大きな違い
あの日、精霊と契約してからの優衣の生活は、真実を知らない者からすれば何一つ変わらない物だったと言うだろう。
性別を隠すのは優衣にとってそれほど難しい行為ではなかった。
もしかしたら、どうにかなるんじゃないだろうか。
優衣にそんな楽観的な思考が生まれたのは無理のないことだったのかもしれない。
でも、両者は明確に違うのだ。
変わってしまった物は個人の力でどうにかなるほど些細なものではない。
お墓参りの翌日、日曜日で学校が休みの朝、目ざましによって覚醒した優衣の意識に芽生えたのは違和感と腹痛だった。
腹痛には大きく2つの種類がある。端的に言ってしまえば出して治るか治らないか。
お腹を冷やして下してしまうのは前者、たくさん食べた後急に走ったりして脇腹が痛み出すのは後者。
前者ならトイレに行けばいいし、後者なら収まるまで待つしかない。
自発的な解決手段のあるなしという意味において、同じ腹痛であっても明確に分かれている。
そして人は経験によって大まかにこの2つを判断できるようになっている。
優衣が感じたのは腹痛の中でも後者に属する上、今まで1度たりとも感じたことのない類の物だった。
大気の比重が倍々になったかのような気だるさをどうにか振り払って上半身を起こし布団を跳ね除けた、瞬間。
視界の隅で寝巻に広がる染みを見ながら、こんな模様だったかと寝惚けた頭が情報を引き出す。
徐々に意識が覚醒していくうちに、いや、模様なんてなかったはずと思い直し、ぼぅっと広がる染みを観察する。
突然停滞していた意識が吹き飛んだ。目の前の光景を少ない知識から検索し、再構築。
性別、もとい身体の構造が変わるということは当然、今まで培ってきた自分の身体に関する知識だけでは通用しない問題が出てくる。
以前の身体と互換性のある部分に関しては培ってきた知識を再利用することもできよう。
だが互換性のない機能に関してはどうしようもない。
何が起こってしまったのか、少ない知識でも冷静に可能性を突き詰めていけば理解することは難しくなかった。
全てを理解した優衣が悲鳴を上げたのも致し方のないことだったろう。
外見にさほど変化がなくとも中身には天と地ほどの差がある。事の重大さに、3週間近い時間を費やしてようやく優衣は気付いたのだ。
優衣の悲鳴に真っ先に反応したのは隣室の雫だった。
「怖い夢でも見たの?」
遠慮がちにドアを開けて入り込んできた雫は放心している兄に驚きながらも近づいて様子を確認する。
やがて着ていた寝巻きの染みに気付くとポンッと手を打ってしたり顔で頷いて見せた。
「お父さんー、お兄ちゃんに生理が来たー」
さも何でもない事の様にすたすたと部屋を出ると階下で目覚めのコーヒーを啜っている父親に向かって報告する。
その声には動揺など欠片も浮かんでいなかった。
階下にいた父親はそんな雫の言葉に呆れたように笑っていた。
「雫は夢でも見たのか? 優衣は兄だぞ」
雫もまだ寝ぼけていたのか、父親の言葉にそう言えばそうだったと何度か頷き、もう一度部屋に入ってから兄の姿を再びしげしげと眺め、瞳を驚愕に染めて今度こそ悲鳴に近い声色で叫んだ。
「じゃあお兄ちゃんそれって怪我!? 何があったの!?」
雫の鬼気迫る悲鳴染みた絶叫に父親も顔を跳ね上げ、何事かと階段を駆け上がる。優衣にはもう隠し通せる手立てなどどこにも残されていなかった。
「えーと……朝気付いたらこうなっていました?」
疑問系な上に苦しすぎる言い訳だったが、まさか精霊と契約しましたなど口が裂けても言えない。
「そう、か……」
だが二人が理由について追及することはなかった。
科学ではおよそ説明不可能な非現実的な出来事に理由を求めたところで答えがあるはずがないのだから。
慌しく準備を整えた一家が真っ先に向かったのは近くの大学病院だった。
性別が変わったなどという奇天烈な事を伝えるわけには行かなかったが、細部を調べれば何か異常が見つかるのではないか。
もしかしたらそれがきっかけとなって現実的な理由の欠片が見つかるかもしれないという希望的な観測。
何より、本当に優衣の身体は大丈夫なのだろうかという心配が大きかった。
血液、心音、脳波、レントゲンといった基本的なものからMRIといった専門的なもの、果ては視力や聴覚といった関係ない物までの一通りの検査を行ってから産婦人科にも訪れる。
優衣は遠慮したかったが有無を言わせぬ二人の前では従うしかない。
待合室に入って溜息ばかり付いていると名前を呼ばれ40代くらいの人の良さそうな女医の元で診察を行う。
結果が出ると彼女は父親を診察室に招きいれ特に問題ないという旨を告げた。
「初経の時期は個人差がありますから一概には言えませんが、恐らく大丈夫だと思いますよ。15歳でしたよね……心配される気持ちも分かりますがもう少し様子を見てみましょう。正常に続かなかったり強い痛みや違和感を感じたらまた来てください」
身体の機能としては正常そのもの。
1日を病院で過ごした結果に分かったのはその程度の事だった。
