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風姿花伝 ―潜んでこそ、花―  作者: 秋澄しえる


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第二話 見えざる水脈

 舞が終わった。


 残響すら残さぬ、完全な静寂。


 少年は、汗ひとつかいていなかった。


 彼は流れるような所作で膝を折り、信長の前に深く平伏した。


烏丸からすまと申す」


 その声は、少年の喉から発せられたとは思えぬ、能のうたいのような倍音を含んだ、朗々たる響きであった。


 烏丸は、床に額をつけながら、傍らに置いた太刀を、信長の眼前に差し出すように押し出した。


 黒漆塗りの鞘。


 そこに施された沈金ちんきんが、月明かりを浴びて鈍く輝く。


 信長の目が、細められた。


 紋だ。


 蝶の羽を広げた意匠。


 揚羽蝶あげはちょう


 織田家の定紋は「織田木瓜おだもっこう」である。だが、信長は、自らが平氏の末裔であることを誇示するために、時に揚羽蝶の使用も許容していた。


 だが、何かがおかしい。


 目の前の太刀にある揚羽蝶は、左右が反転している。


 『裏揚羽』。


「…貴様」


 信長の声が低く唸る。


 偽りの平氏(信長)の前に、本物の「平家の遺恨」が突きつけられたのだ。


「月の光があまりに冴えていたゆえ。…つい、古き血が騒ぎ申した」


 烏丸は顔を上げた。


 薄墨色の瞳が、信長を射抜く。


 そこにあるのは、天下人への畏怖ではない。


 遥か高みから、地上で争う人間たちを見下ろすような、冷徹な観察者の眼差しだった。


「小烏丸・こがらすまる・いん。我が一族の宿命しるしにて」


 信長は、口元を歪めた。怒りではない。


 自らの虚飾を見透かされたことへの、乾いた笑いだ。


 この少年は知っている。


 信長の天下が、所詮は砂上の楼閣であることを。そして、平家が海に沈んだように、織田の天下もまた、業火の中で消えゆく運命にあることを。


「よかろう。…その太刀、預けておく」


 信長は、斬ることを諦めた。


 この美しき化外けがいの者を、斬るには惜しいと感じたのだ。



◆◇◆◇◆



 それから、三年。


 歴史の表舞台では、織田信長の覇道が極まり、天下統一はもはや時間の問題と思われていた。


 だが、その巨大な光の足元には、必ず濃い影が落ちる。


 京、三条河原。


 そこは、生と死、聖と俗が混じり合う境界線だ。


 処刑された罪人の血の臭いと、魚を焼く煙、そして河原者たちの体臭が混じり合い、むせ返るような湿気が漂っている。


 その喧騒の中心に、一人の少年が座していた。


 烏丸である。


 泥濘ぬかるみの中に置かれた粗末な床几しょうぎ。だが、彼が座るだけで、そこは玉座のような冷厳な空気に包まれていた。


 三年前と変わらぬ姿。


 白拍子の水干は、泥ハネ一つない。


 彼の周囲には、言葉を持たぬ影たちがうごめいていた。


 「烏衆うしゅう」。


 を編む山窩さんか、猿を連れた傀儡師くぐつし、顔を編み笠で隠した遊女、勧進坊主に山伏。


 彼らは烏丸を直視しない。ただ、通り過ぎざまに深々と頭を垂れ、あるいは足元に小さな「石」や「木片」を置いていく。


 それは無言の報告書だった。


 石の形、木片の色、置かれた方角。


 それら全てが、各地の米の相場、兵の動き、権力者の健康状態を示す暗号となっている。


 烏丸は、手にした天秤棒を、指先ひとつで支えていた。


 皿には何も乗っていない。


 だが、その天秤は、常に微かに揺れ続けている。まるで、国の重さを量っているかのように。


「…西が、軽くなりましたな」


 烏丸の傍ら、商人姿の男が、低く囁いた。


 烏丸は答えず、天秤の皿に、黒い碁石を一つ、カチリと置いた。


 天秤が傾く。


「備中高松、水攻めのつつみが完成したか」


 烏丸の声は、さざ波のように静かだが、周囲の喧騒を切り裂いて男の耳に届く。


 羽柴秀吉の中国攻め。その戦況さえも、烏丸の掌の上にある。


 烏丸は天秤の傾きを見つめ、独り言ちた。


「世阿弥は言う。『男時おどき女時めどき』と」


 男は怪訝な顔をする。


 烏丸は、天秤の竿を指で弾いた。キィン、と硬い音が鳴る。


「商いにも戦にも、不思議と勢いづく『男時』と、何をしても手詰まりになる『女時』がある。今の織田家は、十年続いた男時が終わり、女時に入っているにも関わらず、無理に攻め続けておる」


「…勢いがあるのに、でございますか」


「勢いがあるのではない。止まれぬだけよ。引くべき時に引かぬ商いは、必ず破綻する」


 その時だった。


 河原の空気が、ふわりと変わった。


 風が止まり、鳥の声が消える。


 一人の虚無僧こむそうが、尺八を吹きながら近づいてきた。


 その音色は、鎮魂のようであり、また戦の合図のようでもあった。


 僧は烏丸の前で立ち止まり、尺八を止めると、無言で懐から一輪の花を取り出し、天秤のもう片方の皿に乗せた。


 紫の花。


 桔梗ききょうだった。


 烏丸の薄墨色の瞳が、細められる。


 黒い碁石(秀吉)よりも重く、紫の花(光秀)の方へ、天秤がガクリと傾いたのだ。


「…おさ


 烏丸は、天秤の傾きをじっと見つめていた。


 桔梗。明智光秀の家紋。


 その光秀が、中国攻めの援軍として出陣したはずが、その行軍の足音が、西ではなく、南へ向かって響いている。


 愛宕山で引かれたくじ。連歌会で詠まれた句。


 断片的な情報が、烏丸の脳内で一つの巨大な絵図を結んでいく。


「これぞ、『秘すれば花』か」


 烏丸は愉悦に口元を歪めた。


 万軍を動かしながら、その真意を悟らせぬ情報の空白。


 その空白こそが、敵にとっては最大の恐怖となり、味方にとっては最強の武器となる。


 明智光秀という男、ただの実直な武人ではない。稀代の興行師の才がある。


 烏丸は、ゆっくりと立ち上がった。


 腰にいた『小烏丸・陰』の柄に、静かに手を掛ける。


 彼の脳裏に、三年前の安土の月が蘇る。そして、これから訪れるであろう紅蓮の炎が重なった。


「時は、満ちた…か」


 烏丸の言葉に、周囲の烏衆たちが一斉に動きを止める。


 河原の空気が凍りつく。


「桔梗が揚羽蝶を喰らうかよ」


 烏丸は天秤棒を放り捨てた。


 カラン、という乾いた音が、時代の終わる音のように響いた。


 その背中には、少年とは思えぬ、くらい重圧と、隠しきれぬ愉悦が漂っている。


 彼は、自らの血脈が持つ因果――平家を滅ぼした源氏の末裔(明智は土岐源氏)が、偽りの平氏(信長)を討つという皮肉な円環を、誰よりも深く感じ取っていた。


「行かねばなるまい。最後の舞の、相手を務めに」


 烏丸が歩き出す。


 泥にまみれた河原者たちが、海が割れるように道を開ける。


 その先にあるのは、京、本能寺。


 風が、血と灰の匂いを運んできた。

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