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虚像のゆりかご  作者: 丹㑚仁戻
第五章 八尾彰
22/30

〈四〉写真

 昭和の匂いを残す佇まい――それが、八尾が叔母・明香と住んでいたアパートを見た時に尾城が抱いた印象だった。

 最近のアパートは随分と洒落たデザインになっていることが多いが、このアパートは経年劣化で汚れた白い外壁に錆びた外階段と、自分が子供の頃によく見かけたような外観をしている。ある程度築年数が経っていればリフォームくらいしていそうなものだが、居室内はともかく外からはそういった様子は見受けられなかった。


「こんな古い建物よく残ってましたね」

「この程度、人が入るなら残るだろ」


 河野と話しながら車を降りると、アパートの前にいた老人に近付いていった。彼はこのアパートのオーナーである高橋で、事前に中を見たいと連絡してあったのだ。


「急に押しかけて申し訳ありません」

「いえいえ、いいんですよ。どうせ暇だったんで」


 愛想良く言った高橋の案内で、尾城達はアパートの二階へ上っていった。


「事故のあった部屋を見たいってことだったんですけど、生憎人が住んでまして。ちょうど同じ間取りの空き部屋があったんでそっちでお願いします。造りを確認したいだけなら問題ないですよね?」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」


 尾城が返すと、高橋は「ここです」と言って二階の一番奥の部屋のドアを開けた。


「私はどこかで時間を潰していた方がいいですかね?」


 高橋の質問に、尾城は「いや……」と答えながら河野を見る。高橋は自分達が帰る時に鍵を閉めなければならないが、邪魔にならないようにと気を遣ってくれているのだろう。だが尾城もそう時間がかかるとは思っていなかったため、河野にここで待っていても問題ないか目線だけで確認したのだ。河野から小さく首肯が返ってきたのを確認すると、尾城は高橋に向き直って笑顔を浮かべた。


「すぐに済みますので、ここにいてくださって大丈夫ですよ」

「というか、もしかしたら二、三質問するかもしれません」


 不意に先に室内に入っていた河野が声を上げる。尾城は何か気になることがあったのだろうかと思いながら、部屋の中を確認し始めた。


「……あれ? 一部屋だけですか?」


 玄関から入ってすぐ、フローリングの部屋が広がっていた。右手にはアパートの外廊下に面するようにキッチンが設置されていて、ここがダイニングキッチンにあたる部分だと分かる。部屋の奥を見ると途中からフローリングが畳に変わっているが、そこを仕切るような扉は見当たらない。


「元々1DKなんですけどね、この部屋は仕切りの引き戸が壊れちゃったんでカーテンで区切ってるんです。ほら、ここ」


 高橋が指差した部屋の隅には、厚めのカーテンが束ねられていた。


「事件があった部屋は引き戸なんですか?」

「ええ、カーテンなのはこの部屋だけですよ。例の部屋は事故当時も今も引き戸のままです」


 尾城が高橋の答えに相槌を打っている間にも、河野は一人でキッチンを右奥へと進んでいた。


「ここが風呂場ですか」


 河野が折りたたみドアを開けると、そこには浴室が広がっていた。浴槽は少し小さめで、その隣には陶器でできた洗面台が設置されている。


「そうそう、ここで八尾さんは倒れてたんです。こう、浴槽にもたれかかる感じで」


 当時警察にも散々話したのだろう、老人は少し興奮したように身振りも交えて声を上げた。

 そんな彼の動きを見ながら尾城は資料を思い返してみたが、特に目立った差異はない。狭い浴室内は成人女性が倒れられるようなスペースはなく、彼の言うように浴槽にもたれかかる形になるのは自然なことのように思えた。


