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虚像のゆりかご  作者: 丹㑚仁戻
最終章 虚像
29/30

〈七〉実体のない黒猫

『私は、君だよ』


 その声は金属の軋む音のように、ギィギィと嫌な響きで僕の頭の中を掻き乱した。単純な言葉の意味は分かるのに、否、その先まで分かるのに、僕の頭は理解することを拒絶する。

 それはきっと、理解してはいけないと分かっているからだ。理解してしまえばその途端崩れていってしまうと確信しているから、だから僕は僕を守るためにこの言葉を受け入れられない。

 それなのに椿は相変わらず楽しそうに口元に弧を描いて、「そうそう」と少し屈んで下から僕の目を覗き込んだ。


「あの写真だって見るのは初めてじゃないだろう? もしかしてそれも忘れてしまったのかな?」

「写真……?」


 椿の指差す方には河野の姿。それが河野を指したのではなく、彼の手に未だ持たれている一枚の写真を示していることは嫌でも分かる。

 あれはさっき初めて見せられた、父さんが椿と同じ姿をした女性と写った写真だ。以前見たことがあったなら僕は椿と初めて会った夜に気付いているはず。だから見たことなんてないと思っていたのに、忘れてしまったのかだなんて言われてしまえば今の僕には自分の記憶を信じられるわけがない。

 だって、僕の見ているものは事実じゃない。だからもしかしたらあの写真も――そう自分自身に疑いの目を向ければ、懐かしい匂いが鼻腔を撫でた。


 これは……そうだ、昔住んでいた家の匂いだ。少し古い一軒家で、僕と父さんの二人暮らしには随分と大きかったように思える。

 古いせいかあの家の階段は少し急で、父さんは危ないからと僕が一人で階段を使うことを許さなかった。だから僕らは普段家の一階のみで生活していたけれど、二階に何があったかは知っている。

 父さんが家にいない時は、もっぱらその二階に忍び込むのが僕の遊びだった。二階にあるのは広い物置のような部屋と、父さんの書斎。いつも僕は物置部屋には目もくれずに、父さんの書斎へと真っ直ぐ向かう。

 目指すのはクローゼットの奥。隠すようにしまわれた、古いお菓子の缶。なんてことのない安っぽい缶なのに、僕にとっては宝箱のように輝いて見えた。

 少し錆が付いて固くなった蓋を小さい手で一生懸命外して。見慣れないプラスチックケースや読めない手紙を避けて、幼い僕でも分かるものを取り出す。

 その写真の束はもう何度も見たことがある。それでも僕がこれを引っ張り出すのは、その中の一枚だけが見たいから。父さんが男友達と楽しそうに写るものじゃなくて、他とは違う異質な一枚。

 父さんと、綺麗な女の人が写る写真。裏に書いてある文字は読めなかったけれど、そうやって何かを書き込むくらい父さんにとっては大事なものなんだろう。父さんが大事にするものなんて、僕には一つしか思い浮かばなかった。

 きっとこれが母さんだ――毎回そうやってしばらく写真を眺めては、父さんが帰ってくる前にそっと缶に戻す。父さんに知られてはいけないから、僕のこの気持ちも一緒に。

 父さんの前ではこの宝箱の存在なんて知らないふりをして、母さんのことも全部忘れるようにして。

 でも気付けばこの缶はどこかに消えてしまったから、だから僕は、僕の記憶は――


「なんで……」


 なんで忘れていたんだろう、だなんて疑問はもはやどうでもよかった。思い出してしまった、理解してしまった――『私は、君だよ』という椿の言葉の意味を。

 どれだけ必死に逃れようとしても、一度理解してしまったものは頭から離れない。頭の中に叩き込まれた現実は、僕自身の認識より椿の言葉が正しいと言っているようなものだったから。


 その椿が言うのなら僕は里中を殺したのだろう。他の三人のように僕の中にその記憶は戻っていないけれど、椿が知っているということは僕がやったということだ。


 だって椿は僕だから。僕がやっていないことを、椿が知るはずがない。


「そう、私が知っていることは全て君がやったことだよ。そして私がやったと君が思っていることも、本当にやったのは君自身――だって私は君の頭の中にしかいないんだから、()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 どこか聞き覚えのある台詞を言いながら、満足げな表情で椿が嗤う。「もう一つ教えてあげようか」、優しい声が耳元に近付いて、くすりと息を吐く音がした。


「君が殺したんだよ。猫も、鳥も」


 はっとして顔を上げれば、至近距離で微笑む椿と目が合った。


「嘘だ……」

「嘘じゃない。君はすぐ自分に都合の悪いことは忘れてしまうけど、起こったことは変えられない。ほら、思い出してごらん――お父さんは、どうして猫の死骸を抱いていたのかな」


 頭の奥からじんじんと痺れていく気がした。椿の奥で怪訝そうな顔をした刑事達が僕を見ているのが分かるのに、身体中の感覚が遠くなって、頭がぼんやりとして、現実との境が曖昧になっていく。


「どうしてって……」


 ――そんなの父さんが殺したからだ。


「どうしてそう思ったの? お父さんが猫を殺すところを見た?」


 ああ、見た。仔猫を縊り殺すところを。

 それまで動いていたのに、だらんと脱力して。温かかった毛皮が、僕の手の中でゆるやかに冷たくなっていったんだ。


「誰の手の中だって?」


 だから僕の――……僕の?


