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朝四時。寝て起きてみれば、旦那様がいない。はてどうしたものかと思えば、シングルベッドに寝ていることに気づく。そこまでいたって、昨日は書斎に籠りっぱなしで、そのまま備え付けてある仮眠用ベッドで寝たのだと思い出した。
早起きは三文の徳というが、人生の半分より長く続いているこの早起きは、何か徳をもたらしてくれたのだろうか。長い廊下を歩きつつこれまでの人生を振り返ってみれば、人生の節目や転機は大抵寝坊した日だ。そして雨が降っていることが多い。もしかして私は雨女なのだろうか。いやいやそんな馬鹿な。頭を振ってキッチンに入れば、愛しの旦那様がいらっしゃった。部屋に誰かが入ってきても気づかないのは相当珍しい。昨日は調子が悪いと言って早めに引き上げていったのだが、良く寝れなかったのだろうか。
「おはようございます、お兄さん。」
「おはよう、あいちゃん。台所借りてるよ。」
「はい。存分にお使いください。」
「よかったらご飯も作っちゃうけど」
「お願いします。そしたら私は原稿あげてきちゃうので、西館にいますね。」
「朝食の時間になったらありすも呼んできてもらえる?」
「はい。書庫に籠ってるらしいので、忘れてたらお願いしますね。」
「うん。頑張ってね。」
「ありがとうございます。」
いつもなら旦那様のお隣で調理を眺めたり、洗い物をしたりと側に居る私であるが、今日ばかりは少し離れたかった。
私の魔法には、世間では知られていない、言わば隠された効果がある。片割れの考えていることがわかる、というものだ。もちろん、魔法を使わなくても何を考えているかくらいわかるが(愛のなせる技だ!)、テレパシーのように強く意識すれば映像や感覚を共有する事ができる。私があの人を見つけ出すことが出来たように、あるいはあの人の心に入り込むことが出来たように、記憶すら共有させ強い結び付きと理解をもたらす魔法であるが、『わたしの望んだ世界』である以上やはり限界がある。
以前どこかで語った通り、魔法使いは死してはじめて魔法使いとなる。魔法使いは生前の願いの影響を強く受け、そしてだんだんと人格が歪んでいく。わたしが託した願いは愛情である故にあの人から離れられないように、あの人も幾つか強迫観念に突き動かされている。
月の魔法の代償は、アイデンティティ。魔法を行使した相手の精神性を吸収してしまうという、かなり異質なものだ。魔法は今際の願いを受けて生まれるように、死ぬ瞬間の念(所謂残留思念)には大きな願望と歪みが存在する。
その魔法の性質と、自らの意志のために常に最前線で『戦争』を切り抜けた彼は、多くの人間を手にかけたと聞く。戦争で死ぬ間際の人間が抱える感情なんて、数えるほどしかない。生きたい、死にたくない、許せない、殺すーーーとにかく、そういった歪みを背負い、生きることへの恐れと執着を抱えた彼は、意識のどこかで常に、今でもその願いに縛られている。
「…あ、今日は魔女さんの命日でしたっけ。」
原稿自体は終わっていたので添付書類を書き上げて片付け、ありすの様子を見ようと思い、書庫に向かったら入り口にかけてあったカレンダーを見て思い出した。小さく、そっと丸がつけられている。スッと背が高く、力持ちの彼のイメージに反するように薄い筆圧は、間違いなく彼のもので、結婚記念日すら記さない(でもまだ忘れられたことはない!)カレンダーに唯一書かれたもの。
『あら、あなた、わたしの誕生日を忘れるなんて。』
「おはよう、魔女さん。お誕生日おめでとう、それと御愁傷様。」
『もう十回忌なんだし、いい加減気にしなくてもいいのにねぇ。』
「十年目だからじゃないですか?一応お墓に行こうと思うんですけど。」
『いいのよ。無縁仏なんだし。』
「ええ。彩乃さんとご飯に行く予定ですから。」
『あら。そういえばまだ子供生まれないの?』
「新婚さんなんですからそっとしておいてあげましょうよ。」
『だってもうアラサーじゃない。』
「お外では三十代で初婚なんてザラじゃないですか。」
『こっちでは二十代で行き遅れよ。』
「はいはい。」
脳内に巣食う女性の声。『戦争』で旦那様と一緒に駆け抜け、志し目前にして果てた少女。そして、私の魔法を逆手にとり宿りやがった怨霊だ。
『怨霊とはなによ。』
「怨霊は怨霊ですよ。成仏すればいいじゃないですか。もう十年ですよ?私が生まれてお兄さんと再会するより経ってるんですよ?」
『…悪かったわよ。セックスの最中に茶化して。』
「本当に思ってます?」
『貴女に対しては嘘はつけないでしょ?』
「ええ、いい機会ですし反省してくださいね。」
ーーー悲しい、悲しい事件はこの一年後、反省してなかった魔女によって引き起こされた。しかしそれを語るには年齢制限が足りていない。ーーー
「ありすちゃん、起きてますか?」
「ん…アイ。おはよう。」
「はい、おはようございます。」
「アンバーもそこにいる?」
「ええ。居ますよ。」
「アンバー、おはよう。誕生日おめでとう。プレゼントもあるから、アイに見せてもらって。」
『あら、幾つになっても嬉しいわね。あの“小さなアリス”が健やかに育って、あたしも嬉しいわ。』
「魔女さんがありがとう、って。」
「ん。…そろそろ、わたしの使い魔にならない?」
『考えておくわ。まず普通の使い魔を用意できてからね。』
「使い魔の勉強を始めたら考えてあげる、だそうですよ。」
「わかった。鳥の方がいいの?」
「哺乳類じゃなければなんでもいいらしいですよ。」
『え、猫とかがいいんだけど。』
「虫とかどうです?鈴虫とか。」
『ちょっと、それバカにしてるの?』
「…アイ、今日は機嫌悪い?」
「あ、ごめんなさい。もう大丈夫です。もうすぐご飯ですから顔を洗って食堂に来てくださいね。」
これはそこまで関係のないことなのだが、魔女ーー魔法使いは大抵生理が非常に重い。私には魔女になる前の経験がないので比較対照できないのだが、それでも重い傾向にあるのは事実らしい。
「ん。後で。」