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風姿花伝 ―潜んでこそ、花―  作者: 秋澄しえる


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第三話 乱れ咲き

 天正十年六月二日、未明。


 世界は、溶解していた。


 京、本能寺。


 かつて仏の教えを説いた聖域は、いまやいまや巨大な踏鞴たたら坩堝るつぼと化していた。


 爆ぜる竹の音は銃声のように、崩れ落ちる梁の轟音は雷鳴のように。それら全ての騒音が、炎という紅蓮ぐれんの舌に舐め取られ、一つの低い唸り声となって京の夜空を震わせている。


 熱い、という次元を超えていた。


 吸い込む空気そのものが火であり、肺腑はいふを内側から焦がしていく。


 織田信長は、燃え盛る御殿の奥、広間に立っていた。


 白帷子しろかたびらは煤と返り血で汚れ、乱れた髪は熱風に煽られて逆立っている。


 だが、その瞳だけは、安土の夜よりも深く、鋭く、冴え渡っていた。


 敵兵の叫び声が遠ざかる。


 誰も、この炎の深淵へは踏み込めない。


 ここは、信長という「時分の花」が散るために用意された、貸切の舞台だ。


「…是非もなし」


 信長は、手にした槍を放り捨てた。


 乾いた音が、業火の咆哮にかき消される。


 恐怖はない。


 あるのは、奇妙なほどの「完成」への予感だ。


 自らの生涯という演目が、この圧倒的な熱量をもって完結する。そのことが、腹立たしいほどに心地よい。


 ただ、一つだけ。


 観客がいないことだけが、不満であった。


 腹に響く重音が鳴ったが、入り口の唐戸が焼け落ちた音だろうか。


 炎の壁が割れ、熱風が逆巻く。


 その裂け目から、一陣の、嘘のように涼やかな風が吹き込んだ。


 そこに、彼がいた。


 三年前、安土の月下で見た、あの少年。


 烏丸は、紅蓮の炎の中にあって、汗一滴かいてはいなかった。


 白拍子の水干は、降り注ぐ火の粉さえも弾き返し、雪原のように白い。


 薄墨色の瞳は、周囲の惨劇を「美しい背景」としか認識していないかのように、静謐せいひつだ。


 信長の口元が、ニヤリと歪む。


 やはり、来たか。


 死神が迎えに来たのなら、これほど美しい冥官みょうかんはあるまい。


「…あの時の、冠者かじゃか」


 信長の声は、かすれていたが、通りが良かった。


「待たせたな。…茶の一杯も出せぬぞ」


「お構いなく」


 烏丸の声が、炎の轟音を切り裂いて届く。


 彼は、燃え盛る廊下を、散歩でもするかのような足取りで進んでくる。


 床板が焼け抜けようとも、天井が崩れようとも、彼が歩く場所だけは「道」として保証されているかのように。


「夜が明けるな」


 烏丸は、信長の前、三尺の距離で立ち止まった。


 その瞳が、信長を射抜く。


 値踏みではない。


 熟れきり、腐ちかけ、今まさに地に落ちようとする果実の、最も芳醇な瞬間の輝きを確認している。


「新たな時の始まりよ」


 烏丸の手が、帯に伸びる。


 シュッ、という微かな音と共に、ついにその刃が抜かれた。


 『小烏丸・こがらすまる・いん』。


 露わになるその刀身。


 鋒両刃造り(きっさきもろはづくり)の異形は、鋼色ではなかった。


 黒。


 周囲の炎の赤をすべて吸い尽くし、凝縮したような、底なしの漆黒。それは武器ではない。


 歴史という巨大な樹木の、不要な枝を剪定せんていするための鋏だ。


「参ろう。あちらに、おおことにとって相応しい舞台をしつらえてある」


 烏丸は切っ先を天へ捧げ、くるりと背を向けた。


 その背中が誘っている。


 此岸ここではない、彼岸むこうへ。


 窮屈な「歴史の表舞台」から、永遠に続く自由な「裏舞台」へ。


 信長は、床に落ちていた弓を蹴り飛ばし、折れた太刀を拾い上げた。


 刃こぼれだらけの、無骨な鉄塊。


 だが、今の彼には、名刀・左文字さもんじよりも手に馴染む。


「参る」


 信長が踏み込む。


 戦うためではない。


 合わせるためだ。


 少年の舞に。


 その不可視の拍子ひょうしに。


 床板が爆ぜた。


 信長が振るう剛剣。それは炎を巻き込み、火龍となって少年に襲いかかる。


 対する烏丸は、振り返りざま、黒い太刀を一閃させる。


 接触音は、鉄と鉄がぶつかる音ではない。


 水晶と氷が衝突したような、硬質で透き通った音が響き渡った。


 烏丸が舞う。


 水干の袖が翻り、炎の渦の中に白い花を咲かせる。


 信長が追う。


 折れた太刀を指揮棒のように振るい、崩れゆく本能寺そのものを楽器として演奏する。


 右へ、左へ。


 二つの影が交錯する。


 実体と虚像。陽と陰。表と裏。


 相反するはずの二つが、極限の熱量の中で溶け合い、一つの螺旋となって昇っていく。


 自然と口をついたのは、敦盛の対句だ。


「一度生を得て!」


 信長が叫ぶ。


 喉が裂けんばかりの咆哮。


 それは辞世の句ではない。勝利宣言だ。


 この炎の中で、自分は「時間」という檻から解き放たれる。


「滅せぬ者のあるべきか…」


 烏丸が応える。


 その声は、相変わらず静謐で、しかし圧倒的な質量を持って信長を包み込む。


 黒い刃が、信長の太刀を撫でるように受け流す。


 二人の顔が、至近距離で重なる。


 信長の汗まみれの笑顔と、烏丸の陶器のような無表情。


 その一瞬、烏丸の薄墨色の瞳が、初めて感情の色を帯びて揺れた。


 潜んでこそ、花。


 少年の唇が、音もなく紡ぐ。


 その言葉が、信長の魂の根幹に触れた。


 次の瞬間、本能寺の大屋根が、ついに限界を迎え、崩落を始めた。


 巨大な火の塊が、頭上から降り注ぐ。


 逃げ場はない。


 だが、二人は止まらない。


 落ちてくる瓦礫さえも、舞の演出であるかのように、その隙間を縫い、飛び、回る。


 炎が視界を埋め尽くす。


 赤。朱。紅。


 その色彩の中で、烏丸の白さが、信長の黒さが、混ざり合い、溶け合い、そして昇華する。


 信長の太刀が砕ける。


 烏丸の刃が、信長の懐へと滑り込む。


 痛みはない。


 あるのは、魂が肉体から引き剥がされ、より高次の場所へと「持ち去られる」浮遊感だけ。


 信長は、炎の向こうを見た。


 そこには、見たこともない広大な荒野が広がっていた。


 天秤棒を担いだ影たちが、果てしなく続く道を歩いている。


「…あぁ、そうか」


 信長は笑った。


 最期の瞬間、彼が見たのは地獄ではない。


 終わらない旅の始まりだった。


 烏丸が、扇を掲げるように、黒い刃を天へ突き上げる。


 それが終幕の合図。


 轟音。


 光。


 熱。


 全てが一点に収束し、そして弾けた。


 二人の姿が、音と共に消失する。


 後に残されたのは、燃え落ちる寺と、誰もいなくなった焦土。


 そして、揺らめく炎の芯に、一瞬だけ、現実にはあり得ないほど美しい、氷の結晶のような冬の花が咲き、ふわりと闇へ溶けていった。



『風姿花伝 ―潜んでこそ、花―』【完】

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