変遷
初夏の澄んだ夜空に人の手で作られた大輪の花が儚くも咲き誇った。
合わせて遊園地の中央にそびえる城を取り囲むように作られた池からライトアップされた噴水が迸る。
まだ雨水の混入していない水は底が見えるほど透き通っていて、空に舞い散る花の残滓を鏡の様に写し取っていた。
軽快な音楽が流れ始め、城の扉が開く。
色とりどりの電飾を施された大小さまざまな乗り物の上にはお姫様や魔女、騎士や小人、魔物に扮した人が手を振り、それを取り囲むように大勢の人が舞い踊りながら通路を歩いてくる。
閉演を迎える為の最後のイベントであるパレードが始まろうとしていた。
幻想的な光景に誰ともなく感嘆の息を漏らす。
今日は招待客のみしか集められていないから園内が混雑する様子はない。
パレードも初日に限って園内を練り歩くのではなく、特別なパフォーマンスを交えながら城の周辺を巡回する予定になっていた。
小さな子どもが楽しそうにはしゃぎながら手を振ると向こうも満面の笑みで手を振りかえす。
最後の一瞬まで楽しんで欲しい願いが詰められた部隊が集まった人々の心を否応なしに高揚させた、刹那。
世界が闇に包まれた。
園内の電灯が、華やかな電飾が一瞬の内に萎んで消える。
流れていたはずの軽快な音楽もいつの間にか途切れ、スタッフが突然の事態に慌てふためいていた。
「落ち着いてください、現在状況を」
スタッフの男性の言葉が最後まで届くより早く、身体が不自然に傾ぐとバランスを崩し地面に倒れ込む。
顔から崩れ落ちたというのに、男性は痛みに呻くどころか身動ぎ一つせずただ静かに横たわっていた。
近くにいた女性が恐る恐る男性を揺すって悲鳴を上げる。次の瞬間にはその女性が男性に折り重なるように倒れ、同じように動かなくなった。
集団が現実を理解するまでの僅かな静寂が終わりを告げると、割れんばかりの悲鳴が暗闇のテーマパークを彩った。
いち早くこの不可解な現実から逃げ出そうとした女性が右足を踏み出し地面に転がる。
それを呆然と見ていた小さな男の子も誘われるように崩れ落ち動かなくなった。
離れた場所から何事かと眺めていた優衣達が目の前で広がりつつある異質な光景に言葉もなく立ちすくむ。
悲鳴は徐々に小さくなっていった。逃げ惑う人々はドミノ倒しのように次々と倒れ、その誰もが、もがくことすらなくただ静かに折り重なっていく。
時間にして、お湯を注いで作るインスタント食品が出来上がる程度の間に悲鳴は全く聞こえなくなっていた。
「なんだよ、これ」
明かりが全て落ち、暗がりに沈んだ遊園地の硬い路上で千を超える人々が人形の如く転がっている様は悪夢としか言いようがなかった。
ほんの数分前まで彼らがパレードに魅入り感嘆の声すらあげていた事が信じられなかった。
香奈が近くに倒れていた人の様子を探る。
「生きてはいるみたい。息もしてる。でも意識がないよ」
生きているという言葉に優衣と香澄は安堵の表情を浮かべた。
「人を呼ぶ」
香澄がバッグの中から携帯を取り出して3つの数字を押し込む。けれど電話は一向に鳴らなかった。
「圏外だな。場内の電源が落ちた事でアンテナが死んだのか……」
忌々しそうに影人が携帯の画面を覗いた。優衣もつられるようにして携帯の液晶を見てみるが、パレードが始まった時には確かに3つ立っていたはずのアンテナは見る影もなく、圏外の二文字に塗りつぶされている。
「みんなで入口まで行った方がいいと思う」
助けを求める為に外に出るのが最善だという事は理解できたが、倒れている人を置いて良い物かと躊躇う様子を見せる光輝と優衣に影人が強い口調で言った。
「全員で行くべきだ」
5人だけ倒れず立っているのは何者かが故意に選別したか、もしくは倒れない理由があるかのどちらかしかない。
どちらにせよ人外の力が及んだとしか考えられないとなれば、誰がこんな事をしたのかは自ずと絞られてくる。
「闇より這いいずる絶望よ、世界を食らえ」
