婚後に再婚を繰り返していたことについて思うところはあったかもしれない。
元より不安定だった節のある、彼女の精神。
それがこのことを切っ掛けに爆発したとしても、僕は不思議には思いません。
概ね、上のような流れだったのではないかと思います。
全てのボタンが掛け違っていました。
極めて不幸な偶然でした。
もし、貴女が普通に最初に用意された花束を贈っていれば。
仮に取り繕ったとしても、別の花を選んでいれば。
せめて最後に、自分が桜を詰め込んだのだと打ち明けていれば。
事件は起きなかったかもしれない。
仮に起きたとしても、また違った形となっていたかもしれない。
もっとも、今言っても仕方がないことですが。
現実に、事件は起きた。
だから、敢えてこう言いましょう。
朱院沙羅さん。
貴女が感じている不安は的中しています。
故意では無かったとは言え。
貴女が初めてのお遣いの中で当初の花束を駄目にしてしまい、桜の花を贈ったこと。
これこそ、あの殺人事件の動機であり、バラバラ殺人のトリガーなのです。
「まあ、こんなところか」
長々と打ち込まれたメッセージを見ながら、拓海は浅く微笑む。
思いつくままに打ち込んだせいか、普段のトーク画面で扱う文章量では無くなってしまった。
こんな長文が送信されたら、朱院沙羅は仰天するかもしれない。
──まあでも、内容に比べれば文章量に驚く程度のことは些事か……。
そんなことも思う。
同時に、彼女の必死な表情を思い出した。
随分と悪目立ちする手法を使ってまで、この会場で事件のことを調べようとしていた少女。
坂東羽白の動機を解明しなければ、自分は永遠に前を向けないとまで言っていた。
しかしこの真相を思うと、彼女からの要望を叶えるのはかなり難しそうに思える。
何せ、内容が内容だ。
彼女が悪いという訳ではないし、偶然起きた悪意のドミノ倒しみたいな話でしかないのだが、十四歳の少女にはどう映ることやら。
果たして、この真相を知った彼女が望む通りに「前を向く」ことができるのか。
そればっかりは、拓海がいくら推理しても分かる気がしなかった。
こういう点も含めて、やはり拓海は名探偵ではないのだろう。
しかし、真相を伝えないというのも考え物だった。
道徳的には正しいのかもしれないが、それで全てが凌げるとも思えない。
彼女は何度もこのようなイベントに参加しているようだし、拓海が今言わずとも、どこかで指摘される恐れはある。
言うべきか、言わざるべきか。
どちらに転んだとしても、最終的には解釈の問題になりそうだった。
この真相に対して、朱院沙羅はどのような解釈をするのか────。
……長らく画面に触っていなかったせいか、トーク画面が暗くなり始める。
どこか焦れたように、アプリは催促までしてきた。
『メッセージを送信しますか?』
ん、と拓海は声を漏らす。
天を見上げていた首を戻して、画面を凝視した。
鼻の位置が下がったせいか、会場中を埋め尽くす花たちの芳香が届いてくる。
『メッセージを送信しますか?』
桜の香りも、僅かにした気がした。
気のせいかもしれないが。
『メッセージを送信しますか?』
金持ちたちの喧騒が五月蠅かった。
どこもかしこも、自分の資産とそれを引き継ぐ後継者の心配ばかり。
拓海も所詮は、その流れに組み込まれた一人である。
『メッセージを送信しますか?』
桜並木が見たい、と不意に思った。
自然淘汰の流れで言えば有り得ざる光景、クローンたちによって織りなされる人工美。
その全てが一斉に散る様を、今から見てみたいと思った。
そして、拓海は────。
『メッセージを送信しますか?』
※本作品はフィクションです。作品中のソメイヨシノの贈答に関する解釈は、あくまで作者が勝手に考えた小説内のみの設定です。誤解なきようお願いします。
また、ソメイヨシノも他の品種と交配すれば種を作ることがあります。ただしその種は遺伝子の混ざった雑種となり、純粋なソメイヨシノではなくなるそうです。本文中の「子孫を残せない」は、同族との間で、という意味だとお受け取りください。
面白いと思われた方は評価、ブックマーク、いいねのほどよろしくお願いいたします。
感想もお待ちしています。