〈一〉現存する黒猫
猫を見ると父さんを思い出す――彼が猫の亡骸を抱えながら、僕を見ていた時のことを。
『ごめん、ごめんなぁ……。父さんがしっかりしてないから……』
記憶の中で涙を流しながら僕に謝っていた父さん。
父さんが近所の野良猫を殺して回っていたと知ったのは、彼が首を吊ってから何年も経った後だった。
§ § §
にゃあ、と鳴いた黒猫が、僕の視界の端を前から後ろへと歩き去っていった。咄嗟にその行く先を目で追ったものの、そこには暗闇が広がるばかりで猫の姿は見つけられない。全身を真っ黒な毛皮で覆われた黒猫は、もう闇に溶けた後だった。
あの猫ももう少し早く生まれていれば父さんに殺されていたのだろうか。脳裏に残る黒一色の残像に、ふとそんなことを考えた。首輪を付けていないのはきっとあの猫が野良だからだ。野良猫は、父さんに殺されてしまうから。
でもすぐに僕は自分の考えを改めた。さっきの黒猫が野良猫かどうかじゃない。生まれてくる時代が違えば父さんに殺されていたかもしれない――そんな、野良猫を見ると無意識のうちに浮かんでしまう考えを、だ。
何故なら当時僕らが暮らしていたのは千葉県の郊外で、ここは東京。野良猫の移動範囲は分からないものの、流石にこの距離は移動しないだろう。
ここはあそことは違う――ゆっくりと目を閉じて自分に言い聞かせる。ここに、父さんはいない。僕を恐れるような目で見ていた奴らもいない。
少しして、僕は再びゆっくりと目を開けた。相変わらずの暗闇だったが、もう猫を追う必要はないと思って僅かな明かりを頼りに周囲に視線を配る。そうして目から受け取った情報は、僕にここがどこだかを教える……はずだった。
「……何だよ、ここ」
困惑が胸を覆い尽くす。自分の口から出た声がやたら掠れていたことも、その口を含めた身体中に痛みがあることも、そして見知らぬ廃屋のような場所にいることも、全部、全部が僕を困惑させる。
窓から入ってくる弱い夜の明かりが照らすのは、あまり見慣れない大きな機械や資材ばかり。ここは工場か、物置きだろうか。暗くても埃っぽいと分かるから、人の出入りが少ない場所だということは確かだろう。
一体何故僕はこんなところにいるんだ。自分で来た記憶なんて勿論ない。なら誰かに連れて来られたのだろうか。誰がそんなこと――混乱のままにその場でうろうろしていたらしい僕のつま先に、ふと重たい何かが触れた。幸いしっかりと歩く気がなかったからか体勢を崩さずに済んだものの、その何かの正体に気付くと同時に小さな安堵が一気に弾け飛ぶ。
「ッ!?」
人だ。うつ伏せに倒れた人間が、僕の足元にいる。
誰、何故、いつから――あらゆる疑問詞が頭の中に浮かんでは消えていく。何度も何度も僕の脳内を散らかして、答えを考えることを妨げる。
それなのに僕の五感は新しい情報をどんどん仕入れていた。倒れた人間の服装、体型……男だ。あまり体の大きくない僕よりも体格に恵まれている。それから淀んだ空気、覚えのある生臭さ……いや、鉄の臭い。それに混じるのは死の、死体の臭い。
「は……? まさか死んでる……?」
脳裏に蘇るのはかつて見た猫の亡骸。毛皮を血に汚し、命を吐き出したその姿。足元で倒れている男を見ていると、あの時と同じ感覚に包まれる。
よくよく見れば男の服には染みができていた。茶色っぽいシャツの肩付近に、下から滲んだような黒い染みがある。頭の下には僅かに血溜まりができていて、これがこの染みを作ったのだろうと推測できた。
そういうどうでもいいことは頭に浮かぶのに、肝心の問題は一切解決していなかった。ここはどこで、彼は誰で、僕はどうしてここにいて、彼は何故ここで死んでいるのか――形になってきた疑問は、僕の混乱を少しずつ鎮めていった。
そうすると自分のすべきことも分かってくる。自力でこの疑問を解決するのだ。ここがどこかはすぐには分からないから、まずはうつ伏せで顔の見えない男が誰かを確認しなければならない。
僕は意を決すると、しゃがんで男に手を伸ばした。体の大きな男だがどうにか反転させるくらいはできるだろう。そう思って伸ばした手を見て、僕は一気に青ざめた。
「ッなんで……!」
赤黒く汚れた手。拭き取ったかのように汚れは薄れていて、既に乾いている。一瞬自分の血かと思ったものの、ところどころにある痛みは打撲のようなもので、血が出るような痛みじゃない。
しかも既に乾いているとは言っても、付着した量がおびただしいものだったということは嫌でも分かるくらいに僕の手はまんべんなく汚れていた。こんなに血を流すような怪我をしていればとっくに気付いているはず。だからこれはきっと、僕の血じゃない。
ならば誰の血か――そんなことは考えるまでもなかった。
「なんなんだよ……これじゃあまるで僕が――」
――殺したみたいじゃないか。
「ッ……そんなわけない!!」
叫んだ声が廃屋の中に響く。びくりと肩が揺れたのは人に見られたらまずいと思ったからだろうか。
いや、見られてまずいことなどあるものか。だって僕は殺していない。手に血は付いているけれど、彼を殺した記憶なんてない。
だから、そうだ。警察に通報しよう。日本の警察は優秀だって言うから、僕がやっていないという証明をしてくれるに違いない。
なんだったら僕だって被害者だ。きっと僕は誰かにここに連れて来られた。気が付いた時にはここにいたということは、恐らく気絶でもさせられたのだろう。
その間に手に血を塗られ、雑に拭き取られ、どう見ても怪しくなるように仕立てられたのだ。だからやっぱり僕は被害者だ。事件の被害者として最優先してやるべきは通報すること、その一択。
――本当に?
自分の考えに、ふと疑問が過ぎった気がした。その疑問の正体を探ろうと必死に思考を巡らせれば、すぐにそれは言葉となって僕の頭の中に響く。
そこまで周到に準備されていたのに、無実の証拠など存在するのだろうか――ぞくりと、背中に寒気を感じた。
僕をここに連れて来た奴は相当準備をしている。僕が疑われるように仕向けている。それなのに僕がやっていないと示すようなものだけを残すだなんてことは考えられない。
なら僕はここから逃げた方がいいんじゃないか。見つからなければ疑われないし、周囲を見ても監視カメラらしきものは見当たらない。だったらここから逃げてしまえば、僕が疑われる要素はなくなるんじゃないか。
そう思って、足を動かそうとした時だった。
「逃げるのかい?」
弾むような女の声が響く。黒猫の消えた暗闇を見れば、真っ黒な長い髪を持った女がぬるりと姿を現したところだった。
「ッ誰だ!? お前が僕をここに……!?」
「違う違う、私はそんなことできないよ」
からからと楽しげな声は、暗くて表情が見えなくても女が笑っていることを表していた。
「信じられるわけないだろ!? こんな……こんな状況で笑ってるような奴なんて……!」
「こんな状況っていうのは、人を殺した君が逃げようとしているってことかな?」
「違う!! 僕じゃない!!」
大声で否定しながらも、やはりそう見えるのだという焦燥感が僕を苛んでいた。こんな得体の知れない相手の言うことなど信じる気にもならないが、もし本当だとしたら第三者にも僕がこの男を殺したように見えるということだ。
どうにか僕がやっていないことを信じてもらわないと、僕が犯人として通報されてしまう。それを防ぐためにはどうしたらいいかと考えていると、女がふっと微笑う気配がした。
「まあ、逃げるのもいいかもね。私は君の判断を尊重するよ」
「どういう意味だ……? 通報する気はないのか……?」
「言っただろう? 私はそんなことできないよ」
「できないって……じゃあやっぱりお前はこの状況に関わってるのか!?」
「今関わってるじゃないか」
「そういう意味じゃなくて……!」
女の態度に苛立ちが募る。言葉は通じているのに会話がうまくできない。恐らく女がわざとそうしているのだろうが、そのことが分かっていても今の僕には受け流す余裕などなかった。
それでも僕はその苛立ちを女にぶつけるわけにはいかなかった。彼女がどういう人間か全く分からないのだ。男である僕の怒りを目にして恐怖でも感じてしまったら、そのまま逃げて通報されかねない。本人はそんなことはできないと言っているが、その言葉の意味もよく分からないのに信じられるはずもなかった。
どう聞けばいいだろうと僕が必死に考えていると、女が口を開くのが分かった。
「とりあえずさ、」
上機嫌な女の声が、どうにか冷静を保とうとしている僕を嘲笑う。僕は咄嗟に身構えたが、彼女の口から続いたのは僕を更に馬鹿にしたようなものだった。
「その怪我、どうにかした方がいいんじゃない?」
まるで自分が殺人現場にいると自覚していないかのように。楽しげに言う彼女からは、他に何の感情も感じ取れなかった。