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虚像のゆりかご  作者: 丹㑚仁戻
第二章 橘椿
9/30

〈四〉ストーカー

 河川敷で見つかった女性の遺体の身元は翌日には特定することができた。やはり免許証の持ち主である橘椿で間違いなかったのだ。


「――それで、金森(かねもり)さんが最後に橘さんに会ったのはいつ頃でしょうか?」


 珍しく丁寧な口調を使う河野を横目で見ながら、尾城は相手の女性――金森秋音(あきね)の様子を注意深く観察した。橘の両親によると、金森は彼女の高校時代からの親友らしい。小柄ながらもスーツを着こなし、それに似合う強い眼差しが印象的な女性だ。彼女の勤める会社に警察である自分達が現れた時も驚きはしたようだが、すぐにてきぱきと応対してみせたあたり仕事ができる人間なのだろう。


「先月の十八日です。その翌日から私が出張でしばらく会えなくなるからってことで、二人で私の家で過ごしました」


 一月以上前か――尾城は頭の中で時系列を整理した。発見された橘椿の遺体は少なくとも死後数週間は経っているとみられている。今は八月の終盤、金森が最後に会った時期とも矛盾はない。


「随分正確に覚えてらっしゃるんですね」

「椿の両親に彼女と連絡が取れないと伝える時に情報を整理したので。彼女の親御さん、捜索願出してくれたんですね」


 だから金森は警察を見ても落ち着いていたのか、と尾城は納得した。最初に会社で挨拶した時に、彼女は「椿のことですよね?」と聞いてきたのだ。

 その後こちらから提案する前に彼女の方からこの喫茶店に場所を移そうと言ってきたのも、恐らく自分達警察が行方不明になっている親友の捜索のために来たと思ったのだろう。まだ橘椿の死を伝えていないせいもあって、金森の目には希望が見て取れた。


「連絡が取れないことは分かっていたんですね?」


 河野も自分と同じことに気付いているはずだが、まだ橘椿の死を伝える気はないらしい――尾城は少し心苦しくなった。自分よりだいぶ先輩の河野の判断なのであれば、情報を聞き出すにはその方がいいのだろう。それでもどこか騙しているように感じられて、尾城はそっと視線を金森から外した。


「ええ。と言っても、正確にはいつから連絡が取れなかったのかは分からないんですけど……。出張続きだったのが落ち着いて、私が椿に連絡をしたのは二週間くらい前――八月の十日です。でも全然返事がなくて……もしかしたらそれよりも前から連絡は取れなくなっていたのかもしれません。その週末に椿の家に行ったんですけど、部屋も使ってる様子がないし結構空気も込もっていたので、ずっと帰っていないのかもしれないなって……」

「部屋を見たんですか?」


 河野が尋ねると、金森は「ええ」と首肯した。


「合鍵が隠してあるんです。珍しくもない隠し場所だから不用心だし止めなって言ったんですけど、あの子しょっちゅう鍵失くすから……私が預かろうにも私とあの子じゃ生活リズムが違うのもあって、あの子がもし鍵を失くしても届けてあげられそうにないから諦めたんです。あ、勿論椿には何かあった時に勝手に入っていいとは言われています」

「隠し場所というのは、玄関横の消火栓の中ですか?」

「そうです。もう探されたんですね」


 確認するような河野の視線に、尾城は頷いて手帳を開いた。そこには橘椿の家の捜査結果がいくつかメモされており、合鍵に関するものを見つけると金森には見えないよう河野に見せる。

 河野はそこに書かれた内容を横目で見て小さく頷くと、視線を金森へと戻した。


「金森さんが使った後は元の場所に?」

「はい。じゃないと意味がありませんから」

「他に合鍵の存在を知っている人はいますか?」


 河野がそう尋ねたのは、尾城の手帳に合鍵から三人分の指紋が検出されたとメモされていたからだ。一つは橘椿のものだと既に判明している。残り二つのうちの一つも採取してみないと確かなことは言えないが、金森のものと見て間違いないだろう。問題は、あと一つが誰のものかということだ。


「どうでしょう……私の知る限りではいないと思いますが」


 河野の問いに答えた金森は、尾城には本当に心当たりがないように見えた。


「ちなみに金森さんが橘さんの自宅に行った時、部屋の中のものに触りましたか?」

「ええっと、どうだったかな……倒れてたらまずいと思ってトイレとかは見て回りましたし、それ以外だと……ああ、窓には触っちゃったかもしれないです。換気しようとしたんですけど、もし椿が何かの事件に巻き込まれていたなら、下手に換気すると手がかりがなくなってしまうかもと思ってやめた記憶があります」

「だから片付けもしなかった、ってことですかね」

「片付け? まあ、それはしてませんけど……そもそも片付けるものもありませんでしたし」

「出しっぱなしのものもですか?」


 河野が言うと、金森は怪訝そうな表情を浮かべた。相手が何を言っているか心底分からないとでも言いたげな顔だ。


「出しっぱなしのものなんてなかったと思いますけど……。椿はうっかりで物を失くしやすい分、普段から整理整頓はきちんとしているんです。あの部屋で物が出しっぱなしになっているなんて滅多にありませんから、何かあれば絶対に気付いたと思います」

「コーヒーを飲んだマグカップも?」

「そんなの一番出しっぱなしにしませんよ。私に出してくれた時だって、椿は私が飲み終わるか、もう飲まないって分かったらすぐに流しに置きに行きますもん」


 そこまで言うと、金森は顔を顰めながら河野を見つめた。


「そういうことを聞くってことは、何か出しっぱなしになっていたってことですよね……? あの、椿はただ行方不明になっているだけなんですよね? 親御さんが捜索願を出したから私のところに来たんですよね?」


 確認するような質問を重ねるたびに、金森の顔には不安が滲んでいった。

 河野もそれに気付いているのだろう。小さく一呼吸置くと「いえ」と声を低くした。


「橘さんの捜索願は出ていません」

「そんな……」

「親御さんはもう少し様子を見る気でいたようです」

「じゃあ、なんで刑事さん達は……」


 尾城の目に映る金森は、既にその答えを悟っているようだった。しかしそれは受け入れられないのか、河野から否定の言葉が出るのを期待しているように感じられる。珍しくないその光景に苦々しいものを感じながら、尾城は僅かに奥歯を噛み締めて河野の言葉を待った。


「橘椿さんは遺体で発見されました。我々はその捜査をしています」

「……嘘」


 尾城はこの瞬間が一番嫌いだった。職業柄出会うことの多い場面だが、何度経験しても慣れるものではない。今回は河野が伝えてくれたが、自分がそうしなければならない時は酷く憂鬱な気分になる。

 もしかしたら河野はそんな自分に気付いているのかもしれない――尾城は若い女性相手に珍しく自ら応対していた河野の姿を思い出した。いつもであればこういう相手とのやり取りは自分に押し付けるのに今回はそうしなかったのだ。橘を案じる金森の姿を見て、自分が死を伝えにくい相手だと気付いたのだろう。


 尾城は内心で河野に感謝しながら金森に意識を戻した。しっかりとした化粧で血色の良かったはずの顔は真っ白になっており、唇も小刻みに震えている。落ち着いたブラウンのアイシャドウで縁取られていた目は真っ赤に腫れ、見開かれたそれからはボロボロと涙が零れ落ちていた。

 最初に抱いた強そうな女性というイメージは、今はもう見る影もない。喫茶店という場所のため声を上げて泣くことは堪えているようだったが、それがかえって痛々しく感じた。


「――橘さんの死に事件性があるかどうかはまだ分かっていません」


 五分程待っただろうか。呆然と涙を流していた金森が自ら涙を止めようとする仕草を見せ始めた頃、それを後押しするかのように河野が静かに口を開いた。


「ただ、金森さん以外にあの部屋に出入りしていた人物がいることは確かです。本当にそんな人物に心当たりはありませんか?」


 河野に問われた金森は、その質問に集中するかのように視線をテーブルの上に落とした。考えることで涙は収まってきたらしく、瞬きをしても頬は濡れなくなっている。そうして目元の水分がいつもどおりになってきた頃、「そういえば――」と小さく呟いた。


「――ストーカーかもしれません」


 そう言いながら顔を上げた金森は憔悴しきっていたが、気を強く保とうとしているのが見て取れた。


「ストーカー? 橘さんはストーカー被害に遭われていたんですか?」

「ええ、二月以上前から……」

「警察に相談は?」


 尾城は慌てて自分の手帳を捲ったが、やはり橘がストーカー被害に悩んでいたという情報はどこにもない。


「してないと思います。帰宅する頃に家の近くにいるだけで実害はないし、本当に自分が狙いなのかも分からないからって。私はストーカーだって言ったんですけど、椿はそこまでとは思ってなかったみたいで……」

「それでも、自分かもしれないと思った要因があるんですよね?」

「その人に告白されたことがあるそうです。ろくに話したこともないから断ったみたいなんですけど」


 それなら十中八九橘が狙いだったのでは――河野も尾城と同じことを思ったのか、お互いに向けて小さく頷いた。


「相手の名前は?」

「分かりません。多分椿も知らなかったんじゃないかな……あの子のバイト先の居酒屋の常連さんらしいんですけど、口数は少なかったみたいで」


 眉間に皺を寄せながら答えた金森は、それ以上のことは知らないようだった。彼女の話が事実なのであれば告白された橘本人ですら知らないのだ。それを他人である金森が知っていることはないだろう。

 そうとは分かっていても、尾城達はここで引き下がるわけにはいかなかった。〝口数の少ない居酒屋の常連〟では対象が広すぎる。どうにか絞れないかと尾城が考えていると、河野が落ち着いた声で金森に問いかけた。


「金森さんは相手を見たことがありますか? それか外見の特徴など何かあれば教えていただきたいのですが」

「相手を見たことはありません。外見も……」


 やはり分からないか――尾城が諦めようとした時、金森が「あっ」と声を上げた。


「多分背は椿より低いと思います。告白された時にそんな感じのことを言っていたので」

「橘さんは女性にしては長身でしたね」


 河野の言葉に尾城も記憶を辿る。検死を待たずに記録された橘の身長は、確か一七〇センチ以上あったはずだ。


「一七二センチだったかな? 椿は結構気にしてて、自分より背の低い男性に告白されると気後れしちゃうみたいなんです」

「そこは靴が困る、とかじゃないんですね」


 急に声を出した尾城に金森は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに頬を緩めて「そうなんです」とはにかむような笑みを浮かべた。


「椿は大きいのが嫌だからって、基本的に低いヒールの靴しか履かないんです。だからそこはあまり問題じゃないみたいですね。でもやっぱり、大きい女を連れて歩いてたら相手が嫌な思いをしてしまうかもしれないって気にしてて、そういう男性とは付き合っても長続きしないんです。そのせいなのか、あの子ちょっと自己肯定感みたいなのが低くて……ストーカーが自分目当てじゃないと考えていたのも、〝自分なんかに〟って気持ちがあったんだと思います。全然そんなことないのに……」


 橘を思い出すように語っていた金森だったが、そこまで言うと再び悲しみが襲ってきたのか、耐えるようにして強く目を瞑った。

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