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科白空白  作者: アサクラ サトシ
第一章 狼の小冊子
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狼の小冊子 その四

狼の小冊子 その四 です。

 僕らを追っているのは女性のはずだ。こいつもその連中の仲間なのか。あれこれ考えても仕方がない。僕が桜子ちゃんの手を取って逃げようとした時、すでに桜子ちゃんの右手は男の無防備な左襟を掴んでいた。

 さすが春生の妹というべきか。褒められたことではないが考えるよりも行動するほうが先のようだった。

 一瞬の出来事だった。桜子ちゃんは男の下顎を右手で突き上げて重心を崩した。そして、全身を回転させながら男のがら空きとなった懐に潜り込ませる。地面すれすれまで屈みこんだ後、膝から背中に、そして腕へと全身をバネにして男を硬いアスファルトの上に投げ落とした。言葉にしてしまえば、彼女が起こした一連の動作は長いかもしれないが、瞬きでもしていたら、なにが起きたのかさえわからない早さだ。

 僕らの周りで小さい悲鳴が聞こえる。人通りの多い路上の真ん中で、成人男性が投げ飛ばされたのだ。騒ぎが起きないはずがない。またもや浴びたくもない注目を浴びてしまう。しかも、今度は目撃されている数が先ほどとは全く違う。

 そんな周りのことなど意に介さず、桜子ちゃんは男を見下ろして、こう叫んだ。

「あんただーだで! なんでうちらを付け回しとーや!」

 またもやわからない方言が出てきたが、続く言葉の意味はすぐにわかった。普通、手を出す前に聞くことではないだろうか。順序が逆だし、もう、なんだろう。春生、お前の妹はお前と同じく無茶苦茶な子だよ。

 背中を強く叩きつけられて一時的な呼吸困難になったのだろう。男は桜子ちゃんを見上げながらなにか口にしようとしているが、言葉が出ない。あんな投げ方をされて無事ではないとは思うが、意識があってよかった。

 男は苦しいはずなのにどこか笑っているようにも見えた。痛めつけられて喜んでしまう性癖でもあるのかもしれない。残念なことだが、僕にはわからないしわかりたくもない。

「わ…しま…に」

 男は僕を見ながら呟いたが、なにを伝えたいのかわからなかった。うまく呼吸が出来ないせいもあって話すことが出来ないのかもしれないが、聞き取ることができない理由は僕らを囲んでいる野次馬の雑音も大きかった。

 僕らの周りには人の壁で円周が作られていた。しかも携帯電話で写真を撮り始めている輩まで出始めた。こんな光景をネット上に残されたらたまったものではない。今度こそ、僕は桜子ちゃんの手を取って強く握った。好奇の目を向けている人々の合間を縫って駆け出した。

 運の悪いことに車道を走る車の中に、タクシーが見当たらなかった。

 ドンキホーテーの前を通り過ぎて神泉駅の近くまで走り続けた。この辺りは渋谷の中でも住宅地になるので、人通りはめっきり減る。僕は人の通りがまったくない路地に入り込んで壁際に背を持たれた。ここはマンションと一軒家が立ち並ぶ通りで、少し先には円山町の飲み屋街に繋がる長い階段が見えた。

 軽く走っただけなのに呼吸はやけに乱れていた。激しい息切れを起こしている僕に対して、隣にいる桜子ちゃんの呼吸は乱れているけれど、つらそうな感じは全く見せていない。年齢の差もあるけれど、基礎となる体力が違うのだろう。

 軽い息切れを整えるために深呼吸をする。

 辺りは静かなせいか、耳障りなバイクの排気音が聞こえてくる。

「井上さん、なんで逃げるで。こげなったらとっ捕まえたほうがはやないか」

「正しいかもしれないけど、なんでもかんでも力で解決するのはよくない。それに君は女の子なんだ」

「それがなんだで! 大人しく捕まれとでもゆーで」

「違う。自ら進んで危ないことをしてほしくないんだ。君にもしものことがあったら、僕は春生に合わせる顔がない」

「そげかもしれんけど」

 桜子ちゃんは僕の掴んだ腕を見る。なにがいいたいのか、何となく分かる。自分で言いたくはないけど、彼女にはちゃんと伝えないといけない。

「僕は君よりも弱い。人を倒す技術もないし、倒したいとも思わない。情けないけれど、それは事実だ。それでも」

 この後に続く言葉が言えなかった。普段の僕なら絶対に言わないような科白なので恥ずかしくなって言えなかったのではない。路地の入り口で停車したバイクが排気音を唸らせながら、僕らに向かってライトを浴びせられたせいだ。

