家族の形
その夜、優衣は予想だにしなかったもう一人の魔法使いとの邂逅や久々に使った魔法の疲れから、自室で早々に熟睡してた。
当番の洗い物を終えた雫は、優衣の部屋をこっそり覗いて寝入っていることを確認してから静かに1階にある父親の仕事部屋へ足を運ぶ。
普段は仕事の邪魔をしないためにも滅多な事では近づかないのだが、彼女の拳はいつになく緊張をしているのか硬く握られていた。
扉の前で何度も思い悩んだように引き返す素振りを見せるものの、やがて顔を上げると震える手で扉を叩いた。
静かな夜に乾いたノックの音がやけに響くな、と思っているとなんとも陽気な父親の間延びした返事が帰ってきた。
「お父さん」
「どうした? こんな夜遅くに珍しいな」
扉を開いた雫の前では父親が普段着として使っているいつも通りの甚平姿で、パソコンから雫へと目線を変えていた。
その優しげな視線に、雫は一度目を伏せる。
彼女には昨日からずっとどうするべきなのか迷っていたことがあった。
いつまでも逃げてばかりは居られないと何度も思い直して、何度も止めようかと悩み続けていたが、ぐっと覚悟を決めて真剣な眼差しを父親に向ける。
「……欲しいものがあるって訳じゃなさそうだね。そこに座りなさい」
雫の迷いの中に、決意に満ちた険しいとさえいえる表情を見出し、父親は並べてあった座布団を進め身体ごと雫に向き直った。
真面目な話をするときにはいつだってこうして面と向かうのが決まりだ。
薦められるがままにそこへ正座した雫に合せ、父親も佇まいを正す。
「お兄ちゃんのことなの」
雫の言葉に、父親は僅かに表情を曇らせた。
突然男性から女性に変わってしまった不可解な事件。医学的にも科学的にも解明することは困難だろう。
こうして父親も色々とネット上を調べているが、性別が勝手に、しかも完全に変わった前例などどこを探してもあるはずがない。
この家にいる女性は雫しかいない。
性別が変わったことで色々と教えなければならない事もあっただろう。
母親がいればまた違うのかもしれないが、そういったことを全て雫に任せてしまっていたことを僅かに後悔した。
だからこそ、父親は雫に何か不安はあるのだろうと思っていた。
いや、不安がないはずがないのだ。それを省みなかった自分を深く悔いた。
「ねぇ、お兄ちゃんって、本当にお兄ちゃんなの?」
雫から出た言葉はとても曖昧で、要領を得ないものだった。
彼女にとっても兄の性別が変わると言う事態に、少なからぬ混乱を催しているのは確かだ。
だからこそ父親は何も応えず、雫に先を促す。
「私知ってるよ。月島家にはお兄ちゃんみたいな髪色の人が居たことは、一度だってないって事」
思わず父親の顔が固まってしまった。その質問が彼の想像を遥かに超える物だったからだ。
「隔世遺伝なんて嘘でしょう?」
確かな確信を持った言葉に、父親は気まずそうに顔を俯かせる。
子どもはいつだって、親の想定よりずっと前を走っているものなのだ、ということを嫌というほど思い知らされた様な気がした。
父親の動揺から読み取れるように、それは紛れもない真実だった。
ずっと昔、まだ優衣が小さかった頃、優衣は父親にどうして自分の髪の色が他の人と違うのか尋ねたことがあった。
応えに窮した彼は、咄嗟にずっと昔の血筋から優衣に送られたプレゼント、隔世遺伝だと応えたのだ。
けれど月島家に優衣の様な髪色を持つ人物は"一度たりとも存在していない"。
「お兄ちゃんには一体何があるの?」
雫はそれを理解した上で、その先を聞く。
「お兄ちゃんの性別が変わった時だってそうだよ……。お父さん、驚いてたけど凄く冷静で、まるで、こんな事が起こっても不思議じゃないって、そんな雰囲気だった」
性別が変わったという言葉に対し、父親は微塵も疑うことがなかった。
優衣の性格上、嘘をつくなどありえないから? 違う。初めから、その可能性をどこかで知っていた。
……性別が変わる可能性を事前に理解しているなんて事は、普通に考えてありえない。
「それだけじゃない。お父さんが何か隠してるのだって、ずっと前から気付いてたんだからっ! お父さんは、お兄ちゃんの性別がどうして変わったのか、何か知ってるの?」
乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
距離が近いというのは隠し事をする上で最も難しい条件だ。家族となればなおさらだろう。
隠し通せているつもりだった事実に雫は一人で辿りついていた。
となれば優衣もまた、その事実に気付いている可能性は高い。
隠しているから敢えて何も聞いてこないのだ。それは全幅の信頼に他ならない。
父親は一度目をつむり熟考する。真実を話すべきか、否か。
雫はまだ中三だが聡明な子だ。話しても悪い方向に転がることはないだろうと思っていた。