「事故当時この扉は開いていたみたいですけど、浴室から出ようとしていたなら外側に倒れません? っていうかこの造りでどうして洋服が中にあったんでしょう」


 事故の記録では、八尾明香は全裸の状態で浴室に倒れていたという。その傍らには濡れていない衣服があり、尾城にはそれがどういう状況なのか分からなかった。


「お前こういう家見たことないのか。風呂場の外は直接普通の部屋だから、扉を開けるのは外に出る時だけじゃないんだよ。外に置いてあったタオルだけ取ってここで身体拭いたりとかな。甥っ子とはいえ異性が住んでたなら、着替えまでここで済ませたっておかしくない。中に服があったのはそういうことだろ」

「ああ、なるほど」


 つまり八尾明香は風呂から上がった直後ではなく、ある程度支度を終えた後に意識を失ったのだろう。自分も立ちくらみを感じたままその時していた作業をぎりぎりまで続行することがあるが、彼女の場合は途中で切り上げて休んでいれば死なずに済んだのかもしれないと思うと、尾城は眉間に力が入るのを感じた。


「引き戸っていうのは、結構分厚い造りですか?」


 浴室の床をコンコンと叩きながら、河野が高橋に尋ねる。よくあるユニットバスの床は浴室らしく、大した強さで叩かずとも音を大きく反響させた。


「いや、それほどでもないですよ。厚さとしてはそこの窓とそう変わりません。実際すりガラスも入ってますしね」

「和室の引き戸みたいなものですか?」

「そうです、そうです。奥が和室なんで、引き戸もそれに合わせてあったんですよ」


 それを聞くと、河野は考えるような表情で浴室から出てきた。彼の視線はダイニングと和室の境あたりを向けられており、頭の中に引き戸を思い浮かべているのだろうと尾城は感じた。


「なら普通にこの辺歩くだけでも引き戸の揺れる音はしますかね?」

「そうですねぇ……静かに歩いてくれればいいんですけど、踵歩きだと結構鳴りますね」

「そんなに音するんですか?」


 河野達の会話に尾城が割って入れば、河野は怪訝そうな表情を浮かべた、


「お前はまさか和室もまともに知らないのか」

「知ってますよ。でもうちの実家は襖だったんで、すりガラスの入った引き戸ってよく分からないんです」


 尾城の言葉に河野は嫌そうに顔を顰めたが、そのまま思案するような顔に変わったかと思うと「あー……」と言葉を探すように声を漏らした。


「学校の教室って引き戸だったか?」

「ええ」

「あれ近くの壁にぶつかると振動でうるさいだろ」

「そういえば音が鳴っていたような……」

「ああいう感じだよ。ぴったり嵌ってないから振動で音が鳴る。学校のやつよりガラスが多いからか薄いからかは分からんが、まあ古い和室のガラス戸ってうるさいんだよ」

「へえ、そういうものなんですね」


 尾城が納得したような様子を見せると、河野は高橋の方へと向き直った。


「だから倒れた時の音は室内でも相当うるさかったと思うんですが」

「そうでしょうね。下にお住まいだった方は重い物が落ちる音を聞いてらっしゃいましたし、隣の方も引き戸の音と振動を感じたようですから」

「当時お住まいだった方はまだこちらに?」

「いえ、皆さんもう引っ越されてますよ。ほら、ここ立地悪いでしょう? お金がないうちは住んでくれるんですが、ある程度稼ぐようになるとねぇ……」


 そういえばこの家の家賃は破格だったなと思い出しながら、尾城は高橋の言いたいことを悟った。



 § § §



「――結局、特に真新しいものはありませんでしたね」


 アパートを後にした車内で、尾城は車を走らせながら河野に話しかけた。何年も前の事故に関する調査であれば仕方がないことではあるが、隣にいる先輩刑事は不機嫌そうな顔をしている。それは何も見つからなかったことに対するものというよりは、どこか納得していないような表情に見えた。


「思ってたより音が響きそうな家だったけどな」

「八尾が起きなきゃおかしいってことですか?」


 尾城には河野の言うガラス戸の揺れる音がどれほどのものか分からないが、彼が納得できないくらいの音量なのだろう、と納得していた。できれば実際に聞いてみたいところだが、身近に聞けそうな家が思い当たらないため仕方がない。


