第四十四話 ぼっちと体育祭⑩
「兄さん、アリスちゃんにバスタオルを持って行ってあげてください」
涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになってしまったためアリスを風呂に入らせたのだが、突然奈々衣がそんなことを頼んできた。
「いや、奈々衣が持って行った方がいいだろ」
風呂場へは間に洗面所を挟むため鉢合わせることはないが、同級生の女子がシャワーを浴びている近くに行くのはさすがに気が引ける。
「ダメです。兄さんが持って行ってください」
「なんでそんなに頑ななんだ」
「察してください」
「察せって言ったって……」
渋っていると奈々衣が問答無用でバスタオルを手渡してきたので行かざるを得なくなる。
奈々衣のことだから悪いことを企んでいるということはないと思うが、当然気乗りはしない。
洗面所の前まで行き扉を開けると、風呂場の方は見ないようにしながら声をかけた。
「バスタオル、ここに置いておくからな」
「あ、はい。ありがとうございます」
無駄に騒ぐんじゃないかと思っていたのだが、存外普通に返事が返ってきたことに拍子抜けしつつ背を向ける。
すると、中から声がかけられた。
「あの、先輩」
「何だ」
「少しだけ、お話できませんか?」
「話って、ここでか?風呂あがってからの方が……」
「いえ、ここがいいです。顔が見えないほうが話しやすいこともありますから」
「……まぁ、いいけど。でも風邪引くから浴槽には入っておけよ」
「はい」
俺が洗濯機を背にして腰を下ろすと、アリスは言った。
「また、先輩に迷惑かけちゃいましたね」
「俺を陥れようとしたくせに、どの口が言うんだか」
二人三脚のことを引き合いに出すと、アリスは焦ったように早口になる。
「あ、あれはちょっとした出来心で!先輩と一緒に出られたらきっと楽しいだろうなって思ってたのはほんとですから!」
アリスの大きな声が風呂場に反響する。
思った以上に大きくて恥ずかしかったのか、小さく唸り声をあげていた。
アリスがおとなしくなるのを待ってから口を開く。
「迷惑なんて今更だろ。そもそも迷惑だって言うなら初めて話した時からかけられてるしな」
「ついこの間のことなのに、なんだかもうずっと前のことのような気がしますね」
言われてみれば確かにそうだ。それだけ中身の濃い日々だったということなのだろうが、あまり思い返したくないのはなぜだろう。
それから少しだけ間を置いて、アリスは零すように言った。
「……今日、先輩がリレーの選手に立候補してくれた時、ほんとに、嬉しかったです。自惚れだって笑われるかもしれないですけど……あれって、その……あたしのため、だったりしますか?」
半ば無意識の行動だったが、アリスのためかと言われるとそうではない気がする。
誰のためと言うのであれば、おそらく俺は俺自身のためにああしたのだ。
あそこで動かなければ後悔すると思ったから動いた。それだけだ。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、どうして?」
正直に言うのはなんだか抵抗があったので、適当に誤魔化しておく。
「奈々衣にとってお前は大切な友達みたいだからな。お前が辛い目に合ってるのを見たら、奈々衣が悲しむと思ったんだよ」
「奈々衣さんのためってこと?」
「そうだ」
そうですか、と呟くように言った後、アリスは小さくため息を吐いた。
「先輩は、本当に奈々衣さんに甘いですよね」
「兄貴だからな」
「……ほんと、優しすぎますよ」
ポツリと零れた言葉は誰に向けられたものでもない、独り言のようだった。
「眞城が勝手に指名したこと、怒ってるか?」
「そりゃ怒ってますよ。どんな嫌がらせだよって感じです」
憤慨した様子で、アリスはばちゃばちゃと水面を叩いた。
だがそれも少しのことで、しばらくすると落ち着いた声に戻る。




