36 悪意の棘
「っふぅ……」
ゲームからログアウトし、現実へと戻って来た。
部屋の中は真っ暗。VR機の放つ青いランプ光が、僅かに部屋の中を照らしている。
『照明オン』
家の管理システムと連動したVR機を使い、部屋の明かりを点ける。
――と、ベッドに横になる僕の隣に大きな物体。
「うおっ!?」
……って、また立体映像データを入れたのか。
僕のベッドにいたのは例のごとく妹の未来――その立体映像だ。
あいつのイタズラ好きにもほとほと呆れる……
「……ったく、いい加減にしろよ、あんにゃろ」
リアリティを出すためか、ご丁寧にVR端末を被った姿だ。いかにも本物が横に寝てますよ、と演出したいらしい。
まったく、あの妹は……僕が慌てているのを見るのが随分とお好みらしい。
まったく、未来にはいつも翻弄されっぱなしだ。
一度ぐらい、あいつの過激な発言に乗って、逆に慌てさせてやろうか?
『にーちゃ、キース! キース!』
『言ったな? じゃあ目を閉じろよ』
あ、ダメだ。アイツならさらにノリノリで乗ってきそう。
『舌を入れてからがホンモノのキス。それ以外は認めない』
……駄目だ。上手くやりかえすイメージが湧かない。それどころかこちらが翻弄される。
『さあにーちゃ。言ったことに責任を持つべき。にーちゃはわたしにねっちょりとねぶるようなキスをする義務がある』
――くそぅ、その状況が、手に取るように想像出来るじゃないか……
「ああ、くそっ」
さっきだってキスがどうとか……一緒に風呂とか一緒に寝るとかも言ってたな?
いくら兄とはいえ、僕だって男だぞ?
なにかの拍子に吹っ切れて、どんな行動に出るかなんて分からないじゃないか。
視界の隅には無防備な姿を見せる未来の偽者。
――その無防備さに、さらに心がささくれ立った。
苛立ちを紛らわせる為に、眠る未来の立体映像の耳元に口唇を寄せ――
「お前が誘ったんだからな……?」
――と、出来うる限りの甘い声で耳元に囁いた。
本物では出来ないことを、立体映像を相手にして溜飲を下げようとか、僕もちっちゃい男だなぁ……
「覚悟しろよ……?」
未来の上に跨がる。壁ドンならぬ床ドンの状態……いや、ベッドドン? ベッドは「ドン」とは音が出ないか。
そして胸元に手を伸ばす――
ふにっ
「……ん?」
ふにっふにっ
「……んん?」
スカっと空を切るはずの手が、なにかを掴む。
触れられる。小さいながらも柔らかい感触がある。
ビジョンモードではないのか? ビジョンモードに見せかけたダイブモードで、僕の部屋ごと再現――いや、流石にそこまでのデータを、素人が作れるものか?
「に、にーちゃ……」
「……んんん?」
「おねがい、やさしく、して……?」
「ん? ……のわっっっっッ!?」
条件反射的に飛び退いた。
その拍子にベッド上から転げ落ちる。その拍子に頭をテーブルにガツンとぶつけた。
こんなに焦ったのは――ええとアレだ。濁流王ダル・ダージに強酸を吐きかけられた時以来だっ!
