狼の小冊子 その一
はじめまして。アサクラ サトシといいます。
この作品は、昨年に公募し落選した同名小説のリライト版です。
物語のジャンルはファンタジーとしていますが、剣は出てきません。
魔法もなければ、モンスターも登場しません。
普通に働いている二十代半ばの男が厄介な本を手に入れて、厄介な出来事に巻き込まれていく話です。
よろしければ、一読してみてください。
今年の二月末、都内で複数の巨大動物が目撃された。
巨大動物は映像にも残され、インターネット上にある動画投稿サイトでは少なくとも十を超える動画が配信された。この目撃情報がネット上だけで収まるわけもなかった。テレビをはじめ紙媒体といったすべてのメディアが取り上げ、日本だけでなく世界中の人々が巨大動物の姿に熱狂した。もちろん巨大動物を偽物だと否定する人はいたけど、圧倒的に肯定派が多かったのは確かだ。僕も動画サイトで巨大動物の姿を見たけれど、日本のお家芸である特撮ではない。ましてや、高度なCGで創られるようなものではない。あれは、あの動物の生々しさ、息遣いの荒さ、あの毛並みは生きている動物としか思えなかった。
巨大動物の目撃で劇的に忙しくなった人たちがいる。マスコミ関係、警察に消防、さらには自衛隊まで動き出した。忙しくなったのは特殊な職業だけではない。書店に勤めている僕もその一人だった。
書店に勤めて三年目。僕が担当している本のジャンルは雑誌とムック本だ。各出版社から販売される週刊誌はどれも巨大動物の話題ばかりなのに、飛ぶように売れた。今年の3月に発売された週刊誌の販売数は前年の売り上げを軽く超えてしまった。これは雑誌の売り上げだけれど、ムック本はさらに凄かった。
三月半ばにオカルト雑誌の「レムリア」で有名なレムリア出版社から「都市激震! 巨大動物の足跡」というムック本が発売された。本のネーミングセンスは残念かもしれないが、販売前の予約だけで四十冊を超えた。この予約数を考慮して店頭に並べるのであれば最低でも百五十冊はほしい。ムック本の希望数を出版社に提出したにも関わらず、実際に入荷したのは八十冊。予約分を差し引いて店頭に平積みした四十冊はたったの二日で売り切れてしまった。
追加注文を取ろうとしても、出版社側は重版未定が二週間も続き、再入荷したのは四月に入ってからだった。
本日、ゴールデンウィーク三日目。僕は例のムック本の在庫数を確認する。平積みにされた「巨大動物の足跡」は九冊。昨日までは十二冊あったのに、たった一日で三冊も減っているのは驚異的な売り方だ。そもそも、うちの書店は渋谷駅近くにあるとは言っても、主な客層は社会人ばかりなので、大型連休ともなると売り上げはすこぶる悪い。さらに週刊誌は先週に合併号が発売されているので、本屋に立ち寄る人も少ない。こんな悪条件が重なっているのにも関わらずこのムックが売れ続けるのは驚異ともいえる。
このペースだとゴールデンウィークが終わるころには売り切れてしまうだろう。しかし、ムック本を注文しようにも連休中は出版社だけでなく、運搬業社も休業している。連休明けにもう一回注文してみようかと算段していると真横から「ちょっといい?」と馴れ馴れしい口調で声を掛けられた。
声の主へと体を向けると赤毛の白人女性が立っていた。たぶん、僕と身長差がないくらいなので百七十センチくらいはあるのだろう。黒のジャケットにインナーはストライプシャツで合わせて、スキニーパンツで足の細さと長さが強調されている。右腕にはハンドバッグを掛けている。
顔の小ささと体型の良さはまさしくモデルだった。女性ファッション誌でストリートスナップされてもおかしくない容姿。本当にモデルなのかもしれない。そう思えるくらい綺麗な女性だ。この書店に勤めて数年経つけれど、女性客に見惚れたのは初めてかもしれない。
まず容姿の良さに驚き、日本語で話しかけられたことに困惑していると、外国の女性客は「お!」と割と大き目な声で僕を指差した。
「見つけた!」とまた流暢な日本語。