 今後の展開を予想する。僕らがバイクに背を向けたと同時にバイクはスロットルを全開にしてこちらへ向かってくる。そして、逃げ惑う僕らを袋小路まで追い込むつもりだ。逃げ場を失った僕らは、果たして助かることができるのか……なんて使い古された手法で窮地に追いやられるのだ。かといって逃げないわけにもいかない。

 僕は未だに握ったままだった桜子ちゃんの手を、今一度つよく握った。

「逃げきれるかわからないけど、逃げよう」

 桜子ちゃんが険しい目で僕を見て、口を開こうとした。

「『なんでだ』とは言わせない」

 このまま普通に走るだけでバイクから逃げきれるとは考えてはいない。目と鼻の先に見える階段を昇りきってしまえばいいのだ。あのバイクがアクション映画さながらのライディングをこなして、階段を昇ってくるわけがない。

 バイクの運転手はスロットルを回して威嚇するだけでなにもしてこない。人間の足なんてすぐに追いつくと踏んでいるのに違いない。むしろ、油断していてほしい。

 僕らはバイクに背を向けて走りだした……が、それは出来なかった。僕らの目の前に薄い笑みを浮かべた女がいたからだ。

 ありきたりなホラー映画の演出よりも恐ろしく、驚きのあまり腰が砕けそうだったのはここだけの話。

 後退りながら桜子ちゃんが僕の手を強く握る。

「この女だで」

 左手を強く握られたおかげもあって少しだけ冷静さを取り戻せた。目の前に現れた女は髪を明る目のブラウン色に染めていた。背は小さく、デニムジャケットにミニワンピース。キャメル色のハンドバッグを肩にかけている。一般男性なら興味を惹かれるタイプの女性ではある。僕が想像していた女性像よりも可愛らしい人だった。彼女の笑みさえも魅力的に感じたのかもしれないけど、今の僕からすると不気味の一言に尽きる。

「はじめまして。井上さん、そして石田桜子さん」

 これで四人目だ。さすがに驚くこともない。

「僕らになんのようです」

 背後から聞こえていたバイクの排気音が消える。バイクから降りて、僕らを背後から見張るつもりなのだろう。

「そんな怖い目で見ないで。私達はお願いに来たの」

 女は僕らを見つけながら優しく呟いた。

「お願い?」

「石田春生が手に入れた本。それを見つけたら私達に渡せ」

 目の前にいる女が喋ったのかと思ったが、聞こえてきたのは背後からだった。

 振り返るとフルフェイスのヘルメットを脱いだ女が仁王立ちしていた。キャメルのジャケットにデニムパンツと黒のブーツ。

 挟み撃ちに成功した女二人の顔を見比べて、納得した。

 顔が一緒とはそういうことか。

「渡部ヨウコとユミコなのか」

 口にしてから違うと気がついた。そうだった、僕が知っているのは春生が書いた登場人物の名であって、本当の名ではないのだ。

「残念。違うよ」と、目の前にいた女のほうが悪戯をした子供みたいに笑った。

 右肩を強く握られる。痛い目に合うのはいい加減かんべんしてほしい。

「石田春生は名前をちゃんと書かなかったのか。渡辺だ。私は渡辺由里子。男にこびるような格好をしているのが、姉の依里子だ」

「ちょっとユリちゃん! なんで本当の名前を言っちゃうの? 本名を知らなかったら名乗らなくてもいいじゃない。せっかく偽名にして書いてくれたのなら勝手に勘違いさせておけばいいの。こういう時は偽名でいいの」