言うが早いか、影人は契約文言を口にする。光源の潰えた宵闇の中においても更に深い闇が身体を包みこむと長い布が風を切る音と共に背へ広がった。
「想いを炎に 願いを糧に」
影人が作り出した闇が光輝の契約文言によって照らし出される。身体を下から炎が昇るにつれて着ていた服も変化し、動きやすい簡素なズボンとパーカーに様変わりする。
最後に掌に灯った炎を握りつぶすと手甲が両の手を包み込んだ。
香奈と香澄が無言のまま頷き合う。
「渇望を潤す たゆたう水面」/「紫電の絆をこの胸に」
契約文言が折り重なるように放たれそれぞれの肢体を青と緑の燐光が包みこむ。
香澄が身に纏った薄紫と白のオーバードレスを払うと軽やかに揺れる。テーマパークと言う場所柄もあってか白から抜け出たお姫様そのままだ。ただし右手には武器である鞭を握っているが。
一方香奈は香澄と違って丈の短いシャツと弓を射る為の胸当て、それから動きやすさを重視した膝上のスカートにブーツとかなりの軽装になっている。
「それじゃま、入口まで行ってみますかー」
「いや、その必要もなくなったようだな」
普段と変わり映えしない口調に場の空気が弛緩するが、それもほんの僅かな一瞬に過ぎなかった。
強大な魔力が突然前方に吹き上がり警戒を強める。
「良い夜ですな」
何もない空間から染み出るようにしてエイワスが人垣の奥へと舞い降りた。
こんなことが出来る人間は彼をおいて他にいる筈がない。
「この人たちをどうするつもりだ」
いつでも飛び出せるように身構えた光輝が問う。
「なに、危害を加えるつもりはないとも。今しばらく夢の世界に旅立ってもらっただけだよ」
何のためにという疑問がせりあがる。
招待客が少なかったと言っても人数は千を遥かに超えていた筈だ。その全員を眠らせることに何の意味があるというのか。
「歪みが必要なのだよ。彼らは至福の時から一転し、今は悪夢に苛まれている。その落差が激しければ激しいほど人の夢は歪みを生み出すのだよ」
エイワスが手に持っていた本をかざすと月明かりが照らす夜空に不気味な穴が出現する。
まるで心臓の鼓動を思わせる不気味な脈動を続け、驚く事に刻一刻と広がりを見せていた。
何をしようとしているのかを理解して光輝と影人の顔が強張る。精神世界の穴が広がればそれだけ魔物の脅威は増えるのだ。
身構えていた光輝は地面を踏み抜き、爆発的な加速を経て接近する傍ら、もう何度も使い慣れた魔法を右腕に発動させる。
炎に包まれた腕が正確にエイワスに吸い込まれるが、彼の肌を焦がすより僅か手前、硬い感触によって阻まれた。
荒れ狂う炎が間にある結界を食い破らんと躍りかかるがエイワスには今一歩届かない。
「切り裂けぇッ!」
そこへ影人の気合の篭もった一閃が加わった。結界に打ち合わさった刀身が甲高い擦れた音を立て撓み、遂に砕ける。
エイワスが驚いた表情を見せて後方へ飛び退いた。
「まだ足りぬか。仕方ない、君たちにも今しばらく眠って貰うことにしよう」
本のページが独りでに開かれると燐光を発する。
光輝と影人がさせるものかと踏み込み結界を打ち抜くべく力をためた瞬間、嫌と言う程見せつけられた光景そのままに2人が崩れ落ちた。
「光輝!」
「なるくんっ!」
優衣と香奈が駆け寄ろうとした瞬間、香奈と香澄の視界が漆黒に包まれ優衣の目の前で崩れ落ちる。
唯一優衣だけが膝をつきながら、場違いな、それでいて耐え難いほどの眠気をどうにか耐え忍び目蓋を維持する。
エイワスはそんな優衣を見て簡単の声すら漏らして見せた。
「これでも無理か。流石は……」
本の輝きが強まる。エイワスの言葉は最後まで優衣に届く事もなく、夢の世界へと引きずり込まれた。
□□□□□□□□□□
暗闇に包まれた世界には無数の光が点在し瞬いていた。
その中でも一際大きな光に向かって、ほんの小さな穴から呪詛が放たれる。
やがて光はその呪詛に呼応するように明滅を繰り返し、粒子となって解け散った。
長い時間をかけて穴の周囲に濃縮されるように集められた粒子が形を結んで引きずり出される。