「ほら、思い出した」



 § § §



 仔猫がいたんだ。一人で遊んでいたら、庭に小さな小さな黒い仔猫がいた。仔猫は普通母猫と一緒にいると聞いたことがあったのに、周りに他の猫は見当たらない。

 ああ、この猫も僕と同じなんだ――そう思って、優しくしてあげようと思った。それなのに伸ばした手は、小さな口にがぶりと噛み付かれた。


 ねえ、なんで? どうして? どうして僕のことを嫌うの?


『あきらくんとはあそばない!』


 保育園で一緒に遊びたかった女の子は、そう言ってそっぽを向いた。だからいなくなればいいって思った。僕の近くからいなくなっちゃえって、思い切り押したんだ。


 この猫もそう。僕のことを嫌うなら、いなくなっちゃえばいい――そう思うのはきっと、嫌われるくらいだったらいない方が楽だと知っているから。

 僕のお母さんは、僕が生まれてすぐに死んでしまったんだって。でもお母さんがいなくても悲しいと思ったことはない。だって最初からいないから。いるというのがどういうことか分からないから、寂しいなんて思いようがない。

 お父さんの隠していた写真に写っていた()()()()は、凄く綺麗な人だった。お母さんはここにはいないけれど、ここにはいないから僕はお母さんを好きでいられる。お母さんも僕のことが好きなんだろうと思える。一緒にいなければ、お互い大好きでいられるんだ。

 だから僕を嫌おうとする奴には、いなくなってもらわなきゃ。


 手の中から、呻くような声が一度だけ聞こえた。それきり仔猫は動かなくなって、僕はそれを庭の花壇に隠すと家の中に戻った。


 その後はもう、仔猫のことは思い出さなかった。



 § § §



「……殺したのは、僕」


 思い出した。全部、全部、全部。東海林美亜も橘椿も、僕のことを拒んだから。明香さんだって僕を見て怖がった。僕は彼女達を好きだったのに、彼女達は僕を嫌ったんだ。


 僕を嫌う人なんていらない。僕だけが相手を好きだなんておかしいじゃないか。

 だからいなくなってもらわなきゃいけないんだ。そうしたら相手が僕を嫌いだなんて思わなくて済む。僕が相手を好きなら、相手もきっと僕を好きなんだろうと思える。


 でもそんな僕を東海林卓は酷く責めた。里中は僕のことを警察に話そうとした。

 彼らがそうした理由は分からなくもない。命を奪うのは普通はいけないことだから、彼らは彼らの正義感で行動したのだと思う。

 実際、僕もほんのちょっとだけ後ろめたさを感じていた。だから父さんの書斎に忍び込んだ時と同じように、全部自分の中に押し込めてしっかりと蓋をしたんだ。


 それだけ僕は反省していたということだ。それなのに東海林達は僕に嫌なことをしようとした。僕はちゃんと悪いと思っているのに、それを見もしないで自分達の正義感を振りかざしてきた。

 そういう勝手な奴らもいなくていい。息絶える直前に僕に向けられた視線だって不快でしょうがなかった。だから僕のやったことは間違いじゃない。みんな僕にはいらなかったから、いなくなってもらっただけなのだ。


「八尾さん、どうしたんですか?」


 刑事達が僕に近付く。彼らのその目は、あの時の父さん達のようで。ああ、彼らも――そう気付いた瞬間、痺れていた身体の感覚が一気に戻った。


「うわぁあああぁああああ!」


 自分を鼓舞するように、力いっぱい大声を張り上げる。僕の喉からこんな大きな声が出るのかとどこか冷静に考えながら、近くにいた河野に思い切り飛びかかった。


「ッ……!?」


 倒れた相手に馬乗りになって、手に触れた石を頭に振り下ろす。ガツンと硬い何かに当たった衝撃で、僕の手から石が飛んでいった。

 まだ殴ろうと思っていたのに――今度は落とさないようにしなきゃと別の石を探そうとした時、僕の身体が大きく弾き飛ばされた。


「河野さん!!」


 尾城の叫びと同時に、僕は地面に押さえつけられていた。河野に乗っていたはずなのに、今は僕の背に尾城が乗っている。

 近くに倒れた河野は頭からダラダラと血を流していた。まだ途中だと思っていたけれど、まるであの時の明香さんのような姿を見て口元に笑みが浮かぶ。

 また一人、いらない奴がいなくなった。安堵にも似た達成感で身体の力が抜ける。ふわりとしたまどろみが、全身を優しく包み込む。そして――


 にゃあ、と黒猫の声がした。

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