え? ちょ、アレ? 待て、ちょっと。
未来の立体映像は、ゆらりと立ち上がり、ベッドの下で尻餅をついている僕に、ピシリと指を差す。
「かかったな! にーちゃ!! 以前のイタズラで、にーちゃに立体映像だとミスリードさせておいて『実は本物が添い寝してました』という作戦だぁ!」
「顔を真っ赤にしておいて、なにを言ってるんだお前はっ!?」
…………
…………
「…………にーちゃ」
「…………なんだ?」
「ごめん、部屋戻る」
「……おう」
【リザルト】
本日の勝負:痛み分け
―― …… ―― …… ―― …… ――
――――夢、これは夢だ。
闇の中に黒を垂らしたような、光を返さぬ衣。そこにあるのか、ただの幻影なのかも判断の付かないぼやけた輪郭。ただ、二つの双眸だけは、ギラギラと輝いて、それを見た生きとし生けるものは畏怖を植え付けた。
――邪悪。
本能が叫ぶ。これは生きていてはいけないモノだと。全ての生き物に対しての不倶戴天の敵。この世のものを二つに大別したら、一つはコレで、一つはその他だ。
老人とも幼いとも、男とも女とも取れない不気味な声でコレが僕に語り掛ける。
不気味に響くその声は、人にただ嫌悪感を覚えさせた。
『――ば次は、“――な夢”を――てくれよ――? 貴――至上の幸――手に入――』
――――それ――泡――えてしまわ――ば良いな? 『勇者』よ
――――
朝、起きる。
チュンチュンとさえずる雀は、僕よりずいぶんと早起きらしい。
結局、昨日はなかなか寝付けなかった。
まぁ、異世界に居た頃は、熟睡出来る時の方が少なかったぐらいなので、この程度の寝不足は平気だ。
だが、その所為で、悪い夢を見てしまったらしい。
「魔王……」
見た夢は、魔王と戦った時の記憶。
あのクソ野郎は戦いの最中、くだらない戯れ言を僕に吐きかけてきた。
「……走ってくるか」
――ランニングスーツに着替え、いつも通り朝の日課のランニング。朝の空気が肺の中の空気を入れ替え、洗い流してくれる。
身体を動かしていれば大概の嫌なことはその内に吹き飛んでゆく。
……どのみち、あの夢を見るのはこれで一度や二度じゃない。
初めのうちはそれこそ未来に泣きつきもしたが、もう慣れて、ちょっと嫌な気持ちになるぐらいになってしまった。
そうしていつものルートを走り終え、家に帰ってくる。
「ん?」
いつもなら未来が料理をしている音か、もしくは洗濯機を回している音がするのに、今朝は家の中がしん……と静まり返っている。
洗濯機のある脱衣所とキッチンを見てみたが、どうやら未来はまだ寝ているようだ。
夏休みだし、まだ寝かせておいてもいいんだが……勝手にトーストでも焼いて食べてしまったら、なんだか後で怒られそうな気もするので、一応声を掛けることにする。
たんたんたんと階段を上がり、僕の部屋の隣の、未来の部屋のドアをノックする。
「おーい、未来。まだ寝てるのか?」
少し声を張り上げると、部屋の中がドタバタとにわかに騒がしくなった。
「ににににーちゃ? ぁ、ぇ、もうこんな時間?」
「ああ、別にまだ寝ててもいいんだが……勝手にパンとか食っちゃってて良いか?」
「まままま、待って待って! あ、え? どうしよう……ああああ! にーちゃ! 絶対入って来ないでっ!!」
いつもなら着替え中でも入って来いって言いそうな未来が、珍しいな?
「いや、入らんけども……それじゃシャワー浴びてるぞー」
「あ、あ! 待って待って待って! 私に先に入らせて! 寝汗……そう! 寝汗が凄いのっ!」
……昨日の夜は案外涼しくて過ごしやすかった気がするんだが……まぁいいか。
「わかったー、それじゃリビングに居るぞ」
「は、はーい……」
キッチンに戻り、冷蔵庫からスポーツドリンクを出してがふがふと飲む。
そうしている間に、未来がシーツと僕の枕を抱えてドタバタと降りてきた。
ちなみに僕の枕は洗濯可能な素材だ。
「シーツと枕まで洗うのか? お前がシャワーを浴びてる間に洗っておこうか?」
「いいいい良い! 触らないで! 絶対触らないで!」
まぁ、自分の汗でぐっしょり濡れた枕やシーツなんて、兄に触られたくはないか。
……なんだか今日は、未来が普通の妹に見える。
流石に妹に蛇蝎の如く嫌われる兄は嫌だが、このぐらい拒絶されるのが普通だろう。
――ちょっと寂しいなんて思ってないぞ? ホントだぞ?
仕方ないので、手持ち無沙汰にテレビの電源を入れる。
熱中症対策を声高らかに注意するニュース番組をぼーっと見ていた。今日も天気が良くなりそうだ。
農家で行われる、児童の農業体験のニュースが流れている頃に、未来は脱衣所から出てくる。
「にーちゃ、ごめん。すぐご飯作る」
「慌てなくていいぞ。簡単なものでいいからな?」
未来が朝食を作っている間に、僕はシャワーへ。
いつもは僕の方が先に入るので、なんだか変な気分だ。
適度に暖まった湯気の残る浴室に、甘い香りがする……
なんだか、ボディソープやシャンプーとは別の香りに思えた。
ざっと汗を流してリビングに戻ると、朝食の準備が終えられていた。
トーストとサラダとインスタントのスープ。
いつもよりずっと簡単だが、文句を言うつもりは全く無い。作って貰えているだけで御の字だ。
――だから妹よ。普段から、もっと手を抜いていいんだぞ? 兄ちゃんの弁当に、毎回桜でんぶで“LOVE”とか書かなくてもいいんだぞ?