「ああ。それに記録にはないが、着替え途中で倒れたんなら浴室の明かりは付いてたはずだろ? ガラスの引き戸なら明かりが漏れていたはずだ」

「でも明るくても眠れるタイプだっているじゃないですか。俺もそうですよ」

「そうなんだよなぁ……。まあ、次行ってみるか」


 そう言って河野は助手席から窓の外に視線を移した。八尾が叔母と住んでいたアパートから少し街を外れの方に進み、辺りには畑が広がっている。

 尾城達は今、八尾の祖父の面倒を見ていた新城(しんじょう)という人物の元へと向かっていた。八尾と血縁関係はないが、彼の祖父である八尾清次郎(せいじろう)とは古い友人なのだそうだ。八尾の祖母・明子(あきこ)が生前自分に何かあった時はと色々と託していたらしく、彼女の死後は介護施設で暮らす清次郎の身の回りの世話をしていたとのことだ。

 正式な後見人というわけではなかったが、明子から預かった八尾家の荷物を管理したり、定期的に清次郎の元に顔を出したりしていたらしい。本来であればこれらは当時健在だった娘である明香の役目だが、孫を押し付けてしまったことで負い目があった明子は新城を頼ったのだという。


「――清次郎君の家族のこととのことで」


 尾城達を出迎えた老人は、人好きのしそうな笑顔を浮かべながら応接間へと案内した。八尾の祖父を今でも名前で呼ぶということはそれほど親しかったのだろう。


「亡くなったのはもう八年前になりますか。明子さんには三回忌までで良いと言われていたので法事もしていませんが、清次郎君の物は中々捨てられなくて取ってあるんです。本当は彰君に渡したかったんですが、あの子が施設に入った関係で機会を逃してしまいまして……」


 そう言いながら新城が尾城達に差し出したのはダンボール箱だった。両手で抱えられる程度の、それほど大きくないものだ。事前に連絡した際に八尾家のことが知りたいと伝えていたため、前もって用意していたのだろう。


「拝見しても?」

「どうぞどうぞ。多くは明子さんが善晴(よしはる)君の代わりに管理していたものみたいですね。明香(さやか)ちゃんが亡くなってからは彼女のものも少しあります」


 〝善晴君〟に〝明香ちゃん〟――八尾の父と叔母を指して親しげに呼ぶ新城を見て、尾城は彼らの親密さを実感した。それは河野も同じだったようで、「随分と親しかったんですね」と新城に視線を移す。


「それほど親しかったのであれば、八尾彰さんの扶養は打診されなかったんですか?」


 河野が尋ねると、新城は苦々しい顔をした。


「可哀相だとは思ったんですが、当時既に私も娘婿に面倒を見てもらっている身で……血縁関係があるならともかく、友人の孫というだけじゃあ中々……」

「責めているわけじゃないんです。単に状況の確認だけで」

「すみません、何年経っても後ろめたくて」


 重々しくなってしまった空気を変えるように、尾城は「清次郎さんの息子さん……善晴さんのものはありませんか?」と明るい声を上げた。


「ああ、ありますよ。確かこのへんのアルバムが……」


 新城が取り出して見せたのは小さな写真アルバムだった。中には若い夫婦と見られる写真があり、どれも幸せそうな顔をしている。この夫婦が八尾の両親・善晴と沙奈(さな)なのだろう。


「これ、奥さんの死後に善晴君が捨てようとしていたそうなんです。それを明子さんがこっそり保管してて」

「捨てたのは、やはり辛かったからでしょうか」

「でしょうね、かなり憔悴している様子だと聞いていましたから。でも息子を育てなきゃならないってんで無理矢理自分を鼓舞していたみたいです。それで奥さんとの思い出の品を全部処分しようとしたらしく……。当時既に清次郎君が認知症を患っていたこともあって実家に帰ることもほとんどなかったそうなんですが、自宅からそっちに移すんじゃなく捨てようとしたあたり徹底的だったみたいです。明子さんも偶然手伝いに行ったら驚いたって、どうにかそれだけ回収したみたいなんですけど」