いまどき日本語がうまい外国人は多い。ただ、その意味が解らなかった。
「日本語は普通に喋れるから構えなくていいよー。どう、驚いた?」
ええ、まぁと適当に相槌を打つ。僕が驚いたのはあなたの語学力ではない。見つけたと言った意味を知りたかった。こちらの言わんとする事を理解したのか彼女は僕が身に着けているエプロンに付けられた名札に指をさした。
「井上さんでしょ? 井上優太さん」
見知らぬ外国人女性に自分の名前をフルネームで呼ばれてかなり面食らった。職場では書店員同士で名前を呼び合うけれども、知り合いでもない、しかも外国人のお客に自分の名前を呼ばれるのは居心地の良いものではない。
「あれ、違うの? 他にも井上さんっているわけ?」
「いいえ、うちの書店で井上は自分だけです。あの、ご用件は?」
この人は僕を探してはいたけれど、実物の僕を見るのは初めてのようだ。そして、僕の苦手なタイプでもある。お互いに初対面であることは確かなのに、馴れ馴れしく話し掛ける人は好まない。外国人特有のものかもしれないけれど、苦手なものは苦手なのだ。
「ちょい待って。いま出すから」
彼女はハンドバッグか狼の絵が描かれた和製本を取り出した。工場などで作られた製本ではなく、明らかに手作りで作成された和製本だった。背表紙はタコ紐のような固い紐で結ばれているけれど、よく見れば縫い直した後が目につく。本の厚みも少なくて大きさは文庫サイズで原稿枚数の量からみて小冊子というほうが正しかった。
「これ、井上さんの本だから」と言って、僕に小冊子を差し出してくる。
「はい?」
僕の本だと彼女は口にしているが、手作りの小冊子に見覚えはなかった。いくら本が好きだからと言っても、唐突に差し出された本に手を出すわけがない。困惑するだけだ。おそらく、井上さん違いだろう。僕の名前は特別珍しい苗字や名前ではない。
差し出された小冊子を両手の手の平で包み込むように、また柔らかく押し返す。
「他の誰かとお間違いになられてはいませんか」
「でも、井上さんでしょ?」
「井上さん違いという意味です。自分はそのような本を所持したことも読んだ記憶もありません」
彼女は目をぱちくりしたかと思えば、遠慮なく僕の肩を叩き始めた。
「そりゃそうだよー。だって、この本はつい最近つくられたんだもの。読んだことも無いはずだってば。もー何いってんの」
赤毛の彼女は何がおかしいのか知らないが笑っている。ますます意味がわからない。なにより豪快なスキンシップが気に入らない。
「どのような事情があるのか存じませんが、その本を受け取ることは出来かねます。この本を渡しに来られただけでしたらどうかお引取り願えますか」
「あれ、怒ったの。ごめんごめん。悪気は無いんだって。というかさ? これ受け取ってくれるまであたし帰らないからね」
赤毛の彼女は悪びれることもなく、再び小冊子を差し出してきた。
「受け取れません。一体、誰から自分へ渡すようにと頼まれたのですか?」
「それはナイショ……かな?」
彼女は首を傾けて、頭の上にクエッションマークを浮かべながら語尾を上げた、ように見えた。
「ふざけないでもらえますか」
客でもない相手に懇切丁寧に対応する必要は無い。
「もう面倒くさいなぁ。いいからこれを受け取る」
僕の手に無理やり狼の絵が描かれている小冊子を押し付けてきた。
「いい? 絶対に読んでよ。それは井上さんの本なんだからね」
言うことを聞かない弟を言い聞かせるような口調で詰め寄ってきた。何を言っても無駄だなと根負けしてしまった僕は手にしている小冊子をエプロンのポケットではなくチノパンの後ろポケットに収めた。
「よしよし、良い子。じゃあ、あたしはこれでお暇するよー。じゃねー」
赤毛の彼女は軽く手を降って僕の前から消えた。普段から仲の良い友人にしている自然な別れの挨拶だった。
呆然と立ち尽くしていると、通路の死角から同僚であり先輩の鹿ノ倉さんが顔を出してきた。
「いくら暇だからといって、仕事中に呆けていたらダメだよ」
