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残り物ですがと言ったら公爵に叱られました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/13

 馬車が止まった瞬間、セシリアは膝の上の旅荷を確かめた。


 革が擦り切れかけた小さな鞄。中身は着替えが2組と、裁縫道具と、薬草の図鑑が1冊。3度の嫁ぎ先を巡って、荷物はこれだけに削れた。どうせまた返されるなら、荷解きの手間は少ないほうがいい。


 北方辺境ルーデンベルク領。冬の長い、人口の少ない、王都からは馬車で6日かかる土地。

 4度目の縁談相手は、その辺境を治める公爵だという。


「——セシリア・グレイウッド嬢ですね」


 出迎えたのは、銀髪を後ろに撫でつけた痩身の執事だった。名をアルフレートといい、白い手袋の指先で1通の封書をつまみ上げた。


「こちらが、グレイウッド伯爵家よりお預かりした添え書きでございます」


 添え書き。縁談の際に花嫁の実家が相手方へ送る、いわば推薦状のようなものだ。普通は令嬢の美点や家柄の誇りが綴られる。

 アルフレートが封を切り、一瞬だけ目を走らせた。

 その眉が、ほんの1ミリ、上がった。


「……読み上げましょうか」

「いいえ。読まなくて結構です」


 中身は知っている。継母マルガレーテの筆跡で、こう書かれているはずだ。

 ——性格は従順。特筆すべき才能なし。返品歴3度あり、いずれも先方の都合による。使用に問題なし。

 物を売るときの注意書きと、大差ない。


「お初にお目にかかります。残り物ですが、お気に召さなければ早めに仰ってください。荷解きは1日で終わりますので」


 自分でも嫌になるほど滑らかに、その台詞が出た。

 3回も繰り返せば、傷つく前に自分で笑うほうが楽だと学ぶ。


 屋敷の玄関扉が内側から開いた。


 長身の男が一人、無表情のまま立っていた。暗い灰色の目。肩幅のある体躯を黒い軍服に包み、手には先ほどの添え書きの写しらしき紙を持っている。

 ヴァイス・ルーデンベルク公爵。

 噂通りの無愛想だ、と思う間もなく、彼はその紙に一度だけ目を落とし——


 びり、と。


 上から下まで、一息に破いた。

 破片が冷たい風に乗って、玄関先の石畳に散る。


「……公爵様?」

「二度とその言葉を使うな」


 声は低く、静かだった。怒鳴っているのではない。怒っているのだ。


「残り物、という言葉だ。自分に対して使うことも、この屋敷で誰かに言われることも許さない。——中に入れ。外は冷える」


 踵を返す背中を、セシリアは数秒、立ち尽くして見ていた。

 手の中の旅荷が、少しだけ重く感じた。


 与えられた部屋は、3度の嫁ぎ先のどれよりも広かった。


 暖炉に火が入り、窓辺には冬薔薇が1輪活けてある。寝台は2人分の幅があり、衣装棚は空のまま扉が開いていた。まるで、荷解きを待っているように。


 セシリアは旅荷を寝台の脇に置いた。開けなかった。

 翌朝まで考えて、やはり開けなかった。


「荷解きはなさらないのですか」


 3日目の朝、メイド長のヘルダが聞いた。初老の女性で、声にも態度にも辺境の寒さに鍛えられた実直さがある。


「もう少し様子を見てから」

「——何の様子を?」

「いつ出て行くことになるか、です」


 ヘルダは一瞬黙り、それから深いため息をついた。


「お嬢様。賭けの邪魔をしないでくださいまし」

「賭け?」

「この屋敷の使用人の間で、お嬢様がいつ荷解きをなさるかの賭けが始まっております。私は『3日以内』に張りましたのに」

「…………すみません」

「アルフレートは『10日以内に荷解き、かつ公爵様が笑顔を見せる』に張りました。欲張りですわね」


 セシリアは思わず小さく吹き出した。笑ったのは、いつ以来だろう。


 公爵との初めてのまともな会話は、その日の昼食の席だった。

 長い食卓の端と端ではなく、角を挟んだ隣り合わせの席。距離が近すぎる気がしたが、これがこの屋敷の配置らしい。


「何ができる」


 前置きなく聞かれた。切り出しが不器用すぎる。


「お裁縫と、薬草の見分けが少し。あとは——料理はそれなりに」

「この領地には薬師が足りていない」

「え」

「薬草園がある。明日から見てくれ」


 命令形だった。相談ではない。

 セシリアは目を瞬かせた。


「あの、3度破棄された嫁ぎ先すべてで、私の仕事は評価される前に終わりましたけれど」

「知っている」


 公爵が淡々と言った。


「グラーフ子爵邸では薬草畑を立て直した。レンツ男爵邸では使用人の子供たちに読み書きを教えた。カーステン伯爵邸では冬の保存食の配合を改善して、領民の食あたりの件数を前年の3分の1にした」


