第一話 月下の連なり
天正七年五月。
琵琶湖の湖面が、凍てついた鏡のように黒く凪いでいる。
その闇を睥睨するように聳え立つ安土城天主。
黄金と朱で塗り固められたこの巨大な楼閣は、夜になると呼吸を変える。昼間の絢爛という名の熱を吐き出し、代わりに死人の肌のような冷たい静寂を吸い込むのだ。
最上階、四角の段。
張り詰めた空気が、見えざる糸となって空間を縫い止めている。
蝋燭の火は灯されていない。ただ、大きく開け放たれた戸口から、鋭利な月光が差し込んでいるだけだ。
その青白い光は、金箔の壁に反射し、部屋全体を水底のような薄暗い青金色に染め上げていた。
織田信長は、中央に独り、立っていた。
身に纏うのは、戦装束ではない。かといって、くつろぎの小袖でもない。白綾の着物に、袴。飾り気のないその姿は、剥き出しの刃そのものだった。
視線は、虚空の一点を射抜いている。
瞬きひとつしない。
彼の周囲だけ、重力が歪んでいるかのような圧迫感がある。
信長の目前、闇に溶け込むように座す濃姫(帰蝶)は、膝の上で固く組んだ指の震えを抑え込んでいた。
夫の背中から立ち昇るものが、覇気などという生易しいものではないことを知っているからだ。
それは「飢え」だ。天下という巨大な獣を食らい尽くしてもなお満たされぬ、業の飢餓。
信長の右手が、ゆっくりと持ち上がる。
握られているのは、畳んだ時も先端が少し広がっている扇子、中啓。
だが、その握力は、扇の要を軋ませ、まるで敵将の首を締め上げているかのようだ。
「人間、五十年」
声は、喉からではなく、腹の底にある奈落から響いた。
歌ではない。呪詛に近い。
下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
右足が、高く上がる。
能における「運び」の優雅さはない。
大地を踏みしめ、地脈ごとねじ伏せるような、荒々しい踏み込み。
足拍子が板を打つ。
その音は、鼓膜を震わせるだけでなく、安土城という巨躯の背骨を伝い、淡海の底の泥まで届くかのように重く、鈍く、響き渡った。
板がきしむ悲鳴が、信長の孤独を際立たせる。
彼は舞っているのではない。見えざる敵――あるいは「時間」という名の怪物と、たった独りで斬り結んでいるのだ。
汗が飛び散る。
月光の中で、その飛沫が真珠のように光り、床に落ちて黒い染みを作る。
濃姫は息を殺した。
見てはいけないものを見ている。
神が堕ちていくのか、人が神へと昇っているのか。
その境界線が曖昧になる瞬間を、目撃させられている恐怖。
その時だった。
濃姫の肌が、粟立った。
温度が変わったわけではない。
黄金の間の「匂い」が変わったのだ。
血と鉄の匂いが充満していた空間に、ふいに、雨上がりの苔のような、あるいは古い墨のような、湿った静謐な香りが混じった。
視界の端。
信長の背後に広がる絶対的な闇――月光すら届かぬ死角に、一滴の墨が垂れたように、影が滲み出した。
少年だった。
いつ、そこに入ったのか。
扉が開く音も、衣擦れの音も、足音ひとつしなかった。
まるで、壁の金箔の隙間から、煙のように湧き出したとしか思えない。
年齢は十二、三。
信長の荒々しい生命力とは対極にある、結晶化された御影のような美貌。
透き通るような肌は、月光を反射するのではなく、透過させているかのように白い。
濡羽色の長い髪は、紐で束ねられることなく背中を流れ落ち、微風もないのに水中の藻のように揺らめいている。
身に纏うのは、白拍子の水干を模した装束。だが、その白さは尋常ではない。雪よりも白く、死に装束よりも潔癖な白。
濃姫は声を上げようとした。
だが、喉が凍りついたように動かない。
少年の瞳を見てしまったからだ。
薄墨色の瞳。
そこには、信長への殺意も、畏敬も、好奇心すらない。
あるのは、千年先から今この瞬間を見下ろしているかのような、圧倒的な「不在」の眼差し。
信長が扇を振り下ろす。
その剛の風圧。
刹那、少年が動いた。
模倣ではない。
信長が「陽」の極地で動くなら、少年は「陰」の極地で呼応する。
信長が右へ踏み込めば、少年は左へ流れる。
信長が天を仰げば、少年は地を俯瞰する。
まるで、信長の影そのものが剥がれ落ち、自らの意志を持って舞い始めたかのような錯覚。
二人の距離は、わずか三尺。
信長の放つ灼熱の覇気が、少年の周囲でだけ、ふっと消失する。
激流が深海に飲み込まれるように、荒ぶる感情が、少年の舞う指先ひとつで浄化され、透明な「無」へと変換されていく。
(…あやかし)
濃姫の唇が、音のない言葉を紡ぐ。
美しい。
あまりにも美しく、そして不吉だ。
信長の舞が「生への執着」であるなら、少年の舞は「死への誘い」。
甘美な毒のように、見る者の魂を彼岸へと引きずり込んでいく。
信長の足拍子が、不意に乱れた。
背中を走る悪寒。
百戦錬磨の武人の勘が、脳髄に警鐘を鳴らしたのだ。
自分の背後に、自分の命の輪郭をなぞる「何か」がいることにようやく気付いた。
――其処かッ!
