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マルガレーナの結婚

作者: 彩季

【一】


 その日、レナは緊張しながら、蝋燭の灯りを頼りに、アントン・クラインの部屋を訪れた。


 レナは十八になったばかりだったけれど、すでに奥方と呼ばれる立場だった。先月結婚したのである。

 五月の美しい薔薇に囲まれて、教会で愛を誓った時、レナと同い年の夫アントンは出会って三ヶ月、顔を合わせるのは三回目ぐらいだった。


 初めてアントンに会ったとき、レナは気後れした。

 むさ苦しい屈強な男たちの中で育ったレナにとって、垢抜けて中性的な美しさのあるアントンはほとんど未知の生物だった。

 小さな頃から病弱だったせいで、血管が透けて見えるほど青白い肌は、彼の美しさに儚さを添えている。さらさらとしたシルヴァーブロンド。澄んだ湖のような色の瞳は、吸い込まれるようだった。

 一方レナは、赤毛で背が高く、本を読んだり刺繍をするよりも、剣の稽古を好んできた。そればかりではなく、レナにはある呪いがかかっていた。夫となるアントンが、どうしてレナみたいな娘との結婚を承諾したのか、レナには不思議だった。

 

 ノックをして入ると、アントンがベッドから半身を起こしていた。


「起きていて良いのですか?」

「うん。今日は体調が良いんだ」


 レナは緊張のあまり、ごくりと唾を飲み込んだ。

 アントンは、結婚式の日から臥せっていた。肺の病気らしく、レナが見舞いにいくといつも咳き込んでいる。なので、実のところ、レナは夫とベッドを共にしていないばかりか、教会での誓いのキスが、最初で最後だ。あれから指先ひとつ触れていない。


 だから今朝、朝食の席で突然、アントンに「今夜部屋に来てほしい」なんて言われたときには、レナのいつもの仏頂面は真っ赤に燃え上がり、耳はピンと立ち上がった。


 アントンは膝の上に本を乗せていた。レナはテーブルに蝋燭を置くと、手持ち無沙汰に立っていた。


「もうここには慣れたかな? 不便はない?」

「あ、はい・・・・・・」

「こんな頼りない夫でごめんね。新婚なのに」

「い、いえ・・・・・・」


 レナは、思っていることの二割も口にすることができない。

 本当は、慣れない場所にひとりぼっちで寂しいけれど、ここでは好きに馬に乗ることができるので気が晴れること、一生お嫁に行けないと思っていたのに、アントンと結婚できて嬉しいこと、などを伝えたかったけれど、言葉は口のなかで渋滞を起こして、出てこなかった。

 レナはやっとの思いで言葉を繋げた。


「私は、この耳のせいで・・・・・・“野獣”と呼ばれていました。魔女の呪いです。そんな私に結婚を申し込んでくれる方がいるとは、思いませんでした」


 アントンは、レナがいつもよりよく喋ったので驚いたようだ。目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。


「そんなこと気にしていたの」


 今度はレナが驚く番だった。この耳のせいで、レナは呪われた娘だと忌み嫌われてきた。そんなこと、だと言われたのは初めてだった。


「君と結婚できて嬉しい。その剣の腕も、壮健な身体も、僕が持ち得なかったものだ。それに、君のふさふさの耳は、野獣というよりは、狐か犬だ。こっちにおいで」


 レナはドキドキしながら、ゆっくりベッドに近づいた。


「もっとこっちに」


 ベッドの端を、ポンポンと叩く。レナの心臓は早鐘のようで、息苦しいくらいだった。いよいよ、その時がきたのかと、身を強ばらせながら、アントンの命ずるまま腰を下ろした。これから夫婦の間に何が起こるのか、レナは聞き知っていた。だけど、実際どんなものなのかまったく想像もできない。未知の世界に足を踏み入れるのだ。


 アントンは、膝の上に開いていた本を閉じた。

 そしてーー。

 そして、その本で、レナの頭を叩いた。


「ぐへっ」

「い、いたっ……え?」


 突然のことで、何が起こったのかわからなかった。それに、「ぐへっ」という、自分ではない別の声も聞こえた。いったい何が起こったのだろう? 叩かれた頭を押さえていると、アントンが叫んだ。


「出てきた! レナ、捕まえて!」

「え? は、はいっ」


 アントンの指差す先には、レナがはじめて見る生き物がいた。コウモリのような羽根をばたつかせた、手のひらサイズの人型の生き物だ。


「えいっ」


 レナはベッドにダイブし、逃げ惑うソレをむんずとつかんだ。ソレは叫び声をあげて、レナの手の中でもがく。


「これで縛って!」


 アントンに細いリボンを渡される。レナは言われるがまま、その生き物をぐるぐる巻きに拘束した。レナはリボンを巻きながら、その生き物をまじまじと見た。


「なにするのよー! もう!」


 ぷりぷりと怒っている。物凄く艶かしい女性だった。コウモリの羽根が生えて、下着のような服を着た、長い黒髪の、とてもとても小さな女のひと。頬を膨らませて、レナを睨んでくる。


「妖精?」

「そんな低俗なものと一緒にしないで! 私は由緒正しく格調高い、物凄く邪悪な悪魔だもん!」


 言われてみれば、彼女の格好は悪魔的だ。角も生えている。だけど学校では、悪魔は人間とほとんど変わらない大きさだと習った。手のひらサイズのものが妖精だ。

 小さな悪魔はしