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科白空白  作者: アサクラ サトシ
第一章 狼の小冊子
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狼の小冊子 その二

『科白空白』

 狼の小冊子 その二 です。


 ヒロイン登場です。

 石田春生と僕は本当に正反対の人間だ。僕が問題ごとに巻き込まれることを好まないのに対して、春生は自ら進んで巻き込まれに行くような男だ。

 春生と初めて知り合ったのも、二年前に起きた些細な出来事が切欠だった。あの日、食材を買いに行こうとしてスーパーに寄ろうとしていたところ、壁に寄りかかった男が僕の前へ急に足をだしてきた。その足に引っかかった僕は転ぶことは無かったけれど、バランスを崩してしまう。なんとか体勢を持ち直して足を引っ掛けた男と向き合った。男は酔っ払っていて、まるで僕が悪いかのように因縁をつけてきた。謝罪の言葉を言ってくれるかと思ったが見当違いだった。こんな奴と付き合うことはないと無視を決めて素通りした。男から離れて数秒と立たない内に後ろから肩を捕まれ無理やり振り返された。

 男は「ムカつくな、てめー」「やるか、こら」といかにもありきたりな言葉を並べては僕を威嚇した。僕が捕まった場所は運悪く人通りの多い商店街だったので、通行する人にも僕らは目立った。こんな男と口論しても無駄だと思い、どう切り逃げようか考えていたところに春生が割り込んできた。

「なにが始まってんの?」

 これが春生の第一声だった。何が面白いのか顔は笑っていた。当初、こいつも酔っ払った男の友人なのかと思ったが「誰だ、てめー」「てめーには関係ねーよ」と怒鳴る男をみて違うとわかる。

「ああ、お前が悪い奴ね。んで、そこの兄ちゃんが絡まれた側か。なんだ、ありきたりだな」

 さっきまでの笑顔が消えてつまらなそうに呟いた。助けてくれるわけでもない、何がしたいのか見当がつかなかった。酔った男は割り込まれた上に、春生の言葉が気に入らず掴みかかっていく。春生はこれを待ってましたと言わんばかりに「そうそう、こういうのは嫌いじゃない」と、また嬉しそうに応戦した。

 春生は喧嘩慣れしている様子で男の攻撃を簡単に避けては反撃した。酔っ払った男はほぼ一方的にやられていた。騒ぎが大きくなり、いつ警官がきてもおかしくないと察した僕は一人で逃げればいいのに、何故か春生を連れて逃げてしまった。

 人気の無い所まで逃げ切ると、春生はトラブルに巻き込んでくれたお礼をさせてくれと言ってきた。その意味がわからず「逃してくれたお礼ではなくて」と僕が聞くと春生はこう返してきた。

「俺はトラブルってやつが大好きなんだ。どこかでなにかが起きていたら、うずうずして俺も混ぜてほしくてたまらなくなる」

 どうしてこう僕はこんな変わった人とばかり出会ってしまうのだろう。彼の悪癖は一種の病気みたいなものだ。適当に相槌を打って春生と別れることはできたはずだった。春生を一言、二言と話していく内に彼の話術に引き込まれていった。気がつけば、僕はスーパーの買い物に行くのも忘れて春生と共に適当な居酒屋に入ってしまった。

 座敷に通され、お互いに胡坐をかいで座ると、店員の女の子が飲み物の注文を取りに来た。酒の飲めない僕はウーロン茶を、春生はとりあえずの生ビールを頼んだ。テーブルに置かれたホウレンソウの白和えを摘まみながら、僕らはここにきて初めてお互いの名前を明かしあった。

 春生は酒にも強く、何をするにも豪快な男だった。到底ふたりでは食べきれない量を注文したかと思えば、一人でほとんど食べつくし、酒も一人で何杯も飲んでいた。

 飲み食いをしながら彼のことを聞くと、大学を卒業したものの就職活動は一切せず、好きな芝居を続けるため、芝居小屋へ在籍。何度となく舞台上で演技はしたけれど、それだけでは飽き足らず、自分一人で何かを発信できないかと考えたのが紙芝居だという。

 本人曰く、本業は役者だと自称していたが、当然、舞台役者だけで生計を立てられるわけもないのでアルバイトをしていたと話していた。一方で紙芝居のほうは趣味らしい。

 春生は目の前にある出来事すべてを楽しむことに生きがいとしている。自分の置かれている環境を楽しみ、他人の問題に首を突っ込み、さらに危険な状況になったとしても楽しみにしている。

 僕には真似のできることではなかった。自分の問題ですらどうにかして避けたいのに、他人の問題にまで関わることなんて出来やしない。まして、それらの問題を楽しむことなんて無理だ。

「僕は君みたいな善人にはなれないよ」

「俺が善人? バカか」

 春生は露骨に嫌そうな顔をした。四本目の煙草に火を付けた。僕もむかしは煙草を吸っていたけれど、春生みたくヘビースモカーではなかったので驚く。もっとも、僕が驚いたのは善人と言われて、謙虚にでる人はいても嫌悪するような人とは初めて出会った。

「いや、だって、知らない人を助けているなら善人というか、良い人じゃないかなって」

 春生は唐揚げを取り損ねると、眉間に皺を寄せながら僕に箸を向けた。

「困っている他人を助けようとする奴なんて、偽善者か詐欺師だけだ」

「でも、君は違う」

「いちいち細かい奴だな。俺は俺が楽しむためにやっているんだ。人様を助けたいという真っ当な動機じゃない。あの時、俺が割り込んだとき、助けが来たと安堵したか」

 安堵はしなかった。むしろ困惑しかなかった。何も言えないでいると、春生はほらなと笑った。

 春生が再び唐揚げ山に箸を運ぼうとして「あー」と何か思い当ったように呟いた。

「楽しむ以外に動機があるとしたら、紙芝居のネタってとこだな」

 春生は自分が制作している紙芝居の内容を話し始めた。紙芝居に描かれているのは童話といったメルヘンで心和む内容ではない。春生自身が経験したトラブルにフィクションを交えて作り上げたものだ。作中に出てくる登場人物は実在のモデルがいるため、本名を少し変えていると話していた。

 後日、春生の自作紙芝居を見たことがあったけれど、売春オークションや呪われた日本刀だとか、どれも嘘のような話ばかりで現実味はなかったけれど、本人は面白い経験をしたと笑っていた。

 この日の出来事も紙芝居になるのかと春生に問いただしたら「あんなありきたりな出来事が面白いわけがないだろ」と一蹴された。

 石田春生という男は非常に迷惑な人間であり、ものすごく変わっているかもしれないけれど、憎めるような存在ではなかった。だからこそ、石田春生と友人関係が持てたのだと思う。

 春生も「お前みたいな生真面目な人間初めてだから面白いよ」と言っていたな。

 ともあれ、これが僕らの出会いであり、親しくなった日だった。

今回の『音読解読』も春生が自作した物に違いない。主人公の名は僕から拝借して、女泥棒は自分の名前をもじったのだろう。春だから桜か。いくらなんでも安直すぎるだろ。そういえば、彼の名前の由来は春に生まれたから春生だと言っていたな。しっかりとご両親の遺伝を受け継いだみたいだが、出来れば引き継いでほしくないセンスだ。

 僕にこの小冊子を手渡しにきた赤毛の白人女性は春生に頼まれたのだろう。あの男も手の込んだことをしてくれる。名前を勝手に使われたのは気持ちよくはないけど小冊子小説は十分に楽しめている。ここは一つ、彼の余興に付き合うとしよう。

 小冊子をバックパックの中に入れる時になってようやく、弁当箱に手をつけていないことを思い出した。腕時計で時間を確認すると残りの休憩時間は二十分足らず。

 僕は急いで風呂敷に包んだ弁当箱を取り出す。弁当箱は円すい形の二段式で成人男性が食べる量としては少ないかもしれない。煮浸しの小松菜はまずまずの味。卵焼きは他のおかずの味が濃いので甘めにして焼いた。卵焼きは上出来だった。自分の作った弁当箱に採点しながら、ふと気づいたことがあった。

 春生が自作の紙芝居を披露するのは決まって夜の井の頭公園だった。そして、巨大な狼が目撃されたのは井の頭公園付近。春生は紙芝居のネタは必ず実体験だと語った。

 今回、春生が作ったのは紙芝居ではなく小冊子だが……あの小冊子に描かれた物語も春生が体験した実話だとでもいうのだろうか。


 休憩から仕事終わりの十八時まで小冊子に描かれていた内容は石田春生の創作なのか、それとも彼の身に起きた事実なのか、そればかり考えていた。いくら小説が好きだからと言って、現実と創作を混合したりしない。ただ、もしあの物語が事実だとしたら子供っぽい表現になるけれど、ワクワクしてしまう。小さい頃は日本のお家芸である特撮映画はいかにも着ぐるみといった怪物に慣れ親しみ、アニメや漫画にも巨大な動物を見ては「こんな動物たちがいたら楽しいのになぁ」と願ったりもした。創作物なのだから存在しないと解っていながらも楽しんでいた。ところが、つい三か月前に本物が現れてしまった。おそらく日本人の八割……は言い過ぎかもしれないが少なくとも五割以上は巨大動物の出現に心躍ったはずだ。さらに友人が巨大動物と関わっているのだとしたら尚のこと胸が高鳴ってしまう。

 興奮しながらも、どこか冷静な僕がいて、頭は大丈夫かいとあきれた口調で問いかけてくる。石田春生がいくらトラブル好きだからと言って運よくその場に居合わせることができるだろうか、と。ましてやいまでは動画投稿サイトで巨大動物の姿など日本だけでなく世界中に出回っている。あの男が二次制作をしたと考えたほうが賢明だ、と。

 僕はバックヤード内で遅番の社員とアルバイトに軽い引き継ぎをして仕事を終えた。エプロンの紐を解いて自分専用のハンガーに掛けると、仕事中に考えていたことすべてがばかばかしく思えた。

 あの話を実話と考えるのは無理がある。本から巨大動物が召喚されるのは正直いただけない。そんなものは漫画、アニメ、ゲームでお馴染みの手法だ。

 もういっそのこと春生に連絡でもしてしまおうかと思ったが、さすがに思いとどまった。あいつはあいつなりに僕を楽しませようとしたのだろう。そして、あいつ自身も楽しもうとしているはずだ。無粋な真似はやめてここはおとなしく春生の思惑に乗って、二冊目の小冊子を探し出すことにしよう。

デイバッグの中には、お弁当と読み掛けの文庫に小冊子がある。普段から読み掛けの小説をパンツの後ろポケットの左側にいれているのだけれど、今日は読み掛けの文庫ではなくて、小冊子を収めることにした。帰りの電車内でもう一度、熟読しようと思ったのだ。

 僕がデイバッグを背負うと、遅番社員の溝口さんがバックヤードの出入り口から顔を覗かせて、僕を呼びかけた。

「井上君。石田という人が会いに来たんだけど、知り合い?」

 せっかくこっちが連絡を取らないでいる気になっていたに、向こうから会いに来るなんて拍子抜けしてしまった。

「ええ、友人です」

「本当に友達?」

「そうですけど」

 なんだか、僕を見る溝口さんの目が怖い。

「どうみても十代の女の子だけど、変なことしてないよね?」

「え、女の子?」と、声を裏返してしまった。しかも十代ってなんだ。

 慌ててバックヤードから出ると、黒髪のショートカットにTシャツとデニムのショートパンツと黒のニーソックスといったカジュアルな服装をした女の子がいた。肩からショルダーバッグをかけている。背も小さく、顔も幼さが残っているところを見ると溝口さんの言うとおり十代に見えた。当然、この子に見覚えはない。

「なぁ、あんたが井上さんだ?」

 イントネーションが関東圏と違う。地方から出たばかりで出身地の訛りをそのまま地で喋っているようだ。

「そうですけど、どちら様ですか?」

「石田春生って知っちょーが。うちは妹の桜子ってゆーに」

 言葉が見つからなかった。血の繋がりがあるとは思えないほど容姿が似ていないのは(春生には悪いが)些細な問題だ。桜子という名前は『音読解読』で登場した泥棒の名前だ。あれは適当につけた名前ではなかったのか。

「なに黙っちょるで。うちな、あんたに話があーに。時間はあーだーか」

 どこの方言なのかわからないけれど、言っていることは何となくわかる。言葉がきついので怒っているようにさえ聞こえる。バックヤードの後ろから感じられる視線が痛い。とにかく、店内からは出たほうが良さそうだ。

「時間はあるけど、とにかく店内じゃあれだから外へ出よう」

背中に冷たい視線を受けながら春生の妹と共に店の裏側まで移動した。そこは旧東急東横線の高架下で、いまではほとんど人が通らなくなった場所だ。もちろん、いかがわしいことをしたいからではない。十代の女の子と一緒に居るところなんて知人友人赤の他人にすら見られたくなかった。

 僕らは改めて面と向かい合った。

「君は本当に、あの春生の妹なの?」

 まず、いま目の前にいる彼女の存在を信じられないので聞いてみた。あの春生と容姿があまりにも似ていないからだ。

 自称、石田春生の妹は眉間に皺を寄せてショルダーバッグからパスケースを取り出して、僕に見せつけてきた。パスケースの中にはスポーツで有名な大学の学生証が収められていて、顔写真と名前が表記されていた。これは身分を証明するものではあるけれども、春生の妹だと言える物ではない。

