転機
窓一つない室内は虚空に開いた穴から零れる無数の煌きによって照らされていた。
内部にはそこがあたかも一つの宇宙であるかのような幻想的な景観が際限なく広がっている。
その境目からずるり、と1本の腕が生え出てきた。
細く枯れた腕には無数の血管が浮かび上がり歪な肌の上を不気味に蠢いている。
続いて足が、胴が、頭が現世に形を結ぶ。
整えられていた白髪交じりのオールバックは乱れ、白に多少の赤を垂らした様な髪色に変わっていた。
何かを確かめるように深呼吸を繰り返してから四肢をゆっくりと動かす。
「準備は整った」
何も問題がなかったのか、彼は未だ開き続ける穴に向かって途端に恍惚の表情を浮かべた。
「これより世界は愛で満たされる」
日曜日の早朝、まだ朝靄が残り町が目覚めていない時間、ここからやや離れた場所に強大な魔物が出現した。
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『光輝、起きろ!』
突然巨大な魔力を感知したサラマンダが現世に顕現し光輝の腕に鰐に似た大きな口をぱかりと開くと遠慮の欠片もなく齧り付いた。
長年一緒にいるなかでサラマンダもどうすれば光輝が目覚めるかを熟知している。即ち、力技による実力行使。
途端に泊まっていたマンション内に響き渡るほどの奇声を発しながら光輝が飛び起きた。
別室では優衣と香澄、香奈も魔力を感知して目を覚ます。
普通魔力は探知の魔法を使わない限り感知できない。にも拘らず、今朝方出現した魔物は全方位に向けて尋常でない魔力を放出し続けていた。
発信源の特定など造作もない。というより、発信源を特定させたくてしているとしか思えない。
『誘われてるねー』
ナムが香澄に纏わりつきながら言う様に、エイワスが関わっているであろうことは予測できる。
しかしだからといって何もしないわけにはいかない。
「こういう時着替えなくていいっていうのは便利だよねー」
香奈と香澄が契約文言を唱えると姿を変える。一人だけ使いこなせない優衣は羨ましいと思わざるを得なかった。
準備を終えた優衣達がリビングに行けば、光輝と鳴が並んで立っていた。
光輝は既に契約文言を発動しているのに対し、鳴は寝巻のままでどこか苦しげな表情を浮かべている。
「朝ごはんの準備お願い。ちょっと体操してくるから」
それを察してか、優衣はまるで夏休みのラジオ体操に赴く様な気軽さで笑いかけた。
「大体なんで早朝なんだよ、もう少し寝かせろっての。この間も深夜アニメの時にさー」
「はいはい、ほら、行くよ」
アニメ談義になると後が長引くことをこれまでの経験で十二分に理解していた優衣が光輝を引っ張って玄関へと向かった。
香澄と香奈もその後に続く。
「なるくん」
と、最後に扉を出ようとしていた香奈が見送りに来ていた鳴に振り向いた。
2人の視線が重なってふっと音が遠ざかる。時間にしたら決して長くはない、けれど短いともいえない空白に鳴がどうかしたのかと口を開きかけた、瞬間。
「じゃあね」
香奈が不意に笑顔を作ってから出ていく。
ばたん、と扉が閉まる意外と大きな音が響く。鳴は呆然とした面持ちで玄関先から動けないでいた。
4人は玄関から外に飛び出した後、地上ではなく屋上を目指した。
身体強化を活用して軽業師のように道なき道を進んでいくと、今度は屋上から屋上へと飛んでいく。
道を歩くよりこうして建物を横断した方が移動は格段に速いのだ。
魔物の位置はそれ程遠くない。数分と経たずに現場へ駆けつけると三つ首の龍が4人を濁った計6つの瞳で睨みつける。
それぞれ白、赤、黄の鱗で覆われた長い首は形状が違っており胴体と繋がっている。
