フースーク
囁くその名に、震えが走った。王印で閉ざされた旧王城より遠く、宮廷で、内環で、第三市環跡で、変化はより顕著だった。キャスロードの傍に生じたのは、たったひとつの奇跡だけだ。
斧槍の重さに耐えかねて、指がほどけて取り落とす手前、肩越しに伸びた手が柄を掴んだ。キャスロードの手ごと、しっかりと包み込み、切先はなおラエルを向いたままだった。
鼓動と、息遣いと、背中を包む身体を感じた。
「さて、呼ばれたからには仕方がない」
キャスロードの頭の上で声がする。ラエルの顔には、無表情の仮面さえなかった。
「我が姫君との盟約を果たそう」
重ねて柄を握る手を見つめ、震えるのを堪えて頤を反らした。見上げた無精髭の向こうから、惚けた視線がキャスロードに返る。芝居がかった笑みを浮かべて、クラン・クラインは片目を閉じた。
きゅう、と変な声が出た。言葉も皮肉も言えなかった。背中をクランに預けたまま、キャスロードはその腕を抱えてしがみついた。何が起きたのかはわからない。それでも、奇跡を失いたくない。
クランが斧槍を引き、柄を肩に凭せ掛ける。切先が天を向き、柄尻が床に硬い音を立てた。王権もなく、持つのが重くて下げたのかも知れないが、キャスロードはあえて指摘しなかった。
ラエルと影に目を遣って、クランはフン、と鼻を鳴らした。
「白髭の大魔術師ごときは兎も角も、俺を霊槽に押し込もうなど、度し難いな」
言い放つ言葉は、半分も解らない。
「第三市環は容量超過、都市防衛は混乱の極みだ、古竜の一尾も覗きに来るだろうが、まあ、それはそれ、ここが潮時だな」
ラエルは呆気に取られたまま、笑えばよいのか、泣けばよいのか、表情の選択に迷っている。ラエルもクランの復活までは想定していなかった。むしろ、予想できるはずがなかった。
だが、幾度なり裏を掻かれようと、ラエルは重ねた策でモルダス老に競り勝ち、ここまで来たのだ。
「この場は僕の支配下にある」
確かめるように呟いた。旧王城は王権の魔術装置だが、今の王女に王印はない。カーディフの記憶には、まだこの場に幾重もの庇護があった。王女に知識を与えなかった王の失策だ。ラルクの中のカーディフが、事態の皮肉に失笑している。
「君がどんな力を持っていようと、いまある王印はここだけだ」
己の額を指したラエルの手は、目許を隠すように顔を覆った。影が身動いで前に立ち、クランの視線を遮った。攻めているにも拘らず、ラエル自身が、己が身を守っているように思える。
「力なんてあるものか、俺にあるのは与太話だけだ」
呆れたようにクランは言った。卑下しているのに何故か胸を張る。歩み寄る影に目を遣って、値踏みするように目を細めた。腕に縋るキャスロードが、指先に強く力を込める。
「シリウス」
クランが影を呼ぶ。まるで道草を叱っているような、溜息まじりの呆れた口調だった。
「今度は声が聞こえるか?」
影が揺らいで、立ち止まった。
ちりちりと、影の端々が焼けて行く。まるで、表皮の黒く焦げる様が引き戻されているようだ。赤い界線が通り過ぎた跡に、肌と着衣が残された。影の吹き払われた先には、人の姿が露わになった。
「よしよし、少しは術もましになったな」
クランが笑ってラエルを褒めた。ラエルもキャスロードも、目の前の事態に置いて行かれたままだ。
佇んでいたのは長身の偉丈夫だった。白に鋼糸を織り込んだ戦場の長衣を羽織り、赤茶けた長い髪を無造作に束ねている。武具も防具も他にはないが、両手には、厚い銀の小手がある。
〈さて、これは夢の続きか、禁忌の主〉
黄金の瞳を彷徨わせ、男はクランに向かってそう言った。太い犬歯が覗かなければ、人懐っこい笑みにも見えただろう。キャスロードにも、ラエルでさえも、何が起きたのかがわからない。
クランが思わず顔を顰めるほど、キャスロードはその腕を強く握った。
「本来はこうして使う術だ、霊槽の術式に手を出すのはやめておけ」
クランはラエルにそう言った。
「クラン、君は何者だ」
ラエルが喘ぐように問い返した。
「そんなことも解らないのか」
心外だ、と言わんばかりに、クランは口を尖らせた。
「おまえたちの友達だよ、ラエル・アル・ラース、カーディフ・アル・ラスワード」
そのとき、キャスロードの目にさえも、ラエルの顔から何かが抜け落ちたと、はっきり見えた。
「シリウス、あれから王印を取り上げろ」
男が子供のように口を尖らせる。
〈やれ、何事かと思えば、俺を還したのは子供の使いか〉
「早く」
男はラエルに歩み寄ると、銀の籠手を差し出した。ラエルは抵抗しなかった。その手に王笏を載せ、一歩下がる。シリウスの影は王笏をラエルの額に翳し、ふとクランを振り返った。
〈どちらの名だ〉
「両方だ、なあラエル、きっとそれくらいのことは仕込んであるのだろ?」