だが、真実は当人である優衣に話せない。……まだ15の優衣には少しだけ早すぎると思っていた。
雫に話してもそれが優衣の為にならないと分かればきっと口を噤む……が、知らない振りをする負担は彼女をずっと苛む。
「雫は優衣の性別が代わって、優衣の事が嫌いになったかい?」
「そんなわけない! お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの!」
心からの言葉に、父親は思わず笑みを漏らした。雫は怪訝な顔をするが、彼にとってその言葉は得難い救いのようなものだ。
「……お兄ちゃんは、お父さんの子どもなの?」
「どうして、そう思うんだい?」
動揺を表に出さないように気を払いながら、父親は質問に質問を返した。
雫は少し迷ってから自分の想像を口にする。
「だって、私の名前の"雫"はお父さんが考えたって言ってた。お母さんが考えた私の名前は昴とか、男の子っぽい名前だって。お母さんは考えても考えても男の子っぽい名前しか浮かばないからお父さんが女の子っぽい名前を一杯探したって。……でもお兄ちゃんは男の子なのに優衣って女の子らしい名前で、その名前をつけたのはお母さんだって前に教えてもらったよ」
先日の墓参りの台詞が唐突に思い出され、父親は思わず眉をしかめた。
嘘と本当を織り交ぜて話せば、きっとどこかで整合性が取れなくなって露呈する。
週末のそれは犯してはならない致命的なミスだった。長い時間を過ごし、警戒も薄れてしまったのだろう。
母親の思い出として雫に話した内容は意識しない内に致命的な矛盾も語ってしまっていた。
優衣という名前は母親が付けたもので"間違いない"。
でも、母親が女の子の名前を思い浮かべられなかったのも"事実"だ。
「すまない、まだ話すことは出来ないんだ。だけど、いつかきっと、優衣も一緒に全部を話すから、もう少しだけお父さんに時間をくれないか?」
父親として、まだ雫に負担をかけたくなかった。だからまだ言わないと腹を決める。
「優衣は僕達の大切な家族だ。それだけは間違いない」
その想いはちゃんと雫に伝わっていて、少しだけ悩んだものの、ゆっくりと、確かに頷いて見せた。
「……僕は、雫と優衣にとって、父親でいてあげられているのかな」
ぽつり、と父親がそんな言葉を漏らした。
雫が優衣の矛盾に気付いた決定的な動機が先週の間違いだとしても、雫は前から何か思う節があったように思えた。
……もしかしたら、自分は優衣と雫の二人を区別してしまったのだろうかと不安になったのだ。
「お父さんはずっとお父さんだった。私にとっても、お兄ちゃんにとっても」
その言葉には思わずこみ上げるものがあった。雫はそれを察知しておやすみの一言を残して部屋を後にする。
雫が違和感を抱いたのは父親からではなく、その親族の態度からだった。もし仮に父親だけと暮らしていたのであれば、まず気付くこともなかっただろう。
一人になった部屋の中で溢れる感慨を飲み込んだ父親に浮かんだのは娘の想像以上の成長に対する苦笑だった。
考えてみれば仕事にかかりっきりであまり構ってやれることもなかったのだ。
数年前まではまだ手のかかる小学生だったというのに、時間はいつだって待ってくれない。
にも拘らず優衣も雫も素直で良い子に育ってくれたことを誇りに思う。
誤魔化すことは幾らでもできるのだろう。
一つ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食べれば血は繋がっていなくとも家族になるのだから。
父親は爺くさい掛け声で立ち上がると、棚に置かれた分厚い辞書を数冊引き抜いて奥に隠されていたバインダーを取り出した。
-魔術結社連続誘拐事件-
彼が記者として働きだした最初の契機。
待てども情報が出てこない事に苛立ちを感じた彼は誰かに頼ることをやめ、自分の力で虚像と真実の山を掘り進むことに決めた。
赤いタイトルが打たれたバインダーを開ければ、当時の新聞の切抜きや父親自身が集めた証言、情報が山のように詰まっている。
15年前、魔術結社(仮)という怪しげな組織が生まれたばかりの新生児を7人も拉致し、施設に監禁した事件だ。
幸い誘拐された赤ん坊に怪我などの外傷はなかったものの、生まれたばかりの我が子を2年という長い年月に渡り親から引き離された事件が世間に与えた衝撃は大きかった。
組織は赤ん坊を怪しげな儀式に使ったとか、生贄にするつもりだったとか、今でも語り草に使われるほどだ。
でも、巷で噂されている内容と真相はほんの少しだけ違っている。
誘拐された赤ん坊の数は7人だったが、2年後に組織から助け出された2歳児は全部で8人いたのだから。
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1. Had! The manifestation of Nuit.