腕はなく、身体は黄金色の鱗が薄い太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
赤い首が4人に向けて咢を開く。距離からして噛みつける距離ではない、となれば。
香奈が水流の壁を作り出す方が僅かに早かった。想像通り口からは紅蓮の炎が迸ると壁とぶつかり合い水蒸気が立ち込める。
視界がきかなくなったのは優衣達にとって不利と言ってよかった。見えない場所から、今度は黄色の龍の瞳が妖しく輝く。
地面が一瞬揺れたかと思った刹那、槍上に硬化した土が全身を貫かんと恐ろしい勢いで隆起する。
だが、所詮は土くれ。優衣が到着と同時に展開していた、地面を保護する目的の結界が鋭利な切っ先を受け止め粉砕する。
水蒸気の発生が止まった。赤の首にも息継ぎが必要なのだろうかと場違いな思いが優衣に浮かぶが、すぐにその考えは否定される。
熱波が襲ってきて顔が火照るくらい暑かった大気が一瞬にして冷凍庫を開けた時に吹き出る冷気に似た様相を呈する。
気付けば水蒸気の向こうで白の首が息を吐いていた。属性は考えるまでもなく氷だ。
香奈の展開していた水流の盾が瞬く間に凍りつくと制御を失い地面へと落下するだけに留まらず、大気中に満ちていた水蒸気が集結し、鋭利な極薄の刃となって吹き荒れ始める。
魔力の籠った氷は薄かろうと鋼鉄並みの強度を持つ。そんな物が縦横無尽に襲い来かってきたのでは防ぐ術などない。
「任せろっ」
冷風が吹き荒れるのと光輝が手を合わせ火球を形成し空に向かって解き放つのは同時だった。
生まれた膨大な熱量が氷を融解させ水に戻すと香奈がコントロールして無害化する。
解き放った攻撃を悉く防がれ、3つの首が忌々しそうに吼えた。
地面を踏み砕くような重量感と裏腹にかなりの速度で巨体が駆け抜け、3つの首でもって前方にいた光輝と香澄、香奈に襲いかかる。
光輝は龍の攻撃を紙一重でかわすとがら空きとなった胴に向けて右腕を振り抜く。
「ってぇ!」
だが返ってきたのは異常に硬い感触。それどころか魔力で何重にも保護されているはずの腕が痛みさえ覚えている。
香奈が弓を作り出して身体に向けて射出する。圧縮された水の矢がど真ん中に吸い込まれるが巨体の猛進を僅かに押し留めることしかできない。
香澄も小柄な体躯を活かして避けざまに鞭を振るうが、生物にとって弱点になり得る電撃でさえ、黄金色の鱗は通さなかった。
「なら頭を狙うまでだっ」
光輝が龍へと足を走らせ直前で大きく跳ぶ。最中に手を合わせ火球を作り出すと曲芸染みた動きでうねうねと動き回る白色の首に向かって叩きつけた。
空を引き裂くような苦悶に満ちた鳴き声が木霊する。香奈も再び弓を引き絞ると赤色の首に向かって解き放つ。
直撃を受けて足を止めていた敵が高速で飛来する矢を避けられるはずもなく、開いていた口を貫く形で香奈の矢が突き刺さり、途端に膨大な水圧を解放した結果、頭その物がいとも簡単に砕け散る。
痛覚を共有しているのか、残っていた2つの頭が断末魔の声を上げた。
「頭は体ほど頑丈じゃない!」
着地した光輝が振り向き、未だダメージにふらついている白の龍の首向けて炎に包まれた拳を振るう。
触れた個所から膨大な魔力が溢れ爆散し、頭と首を一緒に吹き飛ばし黒い霧に変える。
残った最後の首が怒りに狂うが、その頃には香奈によってきっちり照準されていた。飛来した矢が目に突き刺さり赤の首と同じ末路を辿る。
全ての頭を失った事で巨大な体躯が音を立て崩れ落ちた。
「やったの?」
香澄が動かなくなった下半身を見やる。
「それはやってないフラグだな」
フラグ、という言葉に香奈と香澄が首をかしげるが解説している暇はなかった。
