68 きっと夢じゃない
「ああああああぁァァっ!? はっ……、ハァ……っ――は、ぁ……」
――――夢、か?
いや、夢じゃない。あれは実際に体験した事だ。
あのクソッタレの魔王が僕に見せた幻影。
僕の体験した別の可能性――
僕の居ない十年で変わってしまった世界――有り得たかもしれない、可能性の世界だ。
「……っはぁ」
目を覚ましたのは薄暗い部屋の中。ここには魔王も居なければ、共に旅をした仲間も居ない。
時計をちらりと見ると、今は早朝とも深夜ともとれる四時。
汗で濡れたシャツを脱ぎ、ベッドからシーツを剥ぎ取る。
思い返せば、あんなに汗で濡れた状態で寝て、よく風邪を引かなかったものだ。
「……魔王」
シーツをグシャリと握りつぶした。
最近はほとんど見なくなった夢。
見たとしてもここまではっきりとしたものを見るのは久しぶりだった。
魔王とのあのやりとりの後、俺たちは魔王を倒した。
俺からしてみれば、夢の分と合わせて二回、魔王を倒したことになる……。
――大丈夫だ。今、この時は現実。
魔王のあの言葉はただのこけおどし。
俺たちはちゃんと魔王を倒して、そして俺はこうして日本に戻ってきた。
――その確信はある。
だというのに……あいつの言葉が呪いとなって、耳から離れない。
「はぁ……シャワーでも浴びて気分を変えるか」
昨日は入浴もせずに寝入ってしまった。
汗にまみれたシャツや体は男の臭気を纏い、むさ苦しい空気を放っている。
僕は着替えを片手に掴むと、シーツを引きずり、上半身は裸のまま浴室に向かった――
――
ペタリペタリと、汗でしとつく足でフローリングの廊下を渡り、脱衣所のドアの前。
キィとドアを押し開ければ、ドアが開き切る前になにかにゴンとぶつかった。
「痛っ」
「っと、悪い。大丈夫――――か?」
はっ――っと息を呑む。
首にかかる程度の長さの黒髪はしっとりと濡れ、熱に上気した白い肌はほんの少し――桜の紅色よりも薄く、ほんの少しだけ色を帯びている。
白い白いと思っていた肌だが、普段外気に晒さない部分の圧倒的な白さで、多少は日焼けしていたんだな、と実感する。
大切な部分はバスタオルで隠れていたが、バスタオルと肌の両方の白さで、その境界線が酷く曖昧だった――
当然、この家にいるのは僕を除いて一人だけ。
……妹の未来だ。
二人、言葉を失くして立ち尽くす。
永劫とも思えた一瞬の後。先に動いたのは未来の方だった。
「いっ――」
「わ……悪い。まさか――」
「――やぁぁあああアアッ!!!!」
ドン――という衝撃。
呆気にとられていた僕は、未来の行動に反応出来なかった。
よろけて二歩三歩と後退し、目の前で勢い良くドアが閉まる。
――あれ? 突き飛ばされた?
未来のことだからこんな場合『にーちゃ、わたしの裸を見たかったの? よろしい、なら見るがいい!』――とか言いだすかと思ったのに……
「え? ちょ、なんで? 閉まらない! なんで!?」
ドッスンドッスンと揺れる脱衣所のドアは、わずかに隙間が空いたままだ。完全には閉まり切っていない。
ドアに付いた磨りガラスの小窓には、焦る未来の頭だけが朧気に映り込んでいる。
「未来、ちょっと待て、あまり乱暴にするな」
「に、にーちゃ? ちょっと待って! 来ないでっ! どうしよう……閉まんないよコレ。にーちゃあ……」
僕をからかう為の、いつもの癖で置いただろうドアストッパーが挟まって、ドアが完全に閉まるのを阻害している。それに未来は気付いていない。
「落ち着けって、ドアストッパーがあるから――」
――――ガダンッ!