「すみません、ちょっと変な人に絡まれてしまって」
「え、クレーム?」
鹿ノ倉さんの表情が曇る。本を売る職業も立派なサービス業。店側に不手際が出てしまうと後々になって面倒になる。
「そういうのとは違います。なんというか一方的に話しかけられて、満足して帰って行かれただけですよ。日本語の上手な外国人でしたけど」
僕の話を聞いて鹿ノ倉さんはそれならしかたないねと安堵した。
「そういえば、井上くんって変なお客さんに絡まれること多いよね。そういう人を引き寄せちゃうんじゃないの?」
笑いながら指摘される。否定しようにも、残念ながら事実だ。四月の終わりに出くわしたのは、中年男性のお客様から「あの本はどこだ」という問い合わせがあった。あの本と言われてもわかるはずもない。タイトルや著者名を教えてほしいと聞き返せば「しらん。だからあの本だ。本屋なんだから探せ」と言われたことがある。
他にも夕方近い時刻に起きたことだ。二十代半ばの男性客からこんな問い合わせがあった。大手レンタルショップチェーン店の営業時間を教えろという内容だった。うちのグループ店舗の営業時間を聞くならまだしも、うちとは全く関係のない店の営業時間など知るわけもない。しかも、東京都にある店舗ではなく埼玉県内にある店舗だ。おそらく埼京線にでも乗って埼玉へ向かうのかもしれないが、彼の問いをどのように解釈しようともうちの店で問い合わせる内容ではない。来店している以上、客は客なので丁寧に存じ上げませんと言えば「なんで知らないんだ! おかしいだろ!」と叫び怒りながらその男性客は出て行った。
こういう訳のわからない人と相対することが多々あるので困る。
質の悪い変な人はお断りしたいけど、面白いという意味での変な人は嫌いではない。実際に仲を深めた面白味のある変な人もいるにはいる。
あの赤毛の女はどちらだろう。馴れ馴れしい人かもしれないけど、話した感じでは悪い人とも言えない。
鹿ノ倉さんとしばらく雑談した後、午後のレジ点検をしてほしいと告げてから、自身が担当している文庫コーナーへ足を向けた。再び一人残されたので雑誌の目測や棚整理の作業に戻ると、後ろポケットに仕舞いこんだ小冊子の厚みが気になり始めた。
小冊子を収めたポケットに触れる。僕の本という言葉が思い出される。どういう意味なのか、気になり始める。あの赤い髪の女の言う通りに小冊子を読むのは癪だけれど、好奇心に抗うことは出来なかった。
狼の表紙絵が描かれている小冊子を取り出してページを捲る。表紙裏である二ページ目には幾何学模様に似たレリーフが描かれている。この絵も物語に関連する装丁なのかもしれない。続いて見開きの左にある三ページ目には『音読解読』という表題が大きく明記されていた。韻を踏むタイトルはそこまで珍しくない。個人的には惹かれるタイトルなので続く内容を読みたくなってきた。
さらにページを捲ると表題の裏にあたるページに目次は無く白紙だった。視線を次のページに向けると本文が書き出されていた。冒頭を読む限りではこの小冊子は小説だった。同人小説だろうと考えながら文章を黙読していく。が、ある一文を読んで背筋に冷たい線が上から下へと渡り、両手で小冊子を勢いよく閉じた。
小冊子を両手で挟んでいる姿は滑稽に見えるかもしれないが、しかしあの文章を読んだ僕はからすると仏とか神といった神秘的な何かに拝みたい気持ちでいっぱいだった。
僕はあの一文を再確認しようと小冊子を開いた。読み間違いという可能性もある。僕は同じ文章を黙読する。小さい溜息を吐いて、今度はゆっくりと小冊子を閉じた。
こんなことが起こるのか。
これまで何百冊という小説を読んできたけれど、こんな経験は初めてだった。
小冊子の物語に描かれていた主人公の名前は「井上優太」と記されていた。僕の名も井上優太。同音同姓同名だ。全身に広がった鳥肌はさすがに治まったけれども、内面を掻き乱す風は止みそうになかった。
赤毛の彼女が言っていたことは嘘ではなかったようだ。