普通、魔物は倒せば吹き飛ばした身体の一部だろうと毛の一本に至るまで影も形もなくなってしまう。
だがこの龍はまだ胴体が残ったままで消え失せる気配がどこにもなかった。
「気をつけろ、まだ終わってねぇ」
その言葉に反応してか、魔物の首の先が泡立ち始めた。
粘着質な音が断面から響くなり、ずるりと骨が突き出てあっという間に頭蓋を形成する。
間髪入れずピンク色の細長い繊維の触手がぐじゅぐじゅと絡んだかと思えば筋を、肉を形作り最後に皮膚から鱗が生えてきた。
「うぇぇ、きもいー」
傷が高速で回復する過程をまざまざと見せつけられ香奈が口元抑える。見ていて気持ちのいい光景とはいえないだろう。
「言ってる場合か! 再生しやがったぞ!」
巨大な体が再び立ち上がる。
頭には先ほどと同じ3色の頭がゆらゆらと揺れていた。殺されたことを覚えているのか、赤と黄の首は香奈を、白の首は光輝を憎悪の籠った視線で射抜く。
香奈が先手必勝とばかりに再び矢を放った。赤色の首は避ける事もせず、中心を貫いた矢が再び爆散する。
再び生理的嫌悪を併発させる粘着質な音が響き、にちゃにちゃ肉が絡み合ったかと思えば数秒後には何事もなかったかのように首が鎮座していた。
「なんか脆すぎるとは思ったんだけど、まさか超再生能力とはー」
首を倒しても無駄。本体は黄金色の鱗に包まれた下半身の方なのだろう。
再生にだって魔力は使うだろうから首を切り倒し続ければいつかは死ぬ。しかしここに来る道中発散していた桁違いの魔力を考えると現実的な案とは言えない。
優衣達4人には魔物のような超再生能力がある訳ではないのだ。攻撃を受けて傷つけば動きは格段に鈍るだろうし、何より魔力が持たない。
「やっぱり胴体を倒さないとダメみたいですねー」
光輝の本気の殴りも、香澄の電撃も、香奈の矢も通じない胴体をどうやって倒すか。
光輝は近接型の魔法使いだが、威力よりも速度を重視している節がある。
拳と言う、連続攻撃を前提とした武器からも分かる通り、大剣を使っていた影人よりも攻撃の重さは格段に劣っているのだ。
香奈は水の性質として広範囲をカバーする事は得意だが1撃を重くするのは苦手だった。弓による射出も威力は光輝ほど高くない。
香澄の魔法は未知数だが、何分まだ魔法の基礎くらいしか触れておらず発展途上だ。3年の経験を持つ光輝や香澄と同威力を求めるのは酷だろう。
「優衣、あれを切れるか?」
となれば可能性があるのは優衣だけだ。
かつてまだ光輝しかいなかったとき、小型化したすばしっこい猫型の魔物を自身の頑強な結界に閉じ込めた上で切断せしめた優衣の剣であれば鱗を切れるかもしれない。
「やってみる」
光の粒子が集まって一つの形に収束していく。透き通るほどの薄い剣が煌きながら手に収まった。
光輝からすればできる限り使いたくない手段だ。
優衣は契約文言を使うと魔力が強化される事で魔法が不安定になってしまう。
下手に暴走させようものならあの百貨店に出来上がった奈落の穴の二の舞だ。
こんな市街地の道路を掘ることも怖いが、方向が下ではなく水平に広がったりしたらどのくらいの被害が出るのか。想像すらしたくない。
他の3人が纏っている様な外装なしの生身では魔物の攻撃かするだけでも危うい。
幾ら身体強化があったとしても怪我で済めば奇跡だろう。
「俺達で動きを止めて合図を送る。やばい時はちゃんと守る。だから安心してぶった切ってこい」
「うん、わかった」
光輝と香奈が同時に魔法を発動させる。白と赤の首が吹き飛ぶのを見計らってから、残っていた黄の首に飛びつくなり力で無理やり抑え込む。
離せとばかりに首を振るが光輝は少しも譲らない。そこへ回復の終わった白の首が強靭な顎を開き噛みつかんと迫った。
「させないよー」
香奈が作り出した水流が顎に、首にぐるぐると巻き付いて動きを止める。逃れようと暴れるが口を開けない状況では冷気のブレスも吐きようがない。
続いて赤の首が再生し、まとわりつく水に向けて自損覚悟で口を開く。
しかしいざ息を吸い込んだ瞬間、背後に回っていた香澄が首に鞭を絡め力の限り引っ張った。
それぞれの首が動きを封じられた今なら優衣が近づいても防ぐ手立てはない。
駆け寄った優衣が剣を振りかざし、がら空きの胴を切り払うべく腕を振るう。その瞬間、龍の首が一様に笑った。
ずるり、と胴から4本目の首が姿を現す。
油断していた優衣は驚愕に固まっていて避ける事ができない。ゆっくりと流れる時間の中で光輝が4本目の首に手を伸ばす。
だが届かない。ぱかりと開いた顎が優衣に迫り、その身体を噛み砕く刹那、4本目の首が根元から穿たれ塵へと還った。
勝利を確信していた龍の顔が凍る。
「優衣!」
光輝の叫び声で我に返った優衣が全体重と強化された力で以って龍の腹に剣を振るう。
弾かれるような重い感覚が腕を伝うがそれも一瞬の事で、臨界点を超えた瞬間に剣はするすると魔物の体内に埋め込まれた。
後は剣を主軸に、いつか結界の欠片を爆散させたように剣先へと魔力をこめる。
ぼん、といっそコミカルな音が弾けると龍の胴体はいとも簡単に吹き飛んだ。そのままあっけなく、さらさらと空に還っていく。
「何とかなったな」
「4つ目の首は危なかったけど、あれって誰がとめてくれたの?」
初めが3つだったことから3つまでと思いこんでいたせいで、優衣も光輝も完全に出遅れてしまった。
もし援護がなければ今頃優衣が無事でいられたかは怪しい所だ。
「あたしも4つ目があるなんて思わなかったよー」
それは香奈も同じな様子で優衣が無事だったことに心底ほっとしている。となれば残るのはただ一人、香澄だけだ。
しかし視線を一身に集めた香澄は慌てて首を振った。
「私じゃない」
けれど、あの一撃は間違いなく誰かの魔法だ。もしや鳴が堪えきれずに来ているのかと辺りを見回すがそれらしき人影はどこにもない。
「あれはなるくんじゃないですよー」
きょろきょろと周囲を見渡していた優衣を見て何を考えているのか見透かしたのか、香奈が言う。
まるで、誰がやったかを知っているような口ぶりに思わず優衣は聞き返した。
「じゃあ誰が」
「あれはエイワスの物ですねー」
ぴたり、といつの間にか伸びていた水の刃が光輝と香澄にそれぞれ押し当てられても、誰一人身動くことはできなかった。
2人の命を危険に晒している魔法は香奈のものだ。もしほんの些細なミスで制御を間違えれば2人はいっそあっけないほど簡単に死ぬ。
冗談にしても性質が悪いが、誰もが香奈の表情からこの惨状が紛れもなく香奈本人の望むところであることを理解していた。
刃を押し当てられている光輝も香澄も固まるしかない。恐怖など感じなかった。それどころか何の感慨さえ抱けなかった。
何故香奈がこんな事をしているのか理解できない。
思考がフリーズした3人を順繰りに見て、香奈は朗らかな笑顔を作り出して告げる。
その場の誰もが望んだ冗談でした、という一言は希望的観測で終わった。
「あたしは初めから、向こう側の人間ってことですよー」
真っ先に反応したのは己の激情に従った光輝だ。だがその身体は別の水流によって絡め取られ動きを止める。
「動かないでくださいねー。それから優衣ちゃんはあたしと一緒に来てもらうから」
酷く現実離れした光景に、優衣はまだ動けないでいた。
正面に迫った香奈が手を引くと、視界の隅に苦しそうにもがく光輝が映ると香奈の手を振り払う。