穴の外には沢山の人達が跪いていた。
幾らかの人間は両の腕を焼かれたかの如く爛れさせ医者とおもしき白衣を身に纏った男性に手当てを施されていた。
虚空にぽかりとあいた小さな穴の前に跪いていた女性が腕を引きずり出す。
薬物に溶かされたような酷い傷を腕に負っているというのに、顔には恍惚の表情がありありと浮かんでいた。
その手に握られた小さな試験管が壇上の男に差し出されると涙さえ流しながら恭しく受け取り掲げ宣言する。
「今ここに理想郷へ至る鍵が作られた。我々はこの世界を変えるのだ!」
高いところから落ちるような感覚に優衣は慌てて身を起こした。
ガタン、と大きな音がしてバランスを崩しそうになるがどうにか踏みとどまる。
言い知れない焦燥感が胸の奥から滾々と湧き出して荒い息を吐く。でもどうしてこんな気持ちを感じているのか分からなかった。
「月島、随分とぐっすり寝ていたようだな」
突然名前を呼ばれて反射的に声のした方を向く。
ずらりと等間隔に並んだ机の前に涼しげな夏服に袖を通した生徒が並び、好奇心を隠す事もなく優衣を見てくすくすと笑ってさえいた。
教壇に立つ教師は困った奴め、とばかりに苦い顔をしている。
「眠気覚ましだ、前に出てを解いてみろ」
優衣はようやく自分が眠ってしまい悪い夢を診ていたことに気づいた。
言われるままに立ち上がり黒板に向かって歩くと太ももに布が擦れる覚えのない感覚がして、なんだろうと下を向けば着慣れるはずもない女子制服のスカートが揺れていた。
「な、なんで女子制服なの!」
授業中だということも忘れて素っ頓狂な声を上げると教師が怪訝な顔をしてみせる。
「何でも何も、女子だからだろう。まだ寝惚けてるのか? ほら、さっさと解いてみろ」
何を言ってるんだ、という視線を教師に向ける。けれど、冗談を言っているような顔ではなかった。
それどころかこれだけ居る生徒の誰もが教師の言葉に反応すらしていない。
空恐ろしい感覚を覚えながらも今ここで追及するのはどうしてか気が引けて、黒板に書かれた問題を眺めてから逡巡し、答えを書き込んでいく。
迷う素振りもなく黒板にチョークを滑らせると教師が大仰に頷いた。
「正解だ。夜更かしでもしたのか?」
普段から真面目に授業を受けているせいか、叱りの言葉よりも心配が先行したようだ。
大丈夫です、と答えになっていない返事をすると手早く席に戻って座る。
普段はくるぶしまで覆われるズボンに慣れているせいか、短いスカートは頼りなく思えた。
授業が再開されても優衣の耳には入ってこない。
優衣は全員で結託して冗談を言っている可能性も考えて生徒手帳を取り出したが、映っていた写真は女子制服に身を包み、遠慮がちな笑みを浮かべている自分だった。
性別の欄も女性。どうみても本物で偽装したようには見えない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴るとどういうことか確かめる為に話を聞こうと立ち上がった。
だが、勢い良く立ち上がったのと裏腹に足は前へ進まなかった。
(あれ、光輝の席ってどこだっけ)
最も通いなれたはずの親友の席が咄嗟に出てこない。教室を見渡しても目立つはずの赤茶けた髪はどこにも見つからなかった。
「ねぇ、光輝ってどこの席だっけ」
居てもたってもいられずとなりの席の男子に話しかけると悩む素振りを見せた。
「光輝なんて名前の人居たっけ。苗字はなんて……」
台詞の途中で男子生徒がどろりと歪む。優衣がか細い悲鳴をあげた僅かな間に跡形もなく綺麗さっぱり消え失せた。
けれど周りの誰もがそれを気にした様子はない。
「どうなってるの……」
目の前で起こった不可解な現象を理解しようと必死になっている所に別の声がかかった。
「どうかしたのか?」
「今、人が消えて」
答えた瞬間、話しかけてきた相手も同じように溶け出して瞬きをする間にこの世界から消失した。
「ねぇっ!」
思わず叫んだ優衣をクラスに残っていた生徒がなんだとばかりに向き直る。
