⑤対面
今回で終わる、と思っていたんですが
まだでした。
伍,幻の時
白銀の世界。
松任谷由実の【ブリザード】が聴こえるようだ。
スノーボードではなく、スキーと云うところがユーミンワールドなのだろう。
「視界が良くないな」
バックカントリースキーは、整備されたゲレンデを滑るのとは訳が違う。滑落、天候の急変、雪崩……。危険というトラップがそこかしこに張り巡らせている。
「タケ兄の鈴の音が聞こえるから怖くない」
「いざとなったら、ふたりでビバークするか」
「それもアリかな」
尊さんと悟さんは、ゴーグルを上げ、鼻先を突きつけて笑い合う。そして、もどかしげに互いのゴーグルを外した。
「続きは下まで無事に戻ったら、だ」
軽く触れ合った唇。
標高三千メートルの冬山は、肌も唇もすぐガサつく。
シャリ、シャリ、シャリ、ジャリ。
「……コハクちゃん?」
ゆっくり瞼を開いたそこで、碧い双眼が瞬きもせず私を見つめていた。鼻のアタマが冷んやりする。そうか、コハクちゃんに舐められたのか。外はまだ暗い。枕の脇に置いていた腕時計を覗くと四時前だった。胸の上でリラックスしているコハクちゃんを、ムギュッと抱きしめたい。
「ゴメンね。今あなたに触れたら、私は駄目になってしまう」
煩悩に塗れた私が、僧侶でいていいのだろうか。釈迦は【中道】を行くことを説いた。自分がどの辺りを歩んでいるのか解らない。いや、オンラインゲームやソーシャルゲーム、特にヴァルハラに富を積んでいる(課金)のを思えば、十二分に中道から外れているではないか!?
布団を畳み、着替えながら窓へ目を向ける。どうやら雪がちらついているようだ。掃除の後、積もり具合を見て外も掃いておこう。
私が洗顔のため部屋を出ると、コハクが廊下を走り悟さんの部屋へと入って行った。各部屋を回って起床を促すのが、コハクのルーティンなのかもしれない。健気で可愛い、と口元を緩めながら身を切るような水で顔を洗う。今朝も明けの明星が力強く瞬いていた。明けの明星はヘブライ語で【ルシフェル】だったと記憶している。ルシファーが堕天した理由は諸説あるが、母なる太陽に性的な欲求を持ったという説が私は好きだ。
世界には知らないことが溢れている。知れる喜び、学べるありがたさ。今日も感謝の心を忘れずに過ごそう。
一杯の白湯を頂戴し、潔く掃除に取り掛かった。
朝食を終え、悟さんと片付けをしていたところに、ユヅさんが訪ねてきた。
私たちが片付け終えるまで、芙華さんが話し相手をしてくれていた。といっても、彼女は大切な用事があり、これから都内へ戻るらしい。内容は教えてくれなかった。何故か薄笑いを浮かべる尊さんに「そのうち教えてやる」と言われたことの方が、よほど引っかかりを覚えた。
彼女が留守にするこの家で、他人の私が居座ることは憚られたが、家主の強い勧めと個人的に居心地がいいので、当初の約束どおり年明けまでお世話になることにした。
「お待たせしました」
ユヅさんは日当たりのいいリビングで、芙華さんとお喋りをしながら紅茶を飲んでいた。
私を見上げた芙華さんは、お揃いの腕時計を気にかけて「じゃあ、行ってくるね」と席を外した。そわそわしているというより、浮き足立っていた。まるで恋人との待ち合わせ時間を気にするかのような……。恋人? 私は婚約者だ。その私より彼女の心を踊らせる存在。尊さんの笑みが脳裏を過る。もしかしたら、私は彼女と紙切れ上の夫婦となるだけで、谷中の寺院と結婚するのではなかろうか。
「十条さん?」
ユヅさんの声に呼ばれ、私は居ずまいを正し向かい側のソファーへ座った。
彼の希望で、悟さんは同席しない。親しい友人に、幻覚や幻聴でノイローゼ気味の医学生だと思われたくないのだと哀願された。
「弟の七海さんにも話してないんでしたね」
「心配かけたくない、ってきれいごと」
解剖学に力を入れすぎているせいで精神を病んでいる、と諭される可能性が高いのだろう。
「私ごとだけれど、神とかそういった類にも死者にも対面したことはありません」
教を唱えようが修行に励もうが、幻覚すら見たこともない。千日回峰行クラスならば、生死を彷徨いながら体験することを聞きかじってはいる。つまり、脳内である特定物質の欠乏や逆のことが起きれば可能といえるのだろう。医師の家系で医学生のユヅさんには、それこそ釈迦に説法だ。
「ユヅさんと接していれば、私にも観れるはずと尊さんから云われました」
彼に話さないことを条件に、尊さんは、この夏、悟さんがそれを体験したと教えてくれた。
「そうなの、かも」
一緒にいれば、ではなく接していればである。彼を媒体にするという意味なのだろう。
「では早々に出かけましょう」
「いいんですか?」
「約束したでしょ。お手伝いさせて下さいって」
私は立ち上がり、申し訳なさそうな顔をするユヅさんの手を取った。
悟さんや七海さんに見られたら、嫉妬の炎を向けられそうだ。そんな貧乏くじを引く前に、どうにかして真相に辿り着かなければ安心して帰省もできない。
万が一のことも想定し、私のリュックは荷物が多目だった。
☆☆☆
明けまでちらついていた雪は止み、黒い深志城の屋根瓦が薄化粧をしていた。
お堀の近くを歩きながら、私は三浦の家に巡らされている結界について考えていた。先ず、何のためにそのような部屋が必要なのか。実質、結界といわれるものが本当に有るのか。
家主の尊さんは僧侶でもなければ、陰陽師やエクソシストなどの仕事をしている様子もない。聞けば答えてくれそうだが、謎めいた空気を纏っている人だ。茶化されてお終いかもしれない。
夏に事故で意識不明だったユヅさんが、女性としてあの家で数日過ごしたことを聴かされ、魂の浄化を助ける場所なのではないかと推測した。特に、玄関を上がって直ぐの部屋にいると、圧迫的な息苦しさを感じる。その圧に逆らわず乗り越えることで、自分の卑屈な内面と向き合える空間なのは確かだ。
「結界部屋のシステムを作ったのは、サトルなんだって」
「え?」
私の心を読まれていたのか! と驚いたが、リアルタイムで偶然だったらしい。
「壁の中にアルミが施されてて、屋根裏に仕組みがあるみたいです」
「どうしたんですか、急に」
隣を歩いていたユヅさんが、足を止めた私の顔を愉しそうに伺う。
「昨日の夜、サトルにメールしたらあっさり教えてくれた。前に、十条さんをビックリさせたの、早く訂正したかったんだ」
彼は軽やかに前を向き、ゆっくり歩き出した。
「磁界なんだって」
「ジカイ?」
「電源なしで、温度管理や照明か使えるって」
「なるほど。あの部屋から出ると、スマホがフル充電されていたのは勘違いじゃなかったんだ」
「あ、そういえばボクのもそうだった」
オートチャージシステムを部屋に施してしまうとは、悟さんの頭脳を改めてリスペクトしたい! ではなく、磁界の応用が結界の役割を果たすことを、尊さんは何らかの理由で利用しているのだろう。
「あのジジイは、金儲けしか考えてねぇよ」と、悟さんならそう言いそうだ。
ユヅさんは、人ならざるモノを否定したくて、仕掛けが証明されたこの話をしたのかもしれない。これから私に見せたいヒトが実在することを願うかのようで、明るく振る舞う彼が痛々しかった。
「やっぱりいる」
彼の視線の先には、藤棚とベンチがあった。幹の太さも枝の張り具合も、相当な年月を重ねた藤のようだ。しかし、私にはそれしか見えない。立ちつくす彼に何を言っていいのかわからず、そっと肩に手を置いた。
「ーーーー!!!!」
ベンチに座ってお城を眺める女性がいた。
ついさっきは誰もいなかったのに、彼女はずっと前からそこにいるようだった。
「何才くらいだと思う?」
彼女を見つめたまま、ユヅさんはわざとらしく話を振ってきた。
「女性の年齢を勘繰るのは避けたいところですが……30前後でしょうか」
ユヅさんが求める答えでないことはわかっている。
急激に早くなった心拍とは裏腹に、私の口調はいつもどおりだった。
「もう会話とかしたの?」
「ん……まだ」
「そうですか、話しかける理由もないですしね」
「そうなんだよね、いつもと違って目も合わないから」