混乱はしていても、もう思考は止まっていない。
「香奈はエイワスと一緒に何をするつもりなの」
「教えると思いますかー? 優衣ちゃんが何も聞かずにあたしと来てくれれば、この場は収まるんですけどねー」
「嫌って言ったら……?」
「そうですねー。2枚あるカードを1枚切ってみましょうか。こうくんとかすみん、"どっち"がいいですか?」
香奈の一言に優衣が信じられないといった様子で目を見開いた。
光輝と香澄はいつの間にか人質へと変わっていた。その上で香奈はこう言っているのだ。
人質が2人居ても意味はないから、1人を切り捨てた後にもう一度同じことを聞きますよ、と。
「結界を使うのはやめておいた方が良いですよー」
位置を正確に見極めてから展開する結界では押し当てられた刃が振るわれる速度にはどう足掻いても追いつけない。
何よりそんな危険な賭けは優衣にはできなかった。
「後の抵抗を考えると1枚は切っておいた方が良いですかねー。油断してる2人の後ろを取れるのなんてこれが最後でしょうからー」
呆然としていた優衣に追い打ちをかけるかの如く、香奈の視線が光輝に向いた。
魔法使いになりたての香澄とベテランの光輝、人質としての価値が同じだとしたら切るべきは残しておくとリスクの高い光輝だ。
「やめて!」
光輝に刃が振るわれるより早く優衣が香奈の腕にに飛びつく。
「あたしと一緒に来て、抵抗しないと誓ってくれるなら考えますよー」
にこりと、この場には全くそぐわない笑みの裏には拒めばすぐに殺しかねない程の気迫がある。
「誓うから2人には何もしないで」
躊躇う事のない優衣の言葉に満足したのか、振り払われた手で再び手を握る。
突きつけられた刃が身を掠るのも厭わずに光輝が暴れた。同時に香澄も覚悟を決めたかのように鞭を握りしめる手に力を込める。
「大変熱い所申し訳ないですけどー、こうくんの火はあたしと相性が悪いし、理論純水だからかすみんの電撃も通さないよー。成功すればハッピーだけど、もし失敗したらその後で優衣ちゃんが酷い目に会っちゃうかもねー」
主導権は完全に握られていた。どうすることも出来ず歯噛みするしかない。
「そういうわけだから、エイワス、いるんでしょ? さっさと運んで」
虚空に向けて香奈が叫ぶと空間の一部が揺れ動いた。何もない場所から染み入る様にしてエイワスが出現すると光輝と香澄が目を剥く。
ここにエイワスが居たことも驚くべきことだが、どういう理屈か白髪まじりだった髪が優衣の髪色を濃くした様な色合いに変わっている。
「……ふむ。入るといい」
エイワスは動けないでいる光輝と香澄を一瞥してから香奈を促した。
まず優衣が穴の中に入れられ、続いて香奈が吸い込まれるようにして姿を消す。同時に2人を拘束していた刃もただの水へと戻り、服を湿らせた。
「優衣をどうするつもりだ!」
「安心すると良い。殺しはしない。この世界を愛で満たす為に協力してもらうのだよ」
光輝と香奈が2方向からそれぞれ本気の攻撃をぶつける。だがエイワスの結界は砕けるどころか揺るぎさえしない。
「焦ることはない。すぐに優衣は君たちの元へと戻ってくる。後は好きなだけ関係を育むと良い。君が望むなら"彼女"はなんだってしてくれるようになる」
エイワスは高らかにそう宣言すると変わらない柔和な笑みを浮かべて一礼し、穴の中へと溶け込んでいった。
「ふざけんなっ」
光輝がまだ僅かに開いている穴に向けて火球をたたき込む。
だが届くより先に穴は消失し、足元のコンクリートを溶ろけさせるだけだった。
「サラマンダ、優衣はどこだ」
『すまぬ……恐らく妨害されているのだろう、皆目見当がつかん。この町である保証もない』