兄ちゃんが学校でぼっちなのは、あの弁当も原因のひとつだと思うんだ。友達が出来ても、あれを見せながら一緒には食えないぞ、妹よ。
「にーちゃ、ごめん……手抜き……」
「馬鹿言ってんじゃない。ありがとうな、未来」
いつになくショボンとする未来の頭を撫でる。
まだ少し湿り気を帯びる髪から、シャンプーの匂いが立ち上がった。
「食べよう。冷めちまう」
「……うん」
未来は照れくさそうに笑ってくれた。
―― …… ―― …… ―― …… ――
「さて」
掃き出し窓の外には、風に棚引くシーツが輝いている。
「どうする未来。“brand-new World”にログインするか?」
「あ、にーちゃ。今はメンテ中。午前中いっぱいかかるって」
だいぶ調子の戻ってきた未来は、洗濯かごを運びながら答えた。
メンテか……それじゃどうしようも無いな。
電源を落とそうと掴んだテレビのリモコンを、そのままテーブルの上に戻す。
「だから午前中いっぱいは、にーちゃとイチャイチャする」
洗濯かごを脱衣所に戻した未来が、僕の膝の上に頭を乗せて横たわった。
「おいおい、暑くなるぞ」
『――Pi』
リビングに据え付けられたエアコンが、未来の握るリモコンに応えて稼働を始める。
「はぁ……まあいいか」
にゅふふと笑う未来の髪を、手櫛で漉く。
「ホント、お前は昔っから、お兄ちゃんっ子だよな」
「ブラコンと言って欲しい、にーちゃ」
悪化してるって。まあ、僕もシスコンの自覚はあるけどね。
――この時間帯は特に興味深いテレビ番組は無い。
何処ぞの地方で捕れる、一般家庭の食卓には上がらないマイナーな魚をその場で素揚げにして食べている番組を、ぼーっと見ながらも時間は流れる。
「すぅ……すぅ……」
僕の膝の上で、未来は寝息を立てている。
未来が寝坊をするということは、昨日は夜更かししたんだろうし、仕方ないだろう。
ああ、平和だな……
こんな時間が、何時まで続くだろうか?
未来だっていつかは兄離れして、恋人を作ったりするのだろう。
そうすれば、こんなふうに甘えてくることも無くなって、その内に大学でも行って一人暮らしでも始めれば、兄妹でもほとんど会わなくなる。
そうしている内に、未来は結婚相手を見つけて、家からも出てゆくだろう。
そうなれば年に数回――住む場所に寄っては年に一度顔を合わせるどうかになる。
いや、未来に子供が産まれれば、親に孫の顔を見せに家に来るか。
――いや、それまでにウチの親が腰を落ち着けて、家に居るようにならなければ、まるで会う機会なんか出来なくなるかも知れない。
そうして、僕と未来の時間は別々に進んでゆくようになる。
――あちらの世界に居た頃は、それも現実だと思った。
僕の年齢が25なら、未来だって24だ。
戻ってきたら、もしかしたら甥か姪が出来ていてもおかしくは無い――そう思ってもいた。
こればかりは神に感謝しよう。
こうして未来との日常を、少しでも多く過ごせる時間をくれたことに……
未来の髪を撫ぜる。
さらさら、ぱらぱらと零れ落ちてゆく砂のような黒髪だ。僕の軋んだ髪とは全く違う。
不安なんだ。未来。
あの性悪魔王がまた夢を見させているんじゃないかって――
幸せを噛み締めていた瞬間。魔王の嘲笑い声で目が覚めるんじゃないか? って――
「でも、そうだとしても」
必ずここに戻って来る。
魔王を討ち倒し、必ずここに――
奪い返しに行く。
僕の明日を。
僕の未来を。
「そうしたら、またこうして、暮らしてくれるかい?」
眠る未来の頬に、僕は口唇を寄せた――




