消失
足音は、気の急くままに駆けて行く。床を照らした青い光の中を、影と衣擦れが横切って行く。ふと立ち止まっては、足を引き摺るようにゆっくり歩く。それを繰り返している。引き返そうかと迷っているようだ。
キャスロードは、何度も後ろを振り返った。マリエルとコルベットは外に置いて来た。今は王権通廊に独りきりだ。嫌で不安でたまらない。それでも自分が行かねばならない。それはわかっている。
キャスロードは小刻みに息を整えた。
クランの投獄された上級拘留棟は、第一市環の左翼だ。モルダス捜索に乗り込んだ、あの魔術師塔にほど近い。東寄りの宮廷環の壁龕に、牢に続く秘密の開口があった。
クランの獄舎は棟の最深にあり、その場に通廊の枝先が繋がっている。出来過ぎだ。そのために造られたのか、とさえ思えた。昔から、この牢は王族の秘事に関わっていたのかも知れない。近年は、カーディフ叔父の牢だったらしい。
クランの話が本当なら、叔父は旧王城で王印を奪われ、投獄された。脱獄はその後だ。おそらく、王弟派の手引きがあったのだろう。王印がなければ、この通廊を通ることができないからだ。
だが、せっかく牢を出た叔父は、旧王城でも国外でもなく、大空洞の工房を目指した。王印の奪還よりも、身の安全よりも、望みの場所に行こうとした。それは、逃走と言えるだろうか。
自分はどうだろう。
助けられ、逆恨みして、いじけたまま現状に甘んじている。それこそ逃走だ。責任からも、冒険からも逃げ出した。よりによってクランなんかに、こんな格好の悪い辱めを受けたまま。
気後れよりも、不安よりも、それが悔しい。キャスロードは再び駆け出した。
拘留棟までの道筋はそう遠くない。しかし、この辺りの王権通廊は少し雰囲気が異なっていた。埃っぽくて澱んでいる。まるで普通の地下道だ。いつもの冷えて澄んだ空気がない。
柱を見つけたキャスロードは、念のため地図を呼び出した。クランに教えて貰ったやり方も、今では自然に使いこなせる。気を取り直して地図を見た。案の定、牢への出口はすぐそこだ。
俯瞰図の光の端に黒い影が被った。壁際に目を遣ると、布の塊が放置されている。昔の王族が残したのだろうか。キャスロードの知る限り、通廊に何かあること自体が珍しい。
何も考えずに布を掴んだキャスロードは、すぐさま後悔した。積木が崩れるような感触があり、丸いものが転がり出た。ばらばらと髪を撒きながら、干乾びた頭が転がって行く。
頭の中が真っ白になった。悲鳴を喉に詰まらせて、キャスロードはぶんぶんと手振り、手から振り払った。からからと、乾いた音が連なって行く。キャスロードは転がるように駆け出した。
王権通廊は国と同じだけの歴史がある。ましてやここは牢獄の近くだ。死体があってもおかしくはない。勿論、キャスロードがそう思い至ったのは、開口に辿り着き、少し落ち着きを取り戻した後だ。
荒い息を整えると、ようやく辺りに注意を払うだけの余裕が出た。通廊の先は、どうやら長い廊下だ。柱の影に隠された扉を抜けると、すでに詰所の内側にいる。
真っ直ぐで薄暗い廊下だった。奥に照らされた部屋がある。床に格子の影が映っていた。もう一度、辺りの気配を伺ってから、キャスロードは奥の部屋に向かって駆け出した。
「クラン」
落とした声で名前を呼ぶ。
「クラン」
格子を掴んで部屋の中を見渡した。机と寝台と下の抜けた衝立が一枚。隠れる場所など何処にもないのに、クランの姿が見当たらない。もしや、別の場所に連れて行かれてしまったのか。
「やっと来たのか、遅かったじゃないか」