昼を過ぎてもレジに訪れる客は全くというほどいなかった。平日のこの時間に来店する客は近辺の会社から休憩時間を利用して訪れる人で溢れるのに対して、祝日の今日は雑誌を立ち読みに来店する人すら訪れなかった。そのおかげで普段なら十五分程度は費やすレジ点検も五分と経たない内に終えた。
現時点での売上は、口にできないほどの悪さだった。アルバイトの雨野さんが休憩からレジに戻ってくるまでの一時間ほどある。来客がないのなら、このままレジで小冊子を読んでしまおうかと思わせるくらい暇だった
もちろん、そんな職場放棄をするわけもなく、やるべきことはきちんとこなした。出版社から届いた今後販売される予定の雑誌注文ファックスに加えて雑誌売上げデータの確認とその注文。流れ作業のためか頭の片隅にはやはり後ろポケットに仕舞いこんだ小冊子が気になっていた。手にしていたファックスの内容を流し読みながら、しかし実際のところは『音読解読』の冒頭を思い出していた。物語の季節は二月下旬の冬。粉雪が舞う公園で主人公の井上優太がいるということしかわからない。
『音読解読』に登場している僕の身に何が起こるのか、始まるのか、空想し妄想したけれど、明確な続きなどわかるはずもなく、ただ悶々とした気持ちでファックス用紙を眺めていた。
「ジャンル別のデータ出してもらえるかな」
驚いて顔をあげると鹿ノ倉さんが立っていた。話しかけられるまで彼が近づいていることに気が付きもしなかったようだ。僕は言われた通りにレジを操作してジャンル別データを印刷した。
データに目を通しながら鹿ノ倉さんは軽い溜息を付いた。溜息を付きたいのは雑誌を担当している僕も同じだ。売れ行きが好調のコミックは別としても、昔と比べて今は本が売れない。連休に入りさらに売上は落ち込んでいる。
「連休後にはライトノベルの販売が控えているし、悲観しなくても大丈夫ですよ」
「問題はそのラノベなんだ。前年の今は深夜に放送していたアニメの影響があって原作ラノベが馬鹿みたいに売れていたけれど、今期のラノベ原作アニメは不作で全く売れてないんだ。それに今月販売されるラノベなんてビッグネームは一つしか無い。厳しいよ」
ライトノベルは中高生向けの娯楽作品ではあるけれど、うちの書店でライトノベルを購入していく客層の八割は二十代から四十代といった社会人が占めている。新刊発売日には五冊まとめ買いという人もいる。しかしそれはネームバリューのある続編が販売されていればの話しであって、同じ続編でも認知度の低い作品や新人作家の新刊は減りが鈍い。鹿ノ倉さんが言う通り、アニメ化によるヒットもあれば、さらなる売上が見込めるのだがいま放送中のアニメ化されたライトノベルはことごとく滑っている。原作が悪いのか、アニメが悪いのか、それは言及できないけれど。
「井上くんのほうはどう? 週刊誌や月刊誌はどうにもならないかもしれないけど、ムックはそこそこ良いんじゃないの?」
「ムックに関してはそれなりにいいですね。巨大動物も事前注文して正解でした。月刊誌に関しては連休明けには女性誌と男性誌のファッション誌が控えていますから、なんとかなりますよ」
「昔に比べると雑誌の入荷数は減ったけど売れるように展開していかないとね。それにしても、巨大動物がいまだに売れるのは驚かされるね。こんなロングランでヒットするムックも珍しい」
「いまでも動画投稿サイトでは人気みたいですからね。もう三か月も経つというのに熱が冷めないのもすごいですよ。僕がよく見るのは大空を舞う鳥でしたけど、あれは鷹なんですかね。あと、黒っぽい動物を撮影していた人もいたな」
「テレビなんて一ヶ月くらいこのネタを引っ張ったけど、あの巨大動物の一件でみんな騒いで面白かった。俺なんて数十年ぶりにテレビでオカルト系の特番放送されているのを見たよ」
腕を組みながら鹿ノ倉さんは昔を懐かしみながら小さく頷いていた。僕は鹿ノ倉さんの世代ではないので、よくはしらないけれど、昔のテレビでは幽霊や超能力を取り扱ったテレビ番組が多かったらしい。
「実際に目撃した人の中には、動物の上に人が乗っていたとか言ってましたけど、本当だと思います?」
「あれくらいでかい動物の上になら人くらい乗せられるかもしれないけどさ。実際に乗ろうと思っても怖くて乗れないよ。鷹や狼は肉食だよ? 一口で食われるって」
そうですよねと相槌を打った。そこから話は変わり連休の過ごし方の話をちょっとだけした。鹿ノ倉さんは学生時代から付き合っている彼女と箱根に小旅行へ出ると話してくれた。僕はというと、アウトドアの趣味もなければ彼女すらいないので、大人しく家で読書に勤しみますとだけ答えた。ちなみに僕が明日から連休でその後に鹿ノ倉さんの予定だ。祝日は明後日までなので、鹿ノ倉さんは小旅行のために人の少ない平日連休のほうが助かると言っていた。僕らよりも先に連休を取ったのは店長の関澤さんだが、あの人にどんな趣味があるのかは知らない。
「それで五冊も文庫を買ったの? さすがに二日で読み終わらないでしょ」
「五冊は無理ですけど、二冊くらいは読み終えるつもりです。それに一気に読んだら、それは読書を楽しまずに、読み物を消化するだけみたいで嫌じゃないですか」
それは言えるねと鹿ノ倉さんは苦笑いをしてレジから離れていった。
ほどなくして、休憩から戻ってきた雨野さんとレジを交代してバックヤードに戻り休憩に入った。
バックヤードは書店員スタッフの控室であり出版流通便から届く入荷本が置かれる場所でもある。いまは連休中で荷物はないのだが全長十メートルで幅一メートルほどしかないバックヤードでは、荷物がなくとも人が四人以上は居られない場所だ。バックヤードには最低一人いることになっているので、今は僕一人だ。
スタッフ用の荷物置き場ラックに解いたエプロンを放り投げて、僕が普段から身につけているデイバッグを眺めた。中身は読みかけの文庫とお手製のお弁当だ。
一人暮らしなので朝早く起きて弁当を作ったのは僕だ。故に弁当箱を開ける楽しみがない。おかずは玉子焼きとウィンナーに小松菜の煮浸しと昨夜作ったキノコと人参の炊き込みご飯。料理はそれなりにできるが、料理が出来たからといって得意とすることではない。
料理の出来る男は女性のモテると言われているが、都市伝説ではないのかと最近は疑っている。いや、疑うのではなくて認めるべきは自分の容姿かもしれない。
自分の容姿はともかく弁当を作るのも恋人を作ろうともしないのも、書店員の安月給では自分の生活で手一杯なのだ。自分以外の誰かに何かをしてあげられる余裕などない。
今の生活が辛いと思うことはある。給料の多い職業に転職して余裕のある生活を求めてもいい。けれど、僕はそうしない。環境を変えようとする意志も勇気もない。いまある現状をそのまま受け入れ、変化する生活とその日常を恐れて何もしない自分に失望しまた面白くもない毎日を過ごしている。さらに言えば、現実なんて面白くなくていい。
楽しむための娯楽は私生活にではなく本の中に求めている。本の中で繰り広げられている世界は自由だ。広大な大陸をまたにかける冒険、素敵な女性との恋愛だってある。物語によっては異性になることもできて、名探偵になってトリックを暴き、心霊現象や恐怖体験もできるし、宇宙にだっていける。非現実的世界だけではない。本の中にはいまの僕には得られない平凡な日常だって存在している。どちらかといえば、普遍的で何事もない描写の日常に面白みがあってこちらのほうが好みだ。僕の乏しい読解力でも文章から浮かび上がる世界を想像さえすればいい。作られた物語があれば僕の生活は満たされる。
小冊子に描かれている狼の絵を眺めた。同姓同名の彼がどのような日常を送ったのか、知りたい。
誰もいない控室で『音読解読』を読み始めた。
小冊子にまとめられたページ枚数はおよそ十五枚。物語はほぼ会話劇でテンポよく進んでいった。途中、空腹感に煽られたが、読む手を止めること無く最後まで読み上げ小冊子を閉じて、物語の内容を整理した。