1. Had! Nuitの霊の顕現。
2. The unveiling of the company of heaven.
2. 天界の組織がヴェールを幕を開ける。
3. Every man and every woman is a star.
3. すべての男と女は遍く星である。
4. Every number is infinite; there is no difference.
4. すべての数は無限であり、そこには違いなどない。
5. Help me, o warrior lord of Thebes, in my unveiling before the Children of men!
5. 我を助けたまえ、テーベの戦士よ! 人の子らの前でヴェールを脱ぐのだ!
6. Be thou Hadit, my secret centre, my heart & my tongue!
6. 我が秘密の中枢なる、Haditよ、我が心臓と、我が舌となれ!
7. Behold! it is revealed by Aiwass the minister of Hoor-paar-kraat.
7. 見よ! それはHoor-paar-kraatに仕える、Aiwassによりて啓示された。
8. The Khabs is in the Khu, not the Khu in the Khabs.
8. KhabsはKhuの中にあり、KhuがKhabsの中にあるのではない。
9. Worship then the Khabs, and behold my light shed over you!
9. なればKhabsを崇めるがいい、そして、我が光が子らの上に降り注がれるのを見よ!
10. Let my servants be few & secret: they shall rule the many & the known.
10. 我がしもべ達は、数少ない、知られざる者である。彼らは数多の知られたる者達を支配しよう。
11. These are fools that men adore; both their Gods & their men are fools.
11. 人々が賛美するのは愚か者達。その神々も、彼らに仕える者達も愚か者である。
12. Come forth, o children, under the stars, & take your fill of love!
12. 来たれ子ども等よ、星々の元へ、そして愛を満たすのだ!
13. I am above you and in you. My ecstasy is in yours. My joy is to see your joy.
13. 我は子ども達の上にあり、子ども達の中にもある。我が恍惚は子の内にも。我が喜びは子ども達の喜びを見る事に。
14. Above, the gemmed azure is The naked splendour of Nuit;
She bends in ecstasy to kiss The secret ardours of Hadit.
The winged globe, the starry blue, Are mine, O Ankh-af-na-khonsu!
14. 天高く、宝石が散りばめられた碧の空は、Nuitである!
彼女はHaditの隠された熱情に口づけるべく、恍惚と共に身を屈める。
翼有る惑星、青く輝く星は私のものだ。 あぁ、Ankh-af-na-khonsu!
15. Now ye shall know that the chosen priest & apostle of infinite space is the prince-priest the Beast;
and in his woman called the Scarlet Woman is all power given.
They shall gather my children into their fold:
they shall bring the glory of the stars into the hearts of men.
15. 人は今こそ知るのだ。選ばれし司祭にして無限の宇宙の使徒こそ、王子であり司祭たる獣であるという事を。
そして、緋色の女と呼ばれし者の内へ彼らの力は与えられた。
天界の組織の精霊はわが子供達を一同に集め、天界の組織の群れに入れるであろう。
天界の組織は子供達の心の内に星々の栄光を運び込むであろう。
著:アレイスター・クロウリー 法の書-第一章 1節から15節まで-
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