 セシリアの手が止まった。スープの匙が、皿の縁にぶつかって小さな音を立てた。


「……なぜ、ご存じなのですか」

「調べた」

「どこまで」

「全部だ。返品される前に何をしていたか、全員に聞いた。3家とも、お前がいなくなってから困っていると言っていた」


 公爵は食事の手を休めず、こちらを見もしなかった。


「添え書きに書くべきだったのは、そちらのほうだ」


 翌日から、セシリアは薬草園に出た。


 北方の気候に合う品種を選び直し、防寒用の木枠を作り、朝露の残る時間帯に土を確かめた。手は荒れるが、こういう仕事をしている間だけ、自分が何者でもない軽さを忘れられる。


 公爵は不定期に現れた。

 報告を求めるわけでもなく、ただ薬草園の端に立って、セシリアが土を触るのを見ていた。


「公爵様、何か御用ですか」

「ない。だが、ここの冬薔薇は植え替えたほうがいいのではないか」

「……お詳しいのですか?」

「いや。お前が先週そう呟いていたのを聞いた」


 聞いていたのか。


「鉢を変えるなら、温室の在庫を使え。足りなければ取り寄せる」

「まだ私がいつまでここにいるか分からないのに、そこまでしていただいて……」

「分からないのはお前だけだ」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 振り向いた時には、公爵はもう背を向けて歩き出していた。耳の端が、かすかに赤い気がした。


 5日目。


 衣装棚の扉がいつの間にか閉じられていて、その前に新しい外套が1着かけてあった。北方仕様の厚手の生地で、裏地に防寒の魔法が編み込んである。

 袖を通すと、ぴったりだった。


「公爵様の指示で仕立てさせました」ヘルダが微笑んだ。「採寸は到着日にこっそり。プロですので」

「……仮のものですよね。私がいなくなったら、他の方に」

「セシリア様。この屋敷に『仮のもの』は一つもございません。公爵様がそういうお方なので」


 旅荷は、まだ開けていなかった。


 7日目の夕方、公爵の書斎に呼ばれた。


 壁一面が書棚で、机の上には領地経営の書類が几帳面に積まれている。その奥に、ヴァイスが座っていた。

 手元に1枚の紙。

 見覚えのある封蝋。


「セシリア」


 名前で呼ばれたのは、この屋敷に来て初めてだった。


「お前の婚約破棄について、調査した結果を伝える」

「……結果?」

「3件とも、破棄の申し入れは先方からではなかった。お前の継母が、相手方に圧力をかけて破棄させていた」


 書斎の空気が凍った。


「グラーフ子爵には妹の縁談と引き換えに。レンツ男爵には領地交渉の便宜と引き換えに。カーステン伯爵には——」

「やめてください」


 声が震えた。体も震えていた。


 分かっていた。薄々、気づいていた。3度目が終わった時、継母が「これでようやく貴女の妹にも順番が回るわ」と笑った顔を、忘れたことはない。

 でも、証拠を並べられると話が違う。

 知っていたことと、突きつけられることは、まるで別の痛みだった。


「——お前が残り物にされたのは、お前のせいではない」


 公爵の声は、事実を述べるだけの温度だった。慰めでも同情でもなく、ただ調べた結果をそのまま伝えている。


 それが——どんな優しい言葉より、喉の奥を灼いた。


 セシリアは立ち上がり、一礼して書斎を出た。泣かなかった。泣いたら、また荷物をまとめてしまいそうだった。


 その夜、セシリアは旅荷に手を伸ばした。


 開けたのではない。紐を確かめたのだ。いつでも出て行ける状態か。結び目は緩んでいないか。革は裂けていないか。

 3回で覚えた点検を、指先が勝手にやっていた。


 翌朝、玄関にアルフレートが立っていた。手に1通の書状を持っている。


「セシリア様。グレイウッド伯爵家より正式な書簡が届いております」

「……中身は」

「セシリア様の帰還を求めるものでございます。カーステン伯爵家が、再縁を申し入れたとのこと」


 カーステン伯爵。3度目の婚約相手。領地経営の都合で破棄されたはずの、あの男だ。

 ——妹の縁談がまとまった今、セシリアを戻しても問題ない。そういう判断だろう。


 部屋に戻り、旅荷の紐を解いた。着替えを詰め直す。手が慣れすぎていて、悲しくなる暇もなかった。


 ここにいたい。

 でも、ここにいていい理由がない。公爵は怒って添え書きを破いてくれた。薬草園を任せてくれた。外套を仕立ててくれた。名前を呼んでくれた。

 けれどそのどれも、「いてくれ」とは言っていない。


 鞄の口を閉じようとした時、指が止まった。

 中から、1冊の薬草図鑑が落ちた。3つの嫁ぎ先で書き込みが増え、表紙はもうぼろぼろだ。最後のページの余白に、ルーデンベルクの冬薔薇の育て方を、昨夜書き足したばかりだった。