信長の咆哮と共に、黄金の間に銀閃が走った。
旋回の遠心力を乗せた『へし切長谷部』の一撃。
それは殺意の塊となって、背後の闇を薙ぎ払う。
濃姫は畳の上で身を硬くした。
彼女はただ、目前で繰り広げられる夫の凶行と、その結末を直視していた。
だが、刃は空を裂いただけだった。
手応えがない。
少年は、信長の刃風すらも「伴奏」にしたかのように、ゆらりと上体を逸らしただけだ。
水面に映る月を斬っても、波紋が広がるだけで決して断ち切れないように。
少年は、襲い来る殺意を柳の如き柔軟さで流し、水干の袖ひとつ斬らせずにそこに在った。
信長は残心の構えのまま、荒い息を吐いた。
斬れない。
武人の本能が告げている。
こやつは肉体を持ってはいるが、その実体は霞に近い。
「…興が削がれた」
信長は刀を放り出し、ドカリと床に胡座をかいた。
爛々(らんらん)とした眼光で、少年を見据える。
信長が座したその瞬間、黄金の間は「殺しの場」から「舞台」へと変貌した。
「舞ってみせよ。その身一つで、余を酔わせてみせろ」
少年は、表情を変えなかった。
ただ、薄墨色の瞳が、月光を吸い込んで妖しく光る。
彼はゆっくりと、手にした長い布袋から一振りの太刀を取り出した。
鞘の先端が鋭く反り上がった、鋒両刃造の異形。
少年の体躯には不釣り合いなほどに長く、重厚な太刀だ。
彼はそれをうやうやしく床に置く。
静寂。
少年は、太刀に向かって深く一礼した。
それは武器に対する確認ではなく、己の半身に対する敬意であり、これから始まる儀式への奉納のようにも見えた。
彼が顔を上げると、その身から目に見えぬ冷気が放たれた。
少年が立つ。
舞が、始まった。
能であって、能ではない。
白拍子の舞に似てはいるが、それだけではない。
すり足が板を滑る音は、小川のせせらぎのように涼やかだ。だが、踏み込みの瞬間、床板が悲鳴を上げるほどの重力が加わる。
静と動。重と軽。
相反するはずの要素が、少年という器の中で完璧に融合していた。
信長は、瞬きを忘れた。
目の前で舞っているのは、子供ではない。
歴史という名の巨大な奔流そのものに思えた。
袖が翻るたびに、安土の黄金が色褪せ、彼方にある「滅び」の風景が重なって見える。
それは恐ろしくも、涙が出るほどに美しい光景だった。
濃姫の肌が粟立つ。
この少年は、人ではない。
神か、あるいは平家が海底から放った怨霊か。
少年の動きが加速する。月光の中で、その白い姿が残像となり、無数の白鳥が羽ばたく幻影を見せた。
安土の夜は、まだ明けない。
だが、舞が終わった瞬間、歴史の歯車は音もなく、しかし確実に、「破滅」という名の終着点へ向かって回転を始めていた。