「……もしかして彰さんは、母親の顔を知らないんですか?」

「有り得ると思います。明子さんは善晴君が全然奥さんの話題を出さないってぼやいてましたから」


 そんなことあるのだろうか、と尾城は何も言えなくなっていた。夫婦の不仲で別れたのであれば相手の顔を子供に見せないということもあるのかもしれないが、八尾善晴と妻の沙奈は死別だ。善晴が憔悴していたということは、それだけ相手に対し情もあったのだろう。それなのにまるで記憶から消し去るような善晴の行動は常軌を逸しているようにも思えた。


「まあ、善晴君も相当参ってたみたいですね。……噂では、近所の野良猫を殺して回ってたとか」

「野良猫を?」

「自宅の庭に死骸がいくつも埋められていたそうです」


 新城の発言に言葉を失ったのは尾城だけではなかった。隣にいた河野も顔を顰め、何を言うべきか探しているように見える。

 そんな刑事二人の雰囲気を察したのか、「あくまで噂ですよ」と新城は困ったように付け足した。


「でも、自宅からそういう形跡が見つかったんでしょう?」


 尾城が問えば、新城は眉根を寄せた。


「見つかったのは死骸だけです。どういう経緯でそこに埋められていたのかは誰にも分かりません。もしかしたら彰君と見つけた亡骸を、可哀相だからと持ち帰っていただけかもしれませんし」

「だとしても一匹や二匹が限度なんじゃ……彰さんには確認したんですか?」

「あんなことがあった子供に聞けますか? もし違うんだったら……あの子の心に深い傷を負わせてしまうことになります」


 新城の言い分から考えれば、当時は状況の把握よりも八尾少年の心のケアを優先したということだろう。それは尾城にも納得できたが、何も分からないままで気味が悪くなかったのだろうか、と顔を顰めた。


「まあ、そういう顔になりますよね。本当は明香ちゃんが折を見て聞くことになっていたんです。彰君が父親の死を過去のこととして考えられるような年齢になったら、と。……それも、駄目でしたが」


 そこまで言うと、新城は気を逸らすようにダンボールの中を漁り始めた。その中からいくつか物を取り出すと、「これも善晴君のものですよ」と尾城達に弱く笑いかける。


「この辺は善晴君が亡くなった時に回収したものだったと思います。この缶の中身は昔から善晴君が大事なものを入れていたからって、明子さんは手放せなかったみたいで」


 缶というのはよくある四角いお菓子の缶だった。中を開ければ古いCDや手紙、雑誌の切り抜きなど、確かに個人的に大切にしていたであろう物が詰まっている。

 その中から尾城が手紙を手にとって見れば、そこには丁寧な文字で〝八尾善晴様〟と宛名が書かれていた。裏には同じ筆跡で送り主の名前が書かれている。


「沙奈さんってことは、この手紙は奥さんとのものですね。名字が違うから結婚前でしょうか」

「これだけは手放せなかったんだな」


 新城の話では、八尾善晴は徹底して沙奈を思い出す物を処分していたようだが、こうして残っているのを見ると尾城にはどこか安心感があった。野良猫を殺していたかもしれないという話を聞いた後だったせいもあって、うっすらと感じていた気味の悪さが薄れていくような気さえする。


 そうして残りの缶の中身も見ていくと、数枚の写真が出てきた。仲間内で撮ったような写真で、どれも若い八尾善晴が男友達と思われる人物達と写っている。写真に写る人物達の服装は少し古臭く感じるが、自分の学生時代とそう変わらないなと思いながら写真を捲っていた時、尾城は自分の背に一気に怖気が走るのを感じた。


「河野さん……これ……」


 尾城が示した写真を見て、河野も目を見開く。その写真に写っていたのは、偽物の橘椿の似顔絵によく似た女性の姿だった。

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