どろり、と全ての人影が溶け消えた。
何がなんだか分からず優衣はひとまず教室の外に出る。
廊下に溢れていた沢山の生徒が優衣を視界に入れた瞬間、これまでと同じように全てが溶け消えた。
「なんなのっ」
学校の外に出ると道行く人が次々に溶け消えていく。もはや視線を合わせる必要すらなく、ただ優衣が居るだけで周囲の人間は数を減らした。
携帯を取り出すと雫に向かって電話をかける。
「こんな時間にどうしたの、お姉ちゃん」
数度の呼び出し音の後に聞きなれた声が届いて胸を撫で下ろす。教室で取っているのか、背後からざわざわと喧騒が漏れて来ていた。
「そっちで何かおかしなこと起こってない?」
「別に何も……」
硬い音が木霊した。まるで携帯を床に落とした時のような。
「雫……?」
呼びかけても答えはない。BGMに流れていた子ども達の喧騒もいつの間にか止んでいた。
ブツリ、と通話が途切れる。震える手で再度電話をかけても誰かが出る様子はなかった。
混乱する頭の中でどうすればいいのかを必死に模索し、電話帳のカ行が目に留まる。
一覧の中にはあの場に居なかった光輝の名前がちゃんと入っていた。藁にもすがる思いでボタンを押す。
「おう、優衣か」
変わらない様子に安堵する暇すら惜しく、今起こった事を必死にまくし立てる。
光輝は全てを聞いた後静かに言った。
「ああ、それは全部優衣のせいだな」
携帯から聞こえる声がやけに遠く感じられた。周りから音が消えうせ、光輝の言葉が何度も脳裏に反芻される。
「優衣がいるだけで世界が壊れていくんだよ。もうすぐ俺も消える。いや、俺だけじゃない、何もかもが消えるんだよ」
どうしてという言葉は喉に絡んで出る事がなかった。電話が突然ブツンと切断される。
世界から音が戻っても物音は何一つしなかった。恐ろしくなって周囲を走り回っても誰もない。
店の中も、家の中も、大通りも小道も、普段は人で溢れている筈の場所には人どころか生きている存在は何一つ見つからなかった。
空を飛ぶ鳥も、塀の上で欠伸をする猫も、小屋に繋がれた犬も、草花に居つく虫さえも。
空虚な景色の中で光輝の言葉が何度も思い起こされた。
(知ってる……。これは全部、ボクのせいだ)
覚えのない知識が目の前の現象がどうして起こったのかを優衣に余すことなく伝えていた。
世界に罅が入る。空が砕け破片となって舞い散り色を失い無に染まっていく。
そして世界が反転した。
□□□□□□□□□□
『優衣! 目覚めたか!』
夜、暗がりの広場、沢山の人が転がっているのを見て呻きつつも身を起こす。
何かとてつもない夢を見ていた気がするのに、目覚めてみると泡沫に消え輪郭すらおぼつかない。
「優衣ちゃん、結界をお願い!」
香奈が水流の盾を展開してずんぐりとした黒い魔物の攻撃を防いでいた。絶えずぐにぐにと形を変える姿から見るに、安定していないのかもしれない。
「やはり真っ先に目覚めたか。まさかこちらの魔法に干渉までするとはな」
エイワスが本を片手に膝をついて苦しそうにこめかみを抑えていた。その状態でもなお本に魔力を注ぎ込んでいる。
不安定だった魔物が形を人型に変えて拳を振り上げた。
「させないっ」
大振りな攻撃が虚空で阻まれる。優衣の結界が展開されたのを見て香奈が弓に魔力の矢を番えて解き放った。
魔物の額を寸分違わず貫くものの苦しんだ様子はなく穿たれた穴もすぐに再生してしまう。
「実態が薄いのかなー、それならこっちっ」
城の周囲に広がる豊富な水源を巻き上げて魔物の周囲に渦を作り出す。実態の薄い魔力が渦に巻き込まれ四散する。
「優衣ちゃん、かすみん起こせる!?」
魔物は形を取れなくなったが消滅したわけではない。
渦を展開している今の香奈に敵を倒せるだけの魔法を使う余裕は残されていなかった。
かといって優衣が扱える魔法では散らばっている敵をまとめて攻撃することが出来ない。
本来の極光系の攻撃魔法を使えばその限りではないが、倒れている人が大勢居るこの場所で暴走の可能性が高い魔法を使うわけには行かなかった。
「起こすって、どうやって!」
倒れている香澄に駆け寄って揺すってみるも目を覚ます気配はない。
「古典的超魔術、王子様のキスで!」
何を言ってるんだと呆気にとられた顔をする優衣に向けて香奈がウィンクを送った。
大規模な魔法の講師で余裕がないのか、浮かべている笑顔はいつもより弱々しい。
「かすみんは今、敵の魔法の干渉を受けてる。その魔法を手っ取り早く崩すためには優衣ちゃんの魔力を送ってこんがらがせちゃえばいいの」
悪夢を見せるとエイワスが言ったとおり、この魔法は精神に干渉する魔法だった。
そういった魔法は外部から別種の魔力を与えられると干渉を起こし混線する事で解除される事がままある。
「唇からである必要性は!?」
「なんとなく絵的に!」
けれど魔力を送るだけなら手で触れるだけでも十分だ。
香奈のしょうもない理由を無言で切り捨てた優衣は倒れている香澄の手を握って自分の魔力の一部を通わせる。
静電気が起こったような弾かれる感触と共に干渉していた魔法が解除された。瞳がゆっくりと開かれると焦点を結び、慌てて起き上がる。
「かすみん、美味しいシーンに悪いけどあれに電撃お願いできるー?」
優衣の腕の中で目を覚ました事で顔を赤くしている香澄に声をかけると渦を見て状況を把握したらしい。
「分かった」
立ち上がると手に持った鞭を片手に敵へ接近し右腕を振るう。
渦に差し込まれた鞭から電撃が迸り全体を包み込むと暗い園内に紫電の雷光が散発的に散る。
その間に優衣は光輝と影人の元へと駆け抜け2人のそれぞれ魔力を通わせた。
初めに光輝が呻き声と共に身を起こし、辺りの様子を確認するや否や飛び上がって身構える。
続いて影人が目を開けた。だがその瞳は何かに怯えるように揺れている。
「影人……?」
名前を呼ばれた影人の身体が強張った。顔色も蒼白で明らかに様子がおかしい。
「あいつ……っ」
光輝が近くに居るエイワスに向かって駆け出した。右腕に魔力の炎が灯り距離を一気に詰める。
まだ膝をついたままのエイワスは逃げられる状況にない。魔物の操作をしているのか、今は結界が展開されている様子もなかった。
貰ったとばかりに迫る光輝に、しかしエイワスは笑みを絶やさない。嫌な予感がして周囲を伺うと強力な魔法が今この瞬間に放たれようとしていた。
「優衣ちゃん、なるくん、攻撃行った!」
渦の中で苦しみもがいていた魔物が殆ど全ての魔力を集めて一矢報いるべく魔法を解き放つ。
俊敏に反応した優衣が結界を展開するが上空に展開された結界は一瞬の内に砕け突き破られる。
だが優衣とて今までの戦闘で何も学ばなかったわけじゃない。
縦方向に重複して展開された2枚目の結界が敵の魔法を受け止め、再び砕け散った。
3枚目、4枚目と重なった結界が壊れるたびに威力が減衰されているというのに、結界が稼げる時間はごく僅かでしかない。
光輝がエイワスに向けていた足を反転、優衣に駆け寄る。
5枚目と6枚目が砕け散る。間にはもう2枚分の結界しか残っていなかった。
7枚目の結界がたわみ、軋み、破砕音と共に砕け散る。最後の結界が魔法を辛うじて受け止めるが防ぎきれる威力ではなかった。
「影人、立って!」
優衣がせめて直撃を避けるべく影人の身を起こそうとするが影人は敵の攻撃を見つめたまま放心を続けていた。
結界に亀裂が生まれ悲鳴をあげる。せめて影人を守ろうと覆いかぶさった瞬間、光輝と影人の絶叫が重なった。
最後の結界を貫通し突き進んでくる魔法の側面から光輝が全力で拳を振るう。
焼け付くような痛みに歯を食いしばりながら人の居ない城の池に向かって振りぬいた。
軌道の逸れた魔法が手摺と路面の一部を抉りながら池に沈み巨大な水柱を形成する。巻き上げられた水が離れている香奈たちまで届き雨の様に地面を濡らした。
「さっきは危なかった。麗しい友情に感謝と言ったところかな」
「光輝、腕……!」
今すぐ殴りつけてやりたい衝動が光輝の胸の奥に燻っていたが、無理矢理割って入った際に受けたダメージは少なくない。
腕はそこかしこに深い傷を刻み、煤け、少なくない血が地面に垂れて赤黒い染みを広げている。
挙句、空に浮かぶ穴は大人が潜れる程の大きさにまで広がっていた。
魔物を倒した事でこの場に及んでいた魔法の効力が切れたのか、倒れていた人達が微かに動き始めるのを見て安堵する反面、タイミングの悪さに渋面を作った。
逃げ惑えば保護する事も難しくなり最悪エイワスの手に陥りかねない。
「安心していい。私の目標は達せられた。今は引くとしよう」
それを見透かしてか、エイワスがあの柔和な笑みを浮かべる。直後、手に持った本が輝きエイワスの身体を包み込む。
「全ての準備が終われば再び合間見える事になるだろう。その時こそ世界は愛に包まれる」
そう高らかに宣言し、エイワスの姿は見えなくなった。
その後、スタッフの人が目を覚ますと目の前の惨状に目を丸くしたものの、的確に指示を出し場の混乱はどうにか収束を向かえる。
腕に怪我をした光輝は医務室へ引っ張られ診断を受けた。骨や靭帯には影響がなく、傷も見た目よりは幾分軽いもので縫合の必要もないという。
消毒液がしみて散々呻いていたがそれだけ騒げるのなら問題ないだろうと医者は言っていた。
問題があるとすれば寧ろ光輝より影人の方だ。
怪我もなく意識もあるが心ここにあらずと言った様子で話しかけてもあまり反応がない。
「大丈夫……?」
優衣の問いかけに、小さく「あぁ」と答える。
影人がこうなった原因はハッキリしていた。エイワスの魔法による悪夢の投影。
優衣を除く4人はそれぞれが昔にあった事、或いは自分が一番恐れている局面の悪夢を見ていたという。
影人が何を見たかは分からなかったが、精神的に堪える物であったことは間違いない。
光輝や香澄、香奈も普段よりどこか沈んでいた。光輝が治療中にいつもより騒いでいたのはそんな場の空気を変えようとしてだろう。
「ごめんね、あたしのせいで」
去り際の電車で香奈が寂しそうに笑うが、今日の事が香奈のせいである筈がないと4人とも否定する。
けれど香奈は最後まで自分を責めているようだった。
駅前で香奈と影人の2人と別れる。
優衣は光輝と一緒にすっかり日も暮れ人通りの少なくなった路地を一緒になって歩いていた。
『何かおかしい』
人が誰も居ないことを確認して、サラマンダが光輝の方へと顕現する。
『エイワスは何故今日あの場所を襲ったのだ』
感情の落差が激しいほど歪みが大きくなるとエイワスは言っていた。
恐らく彼の言う歪みを作る力を転用して精神世界の穴を広げているのであろうことも予測できる。
だが、それならわざわざ人の少ない初日に襲う必要はあったのだろうか。
優衣たちがいる事だって初めからわかっていたはずだ。
邪魔される事が分かりきっているのに何故日を改めることもしなかったのか。
『それに、今日のあやつの台詞が妙に引っかかる』
具体的になにが、と聞かれると答えられないが、酷く違和感を感じる事が一度あったような気がしていた。
『優衣、見た夢の内容は覚えていないのだったな』
「ごめん。変な夢だった気がするんだけど、全然思い出せない」
すまなそうに首を振る。何度も思い出そうとしていたのだが思い出そうとすればするほど輪郭がぼやけていくのだ。
今はもう思い出せそうだった断片的な欠片さえなにも掴めない。
『光輝は全て覚えているんだったな』
「ああ。あんまり思い出したくはねーけど」
この差がどこから来るのか。優衣が光輝より記憶力が悪いとは思えない。
『ともかく、あやつは目標を達したと言っていた。今後どうするかもう一度考えるべきだろうな』
サラマンダの言葉に2人が神妙に頷く。
光輝が見た悪夢もそれなりに酷い内容ではあったが所詮は夢だ。
一晩寝て起きれば明日の学校には何一つ変わることなく顔を出せると思っていた。
なのに、翌日1週間と共に学校が始まった時、影人と香奈は姿を現さなかった。




