冬之助サエを押さえる
「 良く降るね」
傘を差された矢野様が、店の角からひょいとこちらを覗き込むように現れた。
「 まあ、びしょ濡れじゃありませんか。早く中に・・」
連日蒸し蒸しとし、雨が降ってばかりだ。
矢野様の傘を差していたとも思えぬ様子に自然に迎えることが出来たが、以前の様に腕を引こうとして手を止めた。
そうだ、気安く触れてはならない。この方は男の人だ。
矢野様は宙を彷徨った私の手に一瞬目を留められたが、気にするなとでも言うように、私の目を見てにっこりとされた。
私が気まずさを心配する必要など無いほどに、矢野様は大人だった。
「 ごめん、何か拭くもの貸してくれる?」
ぼんやりしていると、矢野様が申し訳なさそうにおっしゃった。
「 あ、ごめんなさい!はいどうぞ」
慌てて手拭いを手渡すと、ありがとうとほほ笑まれてからぐっしょりと濡れた水の滴る髪を拭い始められた。
「 傘を差してらっしゃって、どうして髪の毛まで濡れてらっしゃるんです?」
綺麗な男性が濡れた身体を拭っていく様子を黙って見ておられず、お茶の用意をしながら声をかけた。
「いやね、善太郎がね、」
兄さんを名で呼ばれたことにも驚いたが、それより問題は矢野様が濡れていらっしゃることに兄さんが関係していることだ。
「 また兄さんが何か?」
矢野様は笑いながらおっしゃった。
「 いや、今日は失礼なことではなかったんだよ。丁度善太郎が木から降りられなくなった子供を助けようとしている所に行き会ってね。傘を差している訳にもいかなくて」
息を飲んだが、矢野様がこうやって笑っていらっしゃるので、子供は無事だったはずだ。
「 その子は?」
「 ああ、大丈夫だよ。善太郎が無事に降ろしたからね。心配ない」
「 ああ良かった。・・・・それにしても、あの兄が人助けをするなんて。誰か人の良さそうな方を見つけて押し付けるのが普通なのに」
首を捻っていると、美人さんが目を細めてくすくす笑いながらおっしゃった。
「 善太郎の普通だね?有りそうなことだ。今日の子供は君のお友達の弟さんだったようだよ。彼女が善太郎に助けを乞うたんだろうね」
木登りするくらいの年の弟がいて、兄さんを引っ張り出せる友達といえばサエに違いない。
「 夢屋の近くに川があるだろう?あの川に差し掛かる枝の上で動けなくなっていてね。雨で増水していたから危なかったんだ」
「 まあ、そうですか・・・」
サエのお母さんは早くに亡くなっているが、おじさんと、また不運にも早世なさった後妻さんの間に出来た可愛がっている弟がいる。
あの子が危ない目に遭っていたのなら、サエはきっと半狂乱だったろう。
「 私の友達は大丈夫でしたでしょうか?」
矢野様に尋ねると、質問の意味を分かってくださった様で苦笑いでおっしゃった。
「 ああ。大丈夫だと思うよ。大分取り乱していたけどね。木に登っていた本人も、木の上から自分のことよりも彼女のことを心配していたよ。弟が無事で、安心して腰が抜けた様だったから、善太郎がおぶって行ったよ」
「 ああ良かった。サエのことだから自分で木に登ったり、騒ぎすぎて失神したりしたのではないかと・・・」
ほっと息をつく私に、矢野様がくすくす笑いでおっしゃった。
「 確かにね。彼女こそ興奮のあまり川に落ちてしまいそうな様子だったからね。彼女を押さえるために、私が呼び止められたんだ」
「 やっぱり・・・・・。二人とも無事で良かった。有り難うございました」
頭を下げる私に矢野様がおっしゃった。
「 礼は善太郎に言うべきだよ。煩くて鬱陶しい時も多いが、君の兄さんは良い男だね。彼も危なかったんだ。私にはきっと出来なかったよ」
そうおっしゃったが、私には矢野様も同じように子供を助けに行かれると確信できた。