 こちらの表情を読み取ったのか、彼女は苛立ちながら小さく地面を踏みつけた。

「本当に疑い深い人だね。あんたがどう思うとうちはお兄ちゃんの妹だけん。それでいいが。そぎゃんこと、どげだっていいけん。うちはあんたに聞きたいことがあーに!」

「ごめん、早口すぎて、君がなにを言っているのか、さっぱりなんだけど」

 すると、僕は右襟を彼女の左手に掴まれ、いとも簡単に彼女の方へと引き寄せられた。こんな体も小さく細い腕をしているのに、不思議でならなかった。

 上半身を屈まされて、顔の位置が一気に近くなる。

「お兄ちゃんがどこにいったか、あんた知っちょーでしょ」

「どこかって。どういう意味?」

「もう一週間も帰ってきとらんに。携帯も繋がらんし、連絡もない」

「それって行方不明ってこと」

 春生の妹は、初めて僕との視線を合わせることを拒んだ。

「お兄ちゃんが居なくなった日、うち宛ての変な書置きとあんた宛ての手紙があった。うちに残された書置きにはここで働いとる井上優太って人を尋ねればなんとかなるって」

「そんな。僕を頼るよりも、警察へ相談した方がいいじゃないか」

「そぎゃんことが出来とったら初めからやっちょーわ!」

 こんな小さな女の子に、どんな理由であれ怒鳴られる覚えはない。僕は奥襟を掴まれた左手を乱暴に振り払った。

「出来ないってなんだ! 第一、僕は春生とここ数か月も連絡を取っていないだ。どこにいるかなんて知らない」

「いんや。知っちょる。今日、あんたはお兄ちゃんからなにか貰っとるはずだで」

「あの小冊子のことを言っているの?」

「お兄ちゃんが何をあんたに渡したのかまでは知らんで。うちに残しとった手紙には俺を探すヒントをあんたが受け取るってことだけだわ」

 小冊子を収めているポケットを触れる。この小冊子が姿を消した春生を見つけるヒントだと言われても、見当がつかない。

「なぁ、本当はお兄ちゃんがどこに行ったか知っとるでしょ? 頼んわ。うちと一緒にお兄ちゃんを探してごさんだーか」

「急にそんなことを言われても困るよ。さっきも言ったけれど、行方が分からないのなら、警察に捜索願を出すべきだよ」

「一週間だで」

 春生の妹は消えさえりそうな声で呟く。

「え?」

「お兄ちゃんが居なくなって一週間。うちはずっとこの日を待っとった。うちだって警察に頼ろうとした。けど、お兄ちゃんの書置きには、警察や興信所では俺は絶対に見つけることは出来ないし、信用も出来ないって書いとった。この意味わかーか?」

 警察さえも敵に回しかねない春生のことだ。頼れない理由は大いにわかるけれども、警察の手にも負えないような男を本屋に勤めているような人間に見つけられるとは到底思えない。

 創作された物語であれば、不可思議な出来事が起きようとも、小さな手がかりから行方不明となった人物を見つけることが可能かもしれない。だけど、現実ではそう上手くいくわけがないんだ。

「黙っとーのは、うちのこと助けてくれんつもりなんか? お兄ちゃんを探してくれんてことだ?」

「急なことだから、すぐには答えられないというか」

 そんな大きな問題を僕に振らないでくれと正直に答えられるわけがない。いますぐにでもこの場から逃げ出したいけれど、うまい言い訳が思いつかない。なんだってこんな厄介なことに巻き込まれなければいけないのだろう。

 春生の妹がさらに一歩近づいてくる。小さい体をしているのに彼女から放たれる威圧感は足を竦ませる。きっと僕は口を半開きにして間抜けな顔をしているのだろう。春生の妹が目と鼻の先まで近づくと、落胆の溜息をつく。

「書置き通りだわ。『あいつは十中八九、俺を探すことに躊躇する』って」

 さすがに春生だ。僕の性格をよく理解している。

「そんでな。続きにはこうあったに。『その時は力づくでやれ』って」

 春生の妹がそう言い切ると同時に、再び僕の右襟を素早く掴む。強引に前姿勢へとさせられる。僕が踏ん張ろうにも上半身のバランスは崩されていた。目の前にいた春生の妹の姿は消えていた。気が付けば彼女は僕の左足を自分の左足全体を使って絡め取り、それに合わせて彼女は自分の左肩を僕の腹部へ押し付けて押し倒す。これら一連の動作は一秒と満たなかった。これは柔道だと気付いた時には、僕は尻餅をついていた。