彼のいつもは、私の予想を上回るのだとたやすく想像できた。
「でも、ユヅさんを通じて伝えたいことがあるというか、未練や心残りがあるからこそ居るんですよね」
「ん、少なくとも今まではそうだった」
「では、彼女と関わらなければいいじゃないですか」
「そんな、放っておけるわけないよ!」
悟さんが心を奪われた人は、やはり生真面目で優しかった。
ユヅさんの大きな声に驚いたのか、ベンチに座る女性がこっちを向いた。
「じゃあ、私が世間話をしましょう」
怖くない、と言ったら嘘になる。ユヅさんの冷えた手をさり気なく握り、ゆっくり藤棚へ近づく。お堀を泳ぐ鯉。水に浮かぶ鴨。優雅な白鳥の番。砂利を踏むふたりの足音だけが、雑念を帯びているようだった。
「お隣、宜しいですか?」
私は作り慣れた好意的な笑みを浮かべて、返事を待たずにベンチへ腰かけた。当然、ユヅさんも引っ張られるまま座った。
「今朝は特に冷えますね」
瓦屋根を彩る薄い雪が、陽光を浴びて輝いている。
「年末だし、雪が降るくらいだし、寒いんじゃない?」
彼女は水面を滑る白鳥を見ながら呟いた。
ユヅさんは私と彼女の顔をチラチラ見ては俯いたり、堀の鴨や白鳥に目を向けたりと落ち着かない様子だ。
「お待ち合わせですか?」
「まぁね」
ペールブルーのベレー帽を被り、ナチュラルホワイトのファー付きコートにブラウンのロングブーツ。グローブもベレーと似た淡いブルーだった。バックを持っていないのが気になったが、それ以前の存在なのだ。きっと理由があるのだろう。
彼女はコートの袖口をめくり腕時計を凝視した。秒針が一周しても時計から目を離さない。
「あの、もしかして」
ユヅさんが身を乗り出し、私に体重を預けて彼女の腕を見つめる。
「人工透析してるんですか?」
そう問われ、彼女はをユヅさんを睨みつけた。
「悪い?」
さっきまでの愛らしい声音が嘘のような低い呟きに、ユヅさんは私の腕にしがみついた。
「透析してまで生きたらいけないって、アンタたちも言うの!?」
彼女の瞳が涙で揺らぐ。
私はヒステリック気味な彼女にハンカチを握らせ、言葉を詰まらせるユヅさんの手をゆっくり強く握りしめた。
「去年は、彼と初めてクリスマスを過ごしたの……」
嗚咽混じりに独白する彼女の背中を、もう片方の手で軽くさする。
「夏に急性腎不全で倒れて、救急車で中央病院に運ばれちゃって……」
「それで、シャントの手術を受けたんだね?」
落ち着きを取り戻したユヅさんは、目を細め、彼女の左手首の辺りを見つめた。
私はふたりの会話がいまひとつ理解出来ず、彼女の手首へ視線を落とした。細い腕に似つかわしくない血管が、歪に浮かんでいる。
ユヅさんは私の耳元で「血液透析をするためには、腕の深い部分にある動脈を皮膚の下にある静脈と繋ぎ合わせて、大量の血液を採取できるようにしなきゃならないんだ。圧力がかかって、繋いだ静脈が盛り上がってくるから、シャントってわかっただけ」と説明してくれた。そういうことなのか。
「今年のクリスマスはもう終わりましたね」
私の言葉に、彼女は顔をしかめた。
「彼は、クリスマスなのにあなたを置いてどこかへ行ったの?」
「彼の家族はクリスマスを大事にしてるの!」
去年はふたりで過ごしたのに?
「宗教上、血液を浄化する行為はご法度なんだって……」
彼女は涙をポロポロ零し、しゃくりあげながら続けた。
「私が透析やめたら、迎えに来てくれるって、結婚しようって言ってくれたの」
おいおい、その家族はアクシズ教徒か!!
「それって、病気の君と別れる口実……!?」
言ってユヅさんは下唇を噛み締めた。
健気に彼を待つ彼女は、約束を守って生命線である人工透析をやめてしまったーーと云うことになる。悲痛な面持ちのユヅさんが、彼女の死因を物語っているようだった。
「失礼ですが、葬儀は終わられたんですか?」
「……まだ」
「え?」
もしかして彼女はーーーー。
「一人暮らし……」
私とユヅさんは呼吸を忘れて見つめあった。寒いはずなのに、額に汗が滲んだ。
次回で完結するよう頑張りますので
お付き合いお願いします