 ——ここに書いてどうする。出て行くつもりなのに。


 玄関先で、声が聞こえた。


「お前は何の権限でここにいる」


 公爵の声だ。低く、冷たく、しかし怒声ではない。セシリアがこの屋敷で一度だけ聞いた、静かに怒る声。


 階段を降りると、玄関広間にグレイウッド家の使者が一人、そしてその横に——カーステン伯爵本人が立っていた。


「ルーデンベルク公、話が早いほうがよかろう。セシリアは元々私の婚約者だ。家同士の合意で——」

「合意?」


 公爵が一歩前に出た。手に書類の束を持っている。


「グレイウッド伯爵家の継母マルガレーテが、妹の縁談を優先するために長女の婚約を意図的に破棄させた記録が3件分ある。グラーフ子爵との書簡、レンツ男爵の側近の証言、そしてカーステン伯爵——あなた自身が当家の領地交渉に応じた議事録」


 カーステン伯爵の顔から血の気が引いた。


「……それは」

「あなたは婚約者の人生を、領地3区画と引き換えに売った。その事実を、王宮の縁組管理局に報告する手続きは済んでいる」


 アルフレートが伯爵の背後に音もなく回り、玄関扉を開けた。


「お帰りの馬車は手配済みでございます。防寒の毛布もお付けいたしました。——添え書きは不要ですね」


 カーステン伯爵が押し出されるように玄関を出ていく。

 残ったグレイウッド家の使者に、公爵は最後にこう言った。


「伯爵家には今夜中に書面を届ける。内容は一つだ。——セシリア・グレイウッドの縁談に関する一切の権限は、今後、当家が引き受ける」


 使者が去り、玄関扉が閉じた。

 静寂の中、公爵が振り返った。

 階段の中ほどに立ったセシリアと、目が合った。


 セシリアの腕には、旅荷が抱えられていた。


「……出て行くのか」


 公爵の声は平坦だった。


「出て行くなら止めない。お前の足で来て、お前の意志で残るのでなければ意味がない」

「でも、私は」

「最初に言っただろう。残り物という言葉を使うなと。——お前は残り物ではない。最初から、そうではなかった」


 公爵が内ポケットから、折り畳まれた紙を1枚取り出した。


「これは、お前の添え書きだ。本来、あの家が書くべきだったものを、俺が書いた」


 セシリアは震える手でそれを開いた。


 ——セシリア・グレイウッド。薬草の知識に秀で、3つの領地で食の安全と教育と庭を守った女性。グラーフの子供たちは今も彼女の字を真似て書く。レンツの薬草畑は彼女が植え替えた品種が今年も実った。カーステンの保存食の配合は、彼女が去った後も領民が使い続けている。

 いずれの地でも、去った後に感謝され、戻ってほしいと言われた。

 特筆すべき才能なし、ではない。

 ——特筆すべきは、この人が関わったすべての場所が、彼女がいなくなった後に彼女を惜しんだということだ。


 文字が滲んで読めなくなった。

 涙だ、と気づく前に、声が降ってきた。


「俺がお前を選んだのは、お前が最後の候補だったからじゃない」


 公爵は近づいてこなかった。玄関広間の床に立ったまま、階段の途中のセシリアを見上げていた。


「3家に照会した。全員が同じことを言った。『あの人は、何も言わずにすべてを整えて去っていった』と。——去った後にしか気づかれない人間を、俺は最初から探していた。帳簿だけでは見えない、現場を支えている人間を」


 旅荷が、腕からずり落ちた。

 受け止める気力がなかったのではない。手が、もう鞄を握っていなかった。


「一つだけ、正直に書けなかったことがある」


 公爵がほんの少し——本当にほんの少しだけ、目を逸らした。


「添え書きの最後の行。本当はこう書くべきだった。——この人を手放す人間の気が知れない、と」


 セシリアは泣いていた。

 声を上げず、ただ涙が落ちていた。立っているのが精一杯で、旅荷は足元に転がっていた。


 公爵が階段を3段だけ上がった。ちょうど目線が同じ高さになる位置で止まり、右手を差し出した。


「荷解きをしろ、セシリア。——もう、どこにも行かなくていい」


 翌朝、セシリアは初めて衣装棚の扉を開けた。


 旅荷の中身を、一つずつ棚に並べた。着替えが2組。裁縫道具。そして、書き込みだらけの薬草図鑑。


 最後のページを開く。

 昨夜書き足したルーデンベルクの冬薔薇の育て方、その下の余白に一行だけ書き足した。


 ——ここが、わたしの場所です。


 旅荷は、空になったまま衣装棚の一番下に収まった。


 その日の昼食の席で、公爵は向かいではなく隣に座った。

 相変わらず不器用に、前置きなく口を開いた。


「ヘルダが賭けに勝ったそうだ」

「……え?」

「荷解き。10日以内だった。アルフレートは『公爵様の笑顔』の条件が足りず負けたらしい」

「公爵様、笑ったことあるんですか」

「今笑っていないか」


 セシリアは公爵の顔をまじまじと見た。

 口元が——ほんの1ミリだけ、上がっていた。


「……それは笑顔とは言いません」

「ではこれから練習する。お前がいるなら、理由には困らないだろう」


 セシリアは紅茶の杯に口をつけた。


 隣にいる人が、わたしの名前を知っている。わたしが何をしてきたかを知っている。そして、わたしの荷物がもう二度と必要にならないことを、静かに、確かに、最初から決めていた。


 旅荷のない食卓は、こんなにも軽い。


【作者から読者様へお願いがあります】


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