物語は夜の公園で自作紙芝居を披露していた井上優太が園内で駆け逃げている石田桜子を目撃したところから始まる。追手は佐藤カゲミツと双子の渡部ヨウコとユミコの三人。
他人のトラブルに喜んで首を突っ込む優太は桜子を追手から助け共に逃げ出す。
物陰に隠れ、追われている理由を聞くと桜子は本を盗んだからと告げた。警察も関与しないところを見ると、訳ありの本であることは確かだった。
ここで桜子は優太と別れるつもりだったが、追ってきた佐藤と渡部姉妹に捕まり痛めつけられる。佐藤は弱った桜子から本を奪い返す。ところが桜子が口にした「原本」という言葉に逆上し必要以上に傷めつけた。
女を殴り続ける佐藤を許せなくなった優太は押さえつけていた双子を振り払い佐藤に殴りかかるが返り討ちに合う。
攻撃対象が優太に移ったことを好機と考えた桜子は本を奪い返そうと手を伸ばしたが、本を上手くつかめずに地面に落とした。
朦朧とする意識の中、優太は地面に落ちた本のページに狼の絵が描かれていた。思わず狼と口にしてしまうと、本から巨大な狼が現れて佐藤、渡部姉妹を払いのけた。狼は優太と本を拾い上げた桜子を口に咥えて公園から駆け去っていく。
本文の最後には《続》と書かれて締められていた。本から出てきた狼に乗って終りでは消化不良すぎる。僕はこのあとに続く物語の情報があとがきに書かれていると思って、さらにページを捲ると書かれていたのは二冊目の小冊子の手がかりが文章で記されていた。
「二冊目は弁天から受け取れる。
彼女と会えるのは狼が現れた公園にあるお堂。
二十時から二十二時の間にお堂で待てば彼女から話しかけてくれる。
この時間以外にお堂へ訪れても彼女は話しかけてくれない」
どうやらこの小冊子小説は三ヶ月前に起きた巨大動物の事件を元にして書かれたものだった。本から巨大な狼が出てくるのはありきたりだけれど現実に起きた事件をこのように脚色するのは面白い。ファンタジーの色が強いけれど普通に考えれば巨大な動物が誰にも目撃されず突然あらわれることはありえないのでいい発想だ。登場してくる人物たちも破天荒で面白い。けれど文章力にほとんど面白みが感じられないのは残念だった。
文章は別にしても物語の展開の速さと、続きの小冊子を読者に探させる試みは面白い。こういうのは同人誌の即売会でもお目にかかれない演出だ。普通の読者、とくに普段から本を読まない人からすれば面倒くさくて探したりしないだろう。僕は続きがあるのなら、そして物語が面白ければ続きを必ず手に入れて読みたい。探せば読めるのならいますぐにでも、と言いたいところだが巻末には二十時から二十二時とある。まだまだ時間には余裕があるのでいちど帰宅してから公園に向かえばいい。
ここで問題となるのは二冊目の小冊子を渡してくれる弁天がどの公園で現れるのか、かもしれないけどここも見当はついている。巨大な狼が一番初めに目撃されたのは吉祥寺近辺といわれている。さらに公園ともなると弁財天が祀られているお堂があるのは井の頭公園だけになる。
二冊目の小冊子はこれで解決だが、もう一つだけ分かった、というより気づいてしまった点がある。それは『音読解読』を書いた著者だ。著者名こそ書かれてはいないが僕の名前を使い、こんな奇抜なことを考えて実行する人物を一人だけ知っている。そして小冊子に描かれた本当の主人公である人物だ。
この『音読解読』の井上優太と現実の僕とでは性格も違えば職業も違う。そもそもこの井上優太は僕じゃない。夜な夜な人気もなくなった公園で自作の紙芝居を披露して、厄介な出来事に自ら首を突っ込んでいく迷惑なこの性格は友人、石田春生だ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『科白空白』狼の小冊子 その一は如何だったでしょうか。
楽しんでいただけたのであれば嬉しい限りです。
今後の更新ですが、リライトが終わっているところまで毎日更新します。
今現在も、前作品のリライト作業中です。
完結予定としては、4月中旬としています。
それでは、今後もよろしくお願いいたします。