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虚像のゆりかご  作者: 丹㑚仁戻
第五章 八尾彰
19/30

〈一〉陽炎

 警察が家を調べた次の日、僕は食料を買い出すために自宅の外に出て首を左右に倒した。動きとともにバキバキと音が鳴るのはやはりずっと緊張していたからだろう。警察署にいたのは昨日一日だけだが、捜査のために物が持ち出されいつもより片付いた部屋は落ち着かなかったのかもしれない。

 僕がこうしていつもどおりの生活をしているのは、任意の聴取から解放されたからだ。自宅の捜査までしてもらったが、結果としてその場では何も出なかった。一部科学的な調査が必要なものはまだ結果待ちらしいが、僕自身に逃亡の意思がないことから、見張りの警官がつくことでそのまま解放となった。


「行くか……」


 正直、一人で家の外に出るのは気が重い。元々真犯人に殺されかねないと思っていたのに、警察に調べられていたと分かればボロが出る前に僕を殺そうとしてくるかもしれない。

 見張りの警官は僕が逃げないようにとつけられたものだが、同時に真犯人を捕まえるためでもある。僕が警察で匿ってくれとごねたから、あの尾城という刑事が見張り担当の警官に僕の命を狙う者の存在も伝えてくれることになったのだ。


 たった一日ろくに外に出なかった間に夏が一気に勢力を増したのか、日差しが以前よりも凶暴になっているように感じられた。道の先は陽炎となってもやもやと揺れ、街路樹の下を歩けばアブラゼミの大合唱が頭を突き刺す。身体中から吹き出す汗は、家から出てすぐに僕の服に染みを作った。額の汗は拭っても拭っても落ちてくるし、頬が湯だったように暑い。

 買い物から帰ったらまずシャワーを浴びよう――少し先の予定まで考えると、やっと足の重さが少し取れた。意気込むように肩で顔の汗を拭えば、湿った感触が肌に触れて眉間に力が入る。

 既にびしょ濡れになってしまっているせいであまり効果がなかったと思いながら顔を上げると、真夏に不釣り合いなものがそこにいた。


「……椿」


 否、橘椿のふりをした誰か。椿は以前会った時と同じ真っ黒のワンピースに身を包み、ふんわりと笑みを浮かべている。これだけ暑いのにぬるく弱い風で小さくなびく髪には余分な湿度は感じられず、透き通るような白い肌には汗が滲んでいる気配もない。

 まるで、そこだけ別世界のように――同じ炎天下に立っているはずなのに、彼女のいる場所だけ快適な気温が保たれているとしか思えないくらい彼女はいつもどおりだ。それがなんだか酷く腹立たしくて、僕はつかつかと歩み寄ると声を尖らせた。


「お前、一体誰なんだ」


 近付いたせいで椿の目を見る僕の視線は少し上を向いた。それに気付くと同時に悔しさが込み上げたけれど、目を逸らすのも格好が悪いから慌てて目元に力を込める。だけど椿はそんな僕の心情を見透かしたように、僕を見下ろしながらふっと不敵に笑った。


「知っているだろう?」


 相変わらずの人を喰ったような口振りに、僕の頭はさっきよりもずっと熱くなった。


「ふざけるな! いつもそうやって訳の分からない言い分で煙に巻こうとして……! 僕が君を知っているはずないだろ!?」

「訳が分からないと思うのは君の見方が悪いからだ。私は最初から本当のことしか言っていないよ」

「よくもそんな平然と嘘を吐けるな。本当のことしか言ってないなら名前はどうなんだ! 橘椿は別人の名前だぞ!? あの家だって君のものじゃない!」


 僕が怒鳴ると、椿はやっと笑みを引っ込めた。しかしその初めて見る表情はただの真顔のはずなのに、ぞっとするような冷たさが僕の全身を包み込む。


「私がいつ、自分で橘椿と名乗った?」

「いつって……」


 そんなの初めて会った夜だろう――そう思って記憶を辿ると、ふと違和感が胸を過ぎった。

 そういえば、そうだ。椿はまだ名乗ってない。彼女の名前を橘椿だと思ったのは、僕があの家で処方薬の袋を見たからだ。椿のあの家での振る舞いは自分の家でのものとしか思えなかったから、だから薬の持ち主と彼女が同一人物だと思ったんだ。


『なんでそんな冷静なの? 椿だってもう無関係とは言えないだろ?』

『ああ、私のことか』


 考えてみれば、初めて名前で呼んだ時の反応もおかしかった。僕の言った内容のせいだと思っていたけれど、あの時の反応は自分が別の名前で呼ばれたことに対するものだと思えば――そこまで考えると、僕は探るように椿を見つめた。


「……どうしてあの時否定しなかった?」

「ただの呼び名だろう? 君が呼ぶならなんでもいいさ」

「どういう意味だよ!? 大体名前はともかく、なんであの家に僕を連れて行ったんだ!」


 僕が言うと、椿は「そう見えてるんだ」と再び笑った。


「君の見ているものが正しいとは限らないよ」

「どういう……」

「さあ? 自分でようく考えてごらん。まあ、考えても分からないと思うけど」


 また人を馬鹿にしたような言い方をして――そう不満に思うのに、それよりも言われたことのの方が僕の意識を支配していた。

 駄目だ、椿の言うことを真に受けたらいけない。どうせまた適当なことを言っているに決まっているんだ。きっと思いつくままに僕を悩ませるようなことを言って、そして僕が本当に考え込むのを見て楽しんでいるだけなのだろう。だから考えたところで無駄だと分かっているのに、椿の言葉は頭の中をぐるぐると廻って、僕にその意味を考えさせる。

 そのせいで身体の自由をすっかり奪われて、僕は歩き去っていく彼女をただただ見つめることしかできなかった。

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