サイド狩野悠介 第1章「まったく違う人間」
それを見たのは、本当に偶然だった。
人に合わせたり気の利いたことを言ったりするのが元来不得手な俺は、
中学高校を経て大学生となった今ではあまり誰ともつるまない生活スタンスがすっかり身についていた。
別にそれが悲しかったりつらかったりする訳ではない。
誰にだって自分に合った生き方というのは存在するのだし、
俺は元々大人数でつるむのには向いていないのだ。
そういう点で、俺と櫻井一晃はまったく違う人間だった。
【二〇〇九年二月初旬】
今学期最後の単位取得試験が終わった。
試験用紙がすべて教師の手に渡ると、ホッと一息をつく者や
よほど出来が悪かったのか鬱々と沈み込んでいる奴など、それぞれ多種多様な反応を示している。
俺はというと別段出来が悪かったわけでもなし、
だからといってこの後に何か楽しいイベントが控えているわけでもない。
これから暫く通学しなくて良いってのは、正直嬉しいというか楽だなと思う。
最後の授業――もとい試験という事で、周囲の学生たちは慌ただしく片づけをして席を立っていく。
そりゃ早く帰りたいよな。
でも俺は大学から徒歩圏の自宅通いなわけだし、のんびり片づけて帰りますけどね。
すいませんね、どうも。
そういう訳で俺は混み合う出入り口には目も暮れずに
机まわりの筆記用具や学生証を片づけていたのだが、
唐突に誰かが俺の座っている机に衝突してきて、筆箱が地面にダイブした。
先にファスナーを閉めておけばよかったな、と思っても後の祭りである。
「あ、わりいわりい!」
当たったのは同じ学部の坂本とかいうデカい男で、ガタイだけでなく声もデカい。
ろくに会話をした事もないが、一年通っているとそれくらいは自然と覚えてくる。
しかもこいつときたら、謝ったと思ったらすぐ自分を突き飛ばしたらしい友人の元へ行ってしまった。
いやお前、拾ってくれないのかよ。
別に良いけどさ、これくらい。
「ごめん狩野、大丈夫か」
飛び散った筆記用具を集めようと床にかがみ込むと、また別の奴が声をかけてきた。
こいつも知っている。櫻井とかいう奴だ。
「休みだからって浮かれすぎなんだよ、あいつ」
そう言って櫻井は苦笑しながら、俺が拾うのを手伝ってくれた。
「……確かに、やたら浮かれてはいるみたいだな」
出入り口の辺りで友人と楽しそうに言い合いをしている坂本の姿を見てそう答える。
俺の少ない筆記用具は二人という人員をやや持て余してすぐに片づいた。
「櫻井、明日飲み会するからお前もこいよ!」
櫻井は「じゃあ」と言って坂本やその他にも大勢がつるんでいる中へ戻っていった。
どうも彼らは、無事一回生での授業が終了した事を祝して飲み会をするらしい。
坂本の大きな声のお陰であちらの会話が筒抜けになってしまい、
これではまるで俺が盗み聞きをしているみたいだ。
(なんかやだし、やっぱとっとと帰るか)
筆箱のファスナーをしっかりしめてリュックの中に入れ、
俺はまだまだ帰りそうにない集団を横目に教室を横切った。
それにしても大勢いるグループだ。
俺が入っても全員の名前を覚えられなさそう。
そんな事をぼんやりと考えながら楽しそうに談笑する奴らをすり抜けていたのだが、
ふと目に入ったそれに、俺は驚いた。
坂本やほかの奴らと楽しそうに話していた櫻井が、
一瞬ひどく疲れたような顔をしたのだ。
だがそれはすぐかき消され、また先程の笑顔に戻る。
その時初めて、俺は櫻井がもしかすると見た目や印象とは異なり、
もっと面白い奴なのではないかという疑惑を持ったのだった。
【二〇〇九年六月】
あれから四ヶ月。何故か俺は、櫻井とよく話す間柄になっていた。
きっかけはというとなんとも説明しがたいのだが
簡単に言ってしまえば、まずあれから櫻井になんとなく興味をもった俺が
なんとなく観察みたいなものをしていると、それに気付いた櫻井が
俺に話しかけてきて、思っていた事を正直に言ったら櫻井を怒らせてしまい、
しかしすぐに許された。
その間なんと九十分の出来事だ。
この短時間に一体どんな心境の変化があったのかは知れないが、
ともかくそれから俺と櫻井は、顔を合わせればそれなりに話をする程度には親しくなっていた。
「なー。狩野ってさ、なんか趣味ねぇの」
その日俺は偶然顔を合わせた櫻井と連れだって食堂に来ていた。
食後の軽い睡魔に襲われながらも自前のルービックキューブで格闘していた俺は、
いきなりの櫻井の質問にそのまま同じ言葉を返した。
「…趣味?」
急に何だというのだろう。
とりあえず自分の好きなことを思い浮かべてみたのだが、
基本的に物に対する執着が薄い上に飽きっぽいため、
あまり趣味らしい趣味が思いつかない。
とりあえず強いて挙げるとすれば、今はこれで間違いないだろう。
「これ。マイブーム」
そう言って数ヶ月前に家の押し入れで発掘したこのルービックキューブを見せると、
途端に櫻井が頭を沈めてガクリと脱力した。
机に突っ伏しながら、何故だか妙に恨めしそうな声をしている。
「つか金いらねー…」
「……?」
なんだか話に付いていけない。
櫻井は俺に何か金のかかる趣味でもあると思ってたんだろうか。
趣味に関しては俺よりも櫻井の方がよっぽど金を使っていると思うのだが。
なにせ奴の趣味は買い物だ。
「ていうかさ。ずっとやってるわりには色揃ってるとこ見たことないんだけど」
「これ案外難しいんだよ。お前もやってみろよ」
せっかくバイトで稼いだ金を服やらCDやらにばかり使わずに、
たまには右脳でも刺激すれば良い。
俺は椅子に置いた自分のリュックサックを手に取り、
中からもう一つのルービックキューブを取り出した。
誰かに勧めてみようと思っていたので丁度良い。
「ほれ」
「……いや何でお前二つも持ってんの?普及活動?」
普及活動?思わず笑いそうになってしまった。
「違う。元々は家にあったのを見つけて……やり出したら嵌ったんだけど、難しくてさ
あんまり出来ないもんだから、こいつが古いのが悪いのかと思って」
「……」
「新しく買ってみた」
「あぁー…」
当時は本当にそう思って買ったのだが、今思うと実に馬鹿な買い物をしたものだ。
新しい物を買ったくらいで自分の不器用さが治っていたら、
今まで図工や工作の時間でもあんなに苦労してこなかっただろう。
「で、結果は」
「言わなくても分かるだろ」
「まぁ聞かなくても分かるわな」
櫻井もやはりそう思ったらしく、キューブを受け取りながら小さく笑った。
「でも俺さ、結構こういうの得意よ?」
そう言って櫻井はキューブを弄りだす。
するとみるみる六面あるうちの一つが青で統一されていくのを見て
俺は言葉を失った。
確かにコイツは俺と違って色々と器用な奴だと思うが、
そんな、俺が一面揃えられるまでどれだけの時間がかかったと思ってる。
「ほら」
「………まじか」
正直これもぼちぼち飽きてきていたのだが、
やはりもう暫くは続ける事にしよう。
少なくとも、奴に勝つまでは。