硬い物が砕け散る音がすると光輝の隣にあった塀の一部が貫通していた。
「光輝、物に当たっても意味なんてない。優衣を探すの」
「どうやってだ! どこに行ったかもわからないんだぞ!」
次の瞬間、鋭い蹴りが光輝の腹に突き刺さる。
身体強化されたうえで放たれた蹴りは、いかに身体強化された身体であっても痛いに決まっている。それが内臓ともなればなおさらだ。
呻き声と共に光輝が膝を追った。その襟首を容赦なく掴み上げた香澄が恐ろしい形相で揺さぶる。
「なら考えて。どうすれば優衣を見つけられるか」
嘆いても自棄になっても事態は好転するわけではない。取り乱した光輝を見て香澄はどうにか平静を取り繕っていた。
「つっても、2人だけじゃどうしようも……」
どうにかして鳴に頼んだとしても人数は3人。地球のどこにでも行きそうなエイワスを探すには無理がありすぎる。
「ナム、エイワスの使ってた魔法でどのくらいの距離を移動できるか分かる?」
『うーん……あんな風に空間をつなげる魔法は距離があるほど難しくなるんだ。だからどんなに頑張っても、この国の外に出るってことはないと思うよ。十数キロも移動できれば大したものだよ』
ナムの言葉を信じるならば優衣は都道府県の境目を超えていないかもしれない。
「なら人手を集める」
十数キロの範囲だとしても彼らには広すぎる。だとすれば人手を増やすしかない。
服装もそのままに香澄は記憶にある道を辿り始めた。光輝も突然走り出した香澄を見失わない様についていく。
「どこに行く気だ!」
「優衣の家」
エイワスが超越的存在だとしても、香澄や光輝が魔法使いだとしても関係ない。
優衣が目の前で攫われた。その事実と優衣の親の協力さえあれば警察は動かせる。
□□□□□□□□□□
「エイワスが最終準備に入ったようです。ターゲットが拉致されました」
龍との戦いを、香奈との顛末を、エイワスの誘拐を、その後走り出した2人の魔法使いを遠い屋根の上から密かに観察する一つの影があった。
肩までの髪が風に揺られて躍っている。優衣達と同じ制服を身に纏った少女は双眼鏡を降ろしてから携帯に耳を澄ませる。
「ご苦労。周辺の記憶の改変は完了しているな?」
「問題ありません。あのまま"教室"に通い続ける限り思い出すことはないでしょう」
電話の向こうから聞こえてくるのは単調な合成機械音で、内容を把握するのが面倒だった。
別に盗聴される可能性なんてないのだから普通に話せばいいと少女は思っているのだが、相手はそうではないようだ。
当然か、とも思う。なにせ少女は人の心を操る。
完璧な掌握とはいかないが、長時間関われば思う方向に相手を導く事など造作もない。
それが彼女の"魔法"でもあるのだから。
「これから勝手に拠点へ戻ります。構いませんか?」
「許可する。慎重に帰投しろ」
それっきり、電話はぷっつりと絶えた。長話一つするのさえ怖いのかと思うと笑いそうになる。
きっと電話口の上司は自分が少女をコントロール出来ていると思っているのだろう。
少女は今の上司が嫌いではなかった。
小心者で無能な上に、自分だけは対策をしているから大丈夫だと思い込んでいる。
対策といっても直接話をしないだけなのだから笑うしかない。
機械音声を通したくらいで魔法が防げると思っているのも実に小物っぽくて可愛らしい。
それが1から10まで少女に作らされた妄想だと気付く日は、恐らく永遠に訪れないだろう。
「言われた通り、"勝手"してから拠点に戻りますね」
小さな笑みを作って、かつてのクラスメートだった萌はまた別の場所へ連絡を入れ始めた。
「隠れるのが上手みたいですけど、居場所なんてとっくに掴んでるんですから」