と、その時、嫌な音がした。
そしてゆらりとこちらに向かって倒れてくる脱衣所のドア――
「うをっ!?」
勇者時代の僕の経験が、回避行動を選択させる。
バダム! と大きな音を立てて倒れたドア。その向こうにはあられもない姿のままの未来――
「あ………………あ…………あ………」
バスタオルを抱え込んで、未来はその場にうずくまった。
そして、蚊の鳴くような声を出す。
「にーちゃ……おねがい。見ないで……」
うずくまる未来の耳は、真っ赤に染まっていた――
―― …… ―― …… ―― …… ――
「落ち着いたか?」
「ウン……」
ドアの壊れた後。
僕はリビングに引っ込み、未来が着替えるのを待った。
程なくキャミソールとショートパンツ姿の未来が脱衣所の方から現れる。
黒く艶のある髪は、まだしっとりと水気を含んでおり、未来が髪も乾かさずに慌てて着替えてきたことを物語っていた。
僕も僕で、流石にもう上半身裸ではない。
汗をかいた身体で洗濯済みのシャツを着るのは少し嫌だったけど……。
「ドア、見てくるわ……」
「あ、うん」
リビングから出て脱衣所に向かう僕の後ろを、未来がちょこちょこと付いてくる。
なんだか幼い頃、いつも僕の後を追いかけてきた未来のことを思い出して、小さな笑いがこみ上げてきた。
「蝶番が取れちゃってるな」
「ご……ごめん……」
壊れたドアを検分すると、ドアとドア枠を繋ぎ、開閉する金具の『蝶番』――そのネジが抜け落ちてしまっていた。
妙な状態で力が掛かってしまったからだろう。
「直る……? にーちゃ」
「多分ね。部品を買って来ないとならないけど」
ネジ穴が拡がってしまったので、一回り大きいネジと、それに合う蝶番を買って来るしか無い。それで駄目なら大工さんに頼むしかない。
「ま、ホームセンターが開いたら買って来るよ。気にすんな」
ドア側に残った蝶番をドライバーで外して、ネジと一緒に財布の中に入れておく。
こういう場合は現物を持って照らし合わせながら部品を買わないと痛い目にあうよね。
時間はまだ朝の五時頃。ホームセンターどころか、開いているのはコンビニぐらいのものだろう。
いつもならもう日課のランニングに出ている頃だが……
「未来。汗が気持ち悪いからシャワーを浴びたいんだ、悪いけどいいか?」
「うん? うん」
…………
……
「いやね? ドア無いから、どこか行ってくれないかなーっと」
「あ……うん」
僕から離れ、パポパポパポとスリッパの音を立てながらリビングに向かう未来――
「あ! 違う、こうじゃない! えーと……『ぐへへ、ドアがないなら覗き放題だよ、にーちゃ!』だ!」
「なにを『あ、いっけなーい、卵買い忘れるところだった!』みたいな感覚でセクハラをしようと思ってんだ、お前は」
アドリブに弱い妹さんだな、オイ。
「いいから覗くなよ? それと髪をちゃんと乾かせておけ」
タオルを一枚投げると、僕はドアの無い脱衣所へ飛び込んだ。
―― …… ―― …… ―― …… ――
少し遅めになった朝のランニング。そのせいでいつもより高くなった太陽に、気温も高く上昇し、汗みずくになって帰宅する。
家に帰ると、庭先の物干しは二枚のシーツに占領され、その隅に数枚のシャツが所在なさげに風に棚引いていた。
玄関を開けると鼻孔をくすぐるのは、焼いた卵の匂い。未来が朝食を作ってくれているのだろう。
「ただいま。外はもう暑いや」
「お帰り、にーちゃ。それなら先にシャワーにする? ごはん食べちゃう?」
「ああ、それなら――」
「それとも、わ・た・し☆」
――うん。紛うこと無きウチの妹さんだ。
「シャワーにするわ……、先に食べてて良いぞ。」
「はぁい」
シャワーで軽く汗を流して、ダイニングへ。
オムレツとトマト入りのポトフはまだ湯気の立った状態だった。
当然のように未来の皿にも、手を付けられていない朝食が乗ったままだ。
「食べてて良いって言ったのに」
「食事中の女子ってエロいと思わない? にーちゃ」
あれか?「メシの顔しやがる」ってヤツか? 無いって、そんなん。
――
僕に見せつけるように、色っぽく朝食を食べようとする未来をオカズに朝食を取る。
百面相する未来を見ながら噴き出さないように食事をするのは、どちらというと罰ゲームに近かった。
食後にコーヒーを啜りつつ、リビングのソファに座ってテレビを見る。
ザッピングしてみるが、特に興味の湧く番組もない。
BGM代わりに、適当な情報番組にチャンネルを合わせてから音量を下げ、ソファにもたれかかった。
――カチャリカチャリ。
皿の当たり合う音がする。生活の音、家庭の音、未来の音。
――ヒィィイイーーー
水道から水の出る高い音が、細かな音を掻き消す。
――キッ カチャ、チャ、チャ
水道を止める音。そしてまた聴こえる皿の音。
――パタパタパタ。
そして、未来が駆け寄ってくる音だ。
「にーちゃ、何見てるの?」
「いや、聴いてた」
「?」
洗い物を終えた未来は、僕の隣にトスリと座る。
未来からは、朝食のオムレツの匂いと食器洗剤の匂い。それからミルクセーキのような香りがした。
「にーちゃ、お好み焼き食べたいの?」
「いいや、別に」
適当に点けていたテレビでは、東京で食べられる人気のお好み焼き屋が順々に紹介されている。
匂いの感じられないお好み焼きに、興味は湧かない。
そして、ただぼぅっと未来の横顔を見ていた。
艷やかで柔らかい髪。
ほんのちょっと釣り上がった目元。
黒目がちで大きな瞳。
あまり高くないが小さくツンとした鼻。
白いが血色の良い肌。
薄桃色の小さく張りのある唇。
「にーちゃ?」
「うん……?」
「どうしたの? ぼーっとして」
「いや、別に」
ただ、見ていただけだ。今日の未来を。
戯れるように未来の指に触れる。
ふにふに、ふにふにと柔らかい指。水を扱っていたからか、少し冷たい。
なべらかな爪を指先で擦る。
いつも家事をしている未来の爪は短い。
僕のなすがままになっている指は、時折ぴくんと力が入った。
「にーちゃの指、固いね」
「剣ダコかな」
ああ、大丈夫。大丈夫だ。
僕はここにいる。ちゃんとここにいる。
胡蝶の夢なんかじゃない。
未来の隣にいるんだ。