 起き上がろうとすると、彼女はそのまま僕の腹部へ腰を下ろして、両肩には彼女の両膝が乗せられる。両肩に食い込んだ膝のせいで上半身の力が入らず逃れられなかった。デイバックを背負ったまま倒されたので、中に入っている弁当箱が背中に当たって痛い。弁当箱が壊れてなければいいけど。などと悠長に考えている場合ではない。

 年下の、しかも僕よりも数十センチも小さい女の子にあしらわれるのは一人の男として情けないが、それはそれだ。こんな強引なやり方に屈するような軟い男ではない。ここは大人の対応をしつつ説教をしなければいけないと思い、彼女と目を合わせる。

 彼女の目には涙が溜まっていて、唇も小刻みに震えている。

 涙腺に溜まった涙が大きな粒となって僕の頬へと落ちる。

「頼んわ。うち、こっちに来て頼れる人なんてお兄ちゃん以外におらんに。井上さん、あんた、お兄ちゃんの友達なんだが。だったら探して。一緒に、探してよ」

 声を殺して泣き始め、彼女はずり落ちるようにして僕の体から離れた。

 今日、僕と会うまで、この子はずっと我慢をしてきたんだ。消えた兄を心配しながらこの一週間を過ごして来たんだ。誰に頼ることも出来ずに、たった一人で。

 ゆっくりと体を起こす。春生の妹、石田桜子に掛ける言葉を探っても見つからない。この子が求めているのは慰めの言葉ではないことくらい、わかっているからだ。

 桜子ちゃんは頬を伝う涙を無頓着に拭いながら、ショルダーバッグから封筒を取り出して僕の胸に突き付けてきた。

「あんた宛の手紙だけん。中の手紙は読んじょらん。もし、それ読んでもあんたの気が変わらんかったら諦めーわ」

 涙声で訴える彼女を見ていると胸が痛んだ。

 渡された封筒を破り便箋を取り出して目を落とした。


『井上へ

 久しぶり。手紙なんてほぼ初めて書くから堅苦しい挨拶は抜きにする。

 これを読んでいるのは桜子にやられた後だろ。面倒なことに首を突っ込まないお前のことだから桜子の手紙には力づくでやれと書いといた。

 強いだろ、うちの妹。妹自慢はいいか。

 察しのいいお前のことだ。手渡された小冊子の作者が俺だと気づいたはずだ。小冊子は全部で四冊ある。残りの三冊は桜子と一緒に探してくれ。四冊目の小冊子を手に入れれば俺がどこにいるかわかる。

 きっとお前は小冊子探しをさせないで、俺の居場所を教えろと思っているのだろうが、教えられたら面倒な手紙など残したりしない。

 俺が与えられるのは、四冊の小冊子だけだ。

 ただし強制はしない。俺と、そして桜子に関わりたくないと思えば小冊子を捨てて、すべて忘れてくれ。そうすればお前は大好きな読書に没頭できるからな。

 でもな。本の中に描かれている物語だけに満足しきれていないのなら、現実に起きている物語を楽しめよ。

 小冊子は俺が書いた物語だが、これから起きることはお前の物語だ。

 物語を始めるのなら残りの小冊子を見つけろ。』

 

 最後まで読み終えて、手紙の裏を見ると追伸が書かれてあった。


『追伸

 俺がいうのもなんだが、桜子はおっかないし気も強いが、小さい頃から寂しがり屋なんだ。桜子にも関わるなと書いたが、訂正する。二冊目を取りに行かなくても、あいつだけは頼む。