そのまま夕飯は外食をして帰るのだが家族の間に会話は余りない。
父親は考え込むように俯いているし、雫も珍しく押し黙って混乱しているようだった。
優衣にしても自分の身に起こった事がどれほどの影響を与えてしまうかを目の当たりにして押し黙ってしまう。
家に戻ると父親は雫に、母さんが居ない今、雫に頼るしかないと告げ、できるだけ優衣の力になってあげるように説得する。
やや戸惑っていた雫だったが、目の前に迫る現実を前にしなければならない事はたくさんあった。
父親の言葉に任せておけとばかりに力強く頷くと記念品が詰められている倉庫用の一室に向かう。
優衣は何も言えず自室に戻るしかなかった。
しばらくベッドの上で手持ち無沙汰にごろごろと転がっていると、控えめなノックが響く。
返事をしてドアを開けると、そこには古めかしい段ボールを抱えた雫が立っていた。
両手がふさがっていて扉が開けられなかったらしい。
部屋に入ると段ボールを部屋の隅に置いた雫は2、3度手をはたいてから、どこか場違いな嬉しそうな笑みを浮かべた。
「元から女の子なんじゃないかと思ってたけど本当に女の子だったなんて」
何を言われるだろうかと内心恐れながら身構えていた優衣は、あまりにも想像とかけ離れた妹の台詞に思わず叫ぶ。
「男だったボクを雫は知ってるよね!?」
小さい頃は一緒にお風呂に入ったことだってあるのだ。雫がそれを覚えていない筈がない。
「あれは私が作り出してしまったお兄ちゃんという虚像に過ぎなかったのね……ごめんなさい"お姉ちゃん"」
だがわざわざ小道具染みたハンカチなど取り出して目に当てしおしおと萎びて見せる。
「ちゃんと記憶を辿って現実を見てよっ! それから最後のそれは何っ」
聞き捨てならない一言にもいちいちツッコミを入れると雫はしげしげと優衣の身体を眺めて続けた。
「そっか、私の方がお姉さんっぽいよね。じゃあ、ごめんね優衣ちゃん?」
「なお悪いよ!」
「優衣ちゃんかぁ、私も愛でられる妹が欲しいって思ってたの。これからもよろしくね、優衣ちゃん」
「雫は今混乱してるんだよ! 目を覚まして、ボクは兄だっ」
「だってお兄ちゃんは小さい時から妹を愛でてたじゃない。私もあんな風に可愛い妹に優しくしてあげたいの! なにより自分色に染めあげたいの!」
「わざと誤解を招くような言い方をするなっ! それから最後の一言のせいで良い話かと思ったのが台無しじゃないか!」
雫は拗ねたようにケチだなぁと続ける。
そんな彼女を見て優衣は呆れたように軽い溜息をついた。
でもその表情は先ほどまで浮かんでいた沈んだ色合いは薄れていて、呆れたものであっても微かに笑顔さえ浮かべるている。
「やっぱり"お兄ちゃん"は笑顔が一番可愛いよ」
先ほどのやり取りは彼女なりに優衣を元気づけようとしたものだった。
多分な私情と欲望が入り混じっていたが、優衣もそれには感謝する。
「……ありがと。最後の一言がなければ泣いてたかも」
優衣は恥ずかしさから俯いて、小さな声でお礼を告げた。
「そこは譲れないかなぁ」
そんな兄に向かって雫は優しく笑って見せるのだった。
雫は落ち着いた頃合いを見計らって段ボールを開封すると中にあったものを取り出していく。
「はいこれ」
渡されたのは大小さまざまな、中にはいい具合に年代を感じさせるほど色あせてしまったものまである大量のテキストだった。
「私が1から10まで手取り足取り、実演付きで教えてもいいんだけど、嫌がるでしょ?」
優衣は当然だとばかりに何度もうなずいた。
誰かから教わる方が分かりやすいのだろうが、相手が妹では優衣のプライドは容易く砕ける。いや、妹でなくとも怪しいだろう。
「だから昔保健の授業で使ってたテキストとか色々。読めば一通りの知識は手に入ると思う。それでもわからないことがあったら聞いて。それ以外の、テキストにない事は私が教えるしかないけど」
それだけ言うと雫は気を使ったのか部屋を出て行った。
気を使われていることに若干の申し訳なさを感じつつも、折角持ってきてくれたのなら、という思いから一つを取り出して目を通す。
そこにあるのは知らなくてよかったはずの知識で、異性に知られない方が良い知識でもあるのだろう。
優衣が隠すという選択を取ったのは変わった性別という現実を受け入れられなかった事も大きい。
けれど目の前にあるテキストにしても、体調の変化にしても、逃げ続けていた現実をこれでもかというほど、今更突きつけてきた。
なまじ隠し通せていた分だけ帰ってくるダメージは大きい。
テキストは数枚も進まないうちにはらり、と机の上に投げ出された。
どうしようもない無気力と嘆きが噴出してきて思わず愚痴が漏れる。
「何やってるんだろうなぁ……」
一言で言うならば、虚しい。
理由のない空虚さが心を苛んで、盛大なため息とともにべしゃりと勉強机に潰れるのだった。
自意識がどうあっても、身体の機能は追従してくれない。
優衣はそんな事にも今の今まで気付いていなかったのだ。