ラエルは思わず微笑んだ。無意識に笑っていた。すべての澱が剥がれ落ちたような気がした。クランの答えがラエルの予想を超えた時点で、残りの策など、もうどうでもよかった。
〈ラエル・アル・ラース、カーディフ・アル・ラスワード〉
額に硬い感触があり、時計仕掛けと鈴の音が鳴る。
ラエルは胸に詰めた息を吐き出した。不思議なことに、後悔も執着もなかった。ただ、いまこの事象を観察したい。その思いは、王印に勝る価値があった。恐らく、カーディフにとっても。
「これを」
ラエルは魔晶石の塊を取り出し、クランに翳した。
「老師がここに」
クランはあからさまに嫌そうな顔をした。
「サルカンなぞ、そのままにして置いた方が、」
キャスロードがクランの鳩尾に肘を突き入れた。
シリウスの影がそれを見て、片方の眉を上げた。
銀の籠手を無造作に掲げるや、何もない中空から人影を引き出した。白く長い髭が棚引いて、床の上に放り出された。大きな吐息をひとつ洩らして、モルダスはそのまま気を失った。
〈生きたまま放り込むとは、また、無茶をする〉
シリウスの影の言葉を受けて、クランはラエルに意地の悪い目を向けた。
「准魔術師からやり直しだな」
シリウスの影はクランに歩み寄ると、腕に縋る王女を無遠慮に値踏みした。キャスロードが緊張で凍りつく。クランの呼ぶ名と銀の籠手が本物なら、この男は六〇〇年前の大英雄だ。
〈それにしても禁忌の主よ、毎度あなたは、とっかえひっかえ、〉
「余計なことを言うんじゃない、さっさとこれに王印を戻せ」
クランが慌てて声を被せる。今のキャスロードにその言葉を吟味する余裕はなかった。畏れに呼吸さえ忘れている。夢想したことは何度もあるが、現実に見えるなど有り得ない。
シリウスの影は肩を竦め、王笏を掲げた。キャスロードはただ呆然と目で追って、縋るようにクランを見上げた。クランはまるで、市門の検問を待つような、退屈な顔で眺めている。そんなクランに腹が立ち、キャスロードはようやく自分を取り戻した。
「乙女よ、汝の名は」
キャスロードは、からからに乾いた喉に息を通した。
「キャスロード・ラスワード」
掠れたその声に、シリウスの影は邪気のない笑みを浮かべた。
「なるほど、妻に似た名だ、ラスワードの末か」
王笏をキャスロードの額に翳し、芝居がかった口上で告げる。
「われ、汝を王権の主と認める、 キャスロード・ロナ・ラスワードに王の印を」
時計仕掛けと鈴の音が鳴った。
「ロナ?」
憶えのない二の名にキャスロードが戸惑う。
「シリウス」
クランが噛みつくような声を上げた。あまりの剣幕にキャスロードが頸を竦める。
「余興だ」
含みのある目で笑い掛けると、シリウスの影は王笏を放り投げた。慌ててキャスロードが抱え取ると、背中のクランはシリウスの影に向かって追い払うように邪険に手を振った。
シリウスの影が犬歯を剥いて笑うや、余りにも唐突に、その身体は白い塵になって霧散した。漂い消える光を追って、不意に落ちた沈黙は、呆然自失に相応しく、皆の思考を奪っている。
クランの舌打ちがそれを破った。
「さあ、後片付けの時間だ」
クランは言って、キャスロードに斧槍を返した。キャスロードから王笏を取ると、それをあっさりラエルに投げる。呆気に取られたキャスロードを尻目に、クランはラエルに向かって言い放った。
「さっさとそれを戻してサルカンをかつげ、申し開きは陛下に言えよ、俺は面倒は見ないからな」
ただ冒険の終わりを告げるその声に、ラエルさえキャスロードと同じ顔をしていた。結果的にはラエルの王印を奪い、キャスロードのそれも取り戻した。リースタンの災厄も収まるだろう。だが、さっきまでの死闘もまるで、クランにとっては子供の喧嘩のような扱いだった。
ラエルの首を取れと言うならまだしも、それではキャスロードが収まらない。キャスロードが唸った。そんな不満も釈然としない思いも、クランはまるで気づきもしない。捉え難く飄々としたまま、帰ろうと広間を振り返り、遠目に昏倒した三人を見つけて大声を上げた。
「ああ、何であんなに連れて来たんだ、シリウスを還すんじゃなかった」
「クラン」
キャスロードが耐えかねて腕を引いた。
「何か言うことがあるだろう」
キャスロードの剣幕に、クランはまじまじと顔を覗き込んだ。睨み付けるキャスロードの目を、向き合って受け止める。不意に大きく破顔して、クランは両手でキャスロードの頬を包んだ。
「頑張ったな、キャス、よく頑張った」
ちがう、と口を開いたとたん、目の前が真っ白に滲んだ。目が落ちたかと思うほど、大粒の涙が零れて落ちた。くしゃくしゃの顔を隠そうとして、気がつけばクランに飛びついて、顔を埋めていた。
破裂したように泣き出したキャスロードを抱えて、クランはそっと髪を撫でた。