 それともう一つ。もし気が変わって俺を見つけるために動いてくれたら、井上に渡したい本がある。

 本の内容は言えないが、きっと気に入るはずだ。じゃあな。』

 読み終えて一息ついた。こういう時にこそ煙草が欲しくなる。

 小さく丸まった石田桜子を見た。

 ここまで言われて、放っておくわけにはいかないだろう。お前も、お前の妹も。

 僕になにができるのかわからない。でも、春生とその妹に頼られているのならその気持ちに応えるしかない。

 手紙を綺麗に折りたたみ元の封筒へ収めて投げ出された鞄の中に詰め込んだ。

 小さくなった石田桜子の前に座り、肩に手を置いた。

「桜子ちゃん」

「なんだで」

 真っ赤な目が僕を睨んだ。

「一緒に探そう。手がかりは春生が書き残した小冊子にある」

 僕はポケットに収めていた狼の絵が書かれている小冊子を見せた。

「この小冊子は全部で四冊ある。これを全部見つければ春生を見つけることができそうなんだ」

「本当に見つかることができ―で?」

「君のお兄さんが言うんだ。僕はあいつを信じる。だから、桜子ちゃんもお兄さんを信じて探そうよ」

 桜子ちゃんは鼻をすすり頷いた。

「うん。探す」

 と言って、肩に乗せていた僕の右手を掴んだ。

「でもな」

 僕の右手首が極められた。激痛で体もねじれる。「痛い痛い」と連呼すると右手を離してくれた。

「初めからそう言えや。このダラが!」

「え、だらが?」

 方言だと思うけど、意味は全くわからなかった。右手首の関節が解かれて僕らは立ち上がった。

「それとな、うちのこと、ちゃん付けで呼ぶのは、やめてくれん」

「どうして」

「その、あれだに。家族以外の、男の人にちゃん付けで呼ばれーの、慣れちょらんけん。恥ずかしいに。だけん、やめてくれん?」

 なんというか、方言でこんな風に言われるとドキドキしてしまう。

「じゃあ、石田さん?」

「そんなん他人行儀みたいで嫌だけん。あんた、お兄ちゃんのこと、春生って呼び捨てにしちょーが。そんならうちも桜子で呼んでーや」

「いきなり呼び捨てはちょっと。じゃあ、桜子さんで」

 本当は桜子ちゃんと呼ぶほうが言いやすいけど、口に出さなければいいだろう。

「むず痒いけど、もうそれでいーわ。たいぎぃ男だで」

 方言の多い子だ。最後の言葉は、絶対に良い意味の言葉ではない。方言の意味を聞き出したいところだけれど後回しにした。

 ようやく、お互いに冷静になれたおかげもあって、僕らは周囲の視線を浴びせられていることに気が付いた。はたから見ればただの痴話喧嘩に見られるかもしれないけれど、下手をすれば十代の女の子に手を出した痴漢と誤解される可能性だってある。ましてや、ここは僕の職場の真裏だ。どこに誰がいるのかわからない。

 僕らは何事もなかったかのように駅を目指して歩き出した。

 渋谷駅に着くまでの間、コミュニケーションを取るために改めて自己紹介をする。彼女も言葉少なめに答えてくれた。高校を卒業したばかりで、春生のアパートに住みながらこちらの大学へ通っているという。

「地方出身だし、うち出雲弁ばりばり使っとーからバカにされーかと思ったけど、意外とみんな優しくて安心したわ」

「出雲って、出雲大社のある島根?」

「そげだで。他に出雲っつー地方があるんなら教えてほしいわ。お兄ちゃんから聞いとらんかったの?」

 春生の喋り方はごく普通の関東の喋り方だったのでこちらの出身だと思っていた、まさか中国地方出身だとは思いもしなかった。

 ついでに春生が僕に渡したいと言っていた本について聞いてみたが、彼女は本当になにも知らなかった。

 僕はポケットから小冊子を桜子ちゃんに見せたが、彼女は首を傾けるだけで見覚えがないと答えた。

「その絵、なんかお兄ちゃんが描いたようには見えんけどなぁ」

「言われてみると、違うかな」

 春生の描いた絵は自作の紙芝居で数回ほど見たことがある。写実的な絵というよりも、コミカルに描かれたイラストカットで表現されていた。一方、僕が手にしているこの小冊子に描かれた狼の絵はありふれた表現だけれども、いまにも動き出しそうな雰囲気がある。

 表紙の絵を眺めている内に、もしかしたらという願望が芽生えた。春生が描いた小冊子の物語が事実だとすれば、表紙に描かれた狼の絵は「本物」かもしれない。

 物語で描かれた主人公と同じことをしてみたいという衝動に駆られる。

 僕は不意に足を止めて、小冊子の中にいる狼と目を合わせた。

「狼」

 声を張って絵の中にいる動物を読んだ。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 狼の小冊子 その二 はいかがでしたでしょうか。

 楽しんでいただければ嬉しい限りです。


 ここから方言ヒロイン『石田桜子』の登場となります。

 島根の方言である出雲弁を喋るヒロインは滅多にいないので、

 この作品の楽しむ要素の一つだと思っています。


 次回、狼の小冊子 その三 も読んでいただけると嬉しいです。

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