不意に目の前に現れたクランに、キャスロードは驚いて仰け反った。何処に隠れていたものか、クランは惚けた顔で微笑んでいる。頭の中で何度も繰り返した言葉が、すっかり飛んでしまった。
「サルカンよりは巧くやったつもりだが、俺もそんなに時間がない」
頭を掻いてクランが言う。
「何を言って、」
キャスロードの声が途切れた。目を見開き、また目を細める。クランの姿をまじまじと見つめた。格子を握る指が真っ白になる。クランの向こう側が見えた。クランの身体が透けている。
「ほら、この有様」
両手を広げておどけて見せるが、キャスロードは悲鳴を噛み殺すので精一杯だった。
「俺を霊槽に押し込むなんぞ、無茶にも程がある、予想通りなら、じき破裂して街が酷いことになるだろう、危ないから第三市環跡には近づくんじゃないぞ」
口調はいつもの詮無い愚痴だが、クランの言うことが、まるでわからない。
「クラン」
ようやく洩らした声は、啜り泣きのように引き攣れていた。
「そうだ、時間がないんだった」
そのクランの声さえ心許なく、別の所から聞こえるようだ。透けたクランは、格子にしがみつくキャスロードに顔を寄せた。あの日みたモルダスのように青白く、次第に薄くなって行く。
「城に行って王印を取り上げろ、やり方はわかるな?」
「取り上げるって、誰の」
キャスロードは、問い返す自分の声をぼんやりと聞いた。
「カーディフの印だ」
「でも、叔父上は」
クランはあまりにいつもの通りで、なのに今にも消えそうだ。頭が追い付かない。
「混じって権限が揺らいでいるが、消してしまえば面倒も起こせない、説教はその後だ」
クランはふとキャスロードの視線に気づいて、手を顔に翳した。
「気を抜くと早いな」
「クラン」
クランはその手を血の気を失ったキャスロードの頬に伸ばした。
「今やれるのは、キャスだけだ、相手は判るな?」
頬にクランの指先を感じない、包むように覆った手も空に触れただけだ。
「逃げるな、負けるな、考えてから動け、俺に格好いいところを見せるんだ、いいな?」
真っ黒なはずのクランの瞳は、見上げる天井が透けて見える。
「最後の最後まで頑張ったら、俺を呼べ」
クランはそう言って、笑った。
「そうしたら褒めてやる」
格子を擦り抜けていたクランの手は薄くなり、
「しまった、壁抜けができるなら、そのままここを出ればよかった」
最後に馬鹿みたいに呟いて消えた。
そのまま時間が止まったような空隙のあと、不意に足下が突き上げられた。呆けたキャスロードを揺さぶるように、地面の底から大きな拳が打ち付けられる。何度も、何度も衝撃が続いた。
廊下が軋んで音を立て、ぱらぱらと塵が降り注いだ。鉄の臭いが周囲に満ちる。キャスロードは格子にしがみついたまま、揺れて額を打ち付けた。そのせいで、誰もいない牢に焦点が合った。
叫びは声にならなかった。ただ長い吐息の破裂になった。格子を掴んで引き剥がさんばかりに手が震え、自分から何度も身体を打ち付けた。もうひとりの自分が、ずっと心の中で繰り返している。
逃げるな。負けるな。考えてから動け。クランに格好いいところを見せるのだ。
大きな揺れが退き、時折りの地鳴りに変わると、キャスロードは立ち上がって廊下を引き返した。詰所の衛士がいつ来てもおかしくない。揺れのせいか、何度も脚が縺れて壁に縋った。
考えろ、考えろ、考えろ。クランは言った。これは自分にしかできない。
霞む目に苛立ち、顔を擦った。知らない間に泣いていた。まだぼろぼろと溢れる涙は、皆に会うまでに乾かさねばならない。事を成して、取り戻すのだ。あれが敵なら、気取られてはならない。
絶対にクランを取り戻すのだ。