矢野様は一通り身体は拭ったと判断されたようで、ありがとうと手ぬぐいを戻されたが、まだ髪も着物もしっとりと濡れお顔やお身体に張り付いていた。
「 大丈夫ですか?このままでいらっしゃっては風邪をひかれるのではないですか?」
蒸しているとは言え陽も無く、風が吹けば肌寒くすら感じる。すぐに冷えてしまわれるのではないかと思った。
しかも私の目の毒だ。
ただでさえ、雨の所為で狭い店内に押し込められ距離が近いのだ。
その上こんなに濡れて身体の線をあらわにされていては、嫌でも男の人だということを再確認させられてしまう。
動悸で息が詰まりそうになり居た堪れなさを感じていると、それを感じ取られたのか敏い矢野様がおっしゃった。
「 今日はここに来るのは諦めたほうが良かったかな?」
困ったような笑顔でおっしゃるので、あわてて言った。
「 いいえそんなつもりでは。いらして下さって嬉しいです。けど、冷えていらっしゃるのではないかと心配で」
矢野様がとても嬉しそうなお顔をなさった。可愛い。
「 心配してくれて有り難う。でも大丈夫だよ、手をかして」
にこにこして楽しそうな様子につられてつい手を差し出すと、矢野様の手が私の手を捕まえた。
「! 何ですか?」
「 全く問題ないって証明出来るかと思ってね」
矢野様が私の目を覗き込みながらいたずらに尋ねられた。
「 どう?もうしばらくここで話してても良い?」
矢野様の意外に大きく骨ばった手はとても熱かった。
「 冷えてはいらっしゃらないですね」
驚きはしたが、焦りもせず憤りもせず、笑顔でそう言ってさり気なく手を抜いた私に、矢野様が少しがっかりしたお顔でおっしゃった。
「 何だ。赤くなってはくれないの?」
私は赤くもたどたどしくもならずにすました笑顔で答えた。
「 私、こんな風にしてくる男の人には反応しないように出来てるんです」
矢野様が誰彼構わず言い寄る軽い男にみえたのだ。
先程までの動悸や戸惑いが嘘のように、自分でも驚くほど平静だった。
しかしこれが矢野様の本質だったら、などとは最早頭を過ぎりもしなかった。
すっかりと矢野様に絆されている様だ。
矢野様が実際に性質の悪い男であったなら、私はもうすっかり騙されている。
何とは無しに世の悪い男達に負けた様な気がして、そんな自分が少し情けなくなった。
矢野様は久々にあははと声を上げてお笑いになった。
「 そうか。私は女だと思われていたおかげで、君の可愛らしい姿を見られていたんだね」
からかわれて赤面していた色々を思い出して恥ずかしくなり、結局赤くなって、人の悪い矢野様に笑われた。
「 兄さん!サエは?」
兄さんが帰宅したところを捕まえて確認した。
「 ああ。大丈夫だ。腰は抜かしてたけどよ。それにしても、なんだってあいつはあんなに煩せえんだ・・・」
兄さんは珍しく疲れた様な表情で言った。
兄さんにこんな顔をさせられるのはサエだけだろう。
第一、人助けを頼もうって言うのにこの兄さんを選んで、しかも動かすことが出来るのはサエしかいない。
もしかすると私でも大丈夫かもしれないが、とにかく、サエは兄さんにとって私と同じ実の妹の様なものなのだ。
「 良かった。二人とも無事で」
「 おう。坊主が川に落ちでもしたら、俺がサエにぶっ殺されてたところだ・・・・」
「 うん・・・・。三人とも無事でよかったね・・・」
「 あいつがお前んとこ行ったんだろ?」
「 ええ。びしょ濡れでいらっしゃったわ。風邪ひかれたんじゃないかしら?」
濡れて色気を振りまく矢野様を思い出しながら言った。
「 あんな格好で長く居たのか。いい年して阿呆だな相変わらず」
「 早く帰ってお着替えになられるよう何度も言ったんだけど・・・」
その度ににこにこして私の言葉を無視なさったのだ。
「阿呆につける薬はねえな。お前あいつの阿呆がうつらねえよう気をつけろよ」
「 ・・・・」