 と、姉の依里子に説教をされた由里子は「わかったよ」と言いながら僕の肩から手を離した。顔は一緒でも性格は違うものなのだな。

「お兄ちゃんが手に入れた本っていったい何だで。あんたらみたいな奴に渡していいような本なんかは知らんけど」

「あなた、お兄さんと同じで口が悪いのね」

「依里子。口が悪いんじゃなくて、こいつの場合は方言だよ。方言。田舎者だから許してやれよ」

 同じ声で会話をする渡辺姉妹。姉は柔らかく、妹は刺がある。

「品の悪さなら、二人が群を抜いていますから安心してください」

「ユリちゃん」

 依里子が冷ややかな目で合図を送る。僕の右脇腹に由里子の右拳がめり込む。脇腹を抑えながら地面に両膝をついた。

 うまく、呼吸が、できない。

 吸い込むことも、吐き出すこともままならない痛み。

 嫌な汗が吹き出す。

 忘れていた吐き気。

 我慢することも出来ずに、黒いアスファルトの上へ胃液まみれの未消化物を吐き出す。

「こいつ、吐いてやんの」

 頭の上から嘲笑う由里子の声。

「お前!」

 桜子ちゃんの怒号が聞こえたので、今度は僕が彼女の手を強く握った。

「僕は大丈夫。だから、動かないで」

 やせ我慢で言ったものの、脇腹の痛みで立てそうになかった。さらに油汗が全身から湧きだっていた。

「そりゃそうさ。手加減してやったんだからさ。私がマジで殴ったら、あんたの内蔵なんて破裂してるよ」

 これで手加減されたのなら、内蔵が破裂するのはあながち嘘ではないだろう。

「私達のお願いを聞き入れてもらえます?」

「だけん、なんであんたらの言うことをうちらが聞かないかんで!」

「桜子さんの言うとおりね。ごめんなさい。私ったら言い方を間違えたようです」

 依里子は首を傾げて顎に人差し指を置く。その仕草はさながらテレビドラマのヒロインだった。演技めいたポージングが癪に障る。

「隠された本を必ず見つけて、私達に寄越しなさい。拒否権はないのであしからず」

「あんたらうちを舐めすぎと違うか」

 桜子ちゃんが僕の手を振り払い、半身の構えを取った。彼女を止め用にも足に力が入らない。

「おい、石田の妹。柔道がちょっとばかり強いからって調子に乗らないほうがいい」

「あんたもだで。なにを習っとーか知らんけど、あんま偉そうにすんなや」

「依里子」

 由里子が指示を仰ぐ。

「んー、お仕置き程度ならいいよ?」

 依里子の目はあきらかに楽しんでいる。桜子ちゃんの強さを知った上で喧嘩を買ったのだ。それは、由里子の方が桜子ちゃんよりも上だということを確信している。

 脇腹の痛みは和らいでいないけど、泣き言を言っている場合ではなかった。僕は痛みに耐えながら立ち上がり、桜子ちゃんを背中に回した。

「井上さん、そこのいて」

 彼女の言いたいことはニュアンスで理解する。でも、僕は引かない。代わりに、由里子を睨みつけた。

「この子を傷つけたら、僕は小冊子を探さない。あなた達が欲しがっている本すら手に入らない。無理矢理にでも探させようとしても僕は言いなりにはならない」

 由里子が小さく笑い始める。笑い声は次第に大きく、そして高くなっていく。

「あー、可笑しい。言いなりにはならないだってさ。依里子、こういう女の前でカッコつける男っているんだな」

「言わせてあげればいいの。くだらない男のプライドなんだから。井上さん。あなたがどんなに意地を張っても、人は圧倒的な暴力には勝てません」

 暴力に屈することくらい自分がいちばん理解している。この二人が僕に注目さえすればそれでいいのだ。

 鳩尾に鈍痛が走る。数センチも体が浮いたような感覚。無遠慮に吐出される胃液。体がくの字に曲がる。顔の右側面に鉄の棒で殴られたような衝撃。痛みに耐え切れずそのまま冷たいアスファルトに倒れこんだ。

 体に伝わる痛みのせいで意識だけははっきりとしていた。悶絶する僕を見て桜子ちゃんがどう動くのか気になった。自分の感情を抑えきれずに、由里子へ襲いかかるかと思ったが、違った。

 桜子ちゃんは倒れている僕を抱きかかえてくれた。本当、情けないなぁ。

「良い判断ね。妹さん。そこでユリちゃんに襲いかかっていたら、返り討ちに合っていたし、なにより殴られた井上さんの立場がないもの」

「私はやっても良かったんだけどな」

 由里子が得意気に言う。

「井上さん。わかったでしょう。これ以上、痛い目に遭いたくなければ私達の言うことを聞いてください。私達だって好きでこんな事をしているわけではありません。さぁ、意固地にならず、私達と手を組みましょう」

 ぼやけた視界に依里子の右手が見えた。この手を握れば済むことなのに、手が上がらなかった。

「馬鹿な人」

 依里子が手を引く。

 たぶん、殺したりはしないだろう。小冊子を探す人間がいなくなるのだから。いや、それはおかしい。なぜ、この二人は僕らを利用するのだ。小冊子を奪って、自分たちで探せばいいだけの話だ。突如と湧いた疑問。だが、それを問いかけることは出来そうにない。

「由里子!」

 依里子が声を張り上げる。僕の見えない所で何かが起きているようだ。

「三ヶ月ぶりだな」

 相変わらず視界はぼやけていたが、声には聞き覚えがあった。桜子ちゃんに投げられた、あの男のものだ。

「加藤」

 由里子が声を殺して、男の名を呼ぶ。

「動くなよ。お前らを撃つことに躊躇はしない」

 加藤と呼ばれた男は銃を持っていたのか。今考えると桜子ちゃんの行動は一歩間違えれば本当に危うかった。

「あなたどうやってここへ」

 加藤の出現で、渡辺姉妹が狼狽しているのがわかる。

「そんなことはどうでもいい。この二人を置いて立ち去れ。一人ずつだ。まずは由里子、お前からだ」

「ユリちゃん。彼の言うことを聞きましょう。彼、きっとあの女とも繋がっているわ」

「わかった」

 渋々と言った感じで由里子が返事をすると、バイクにエンジンが掛かる。

「邪魔した礼はするからな」と排気音にかき消されないように大きな声を上げた由里子は捨て台詞を吐いてバイクを発進させた。

 バイクが遠ざかっていくのが耳に届く。

「次はお前だ。依里子」

「女の子に投げ飛ばされたくせに。ずいぶんと威勢がいいじゃない」

「油断しただけだ。お前ら姉妹に油断するつもりはない。本音を言ってやろうか? 俺は今すぐにでも撃ち殺してやってもいいんだ」

 ようやく目の焦点が合ってきた。ぼんやりと見えていた加藤の姿が見える。彼の右手には銃が握られている。こんな住宅街のど真ん中で撃つなんて考えにくいけど、どうやら加藤と渡辺姉妹には因縁がありそうだ。因縁の前にこの三人は顔見知りだ。

 加藤は渡辺姉妹に三ヶ月ぶりと口にした。三ヶ月前。巨大生物。渡部ヨウコ、渡部ユミコ。左ポケットに収めている小冊子に意識が行く。加藤と呼ばれたこの男は、小冊子の登場人物である佐藤カゲミツのことか。小冊子の中では佐藤と渡部は仲間だったはずだ。巨大生物発見直後に、この三人は仲違いをしたと考えるのが妥当だろう。

「でも、ユリちゃんは逃がしてくれた。私を逃さないなんてこと、しないでしょう?」

「無駄口はいい。早く消えろ」

「私達と良い思いをしてきたのだから、当然よね」

 加藤は銃を両手で抑えて、依里子に標準を定めた。

「冗談よ」

 依里子は僕達に深々と頭を下げて、ゆっくりとした足取りで円山町へと繋がる階段を昇りきった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

狼の小冊子 その四 はいかがでしたでしょうか。

楽しんでいただけたのなら嬉しい限りです。


登場人物も加藤、渡辺姉妹と増えました。


続きとなる 狼の小冊子 その五 は明日投稿いたします。

よろしくお願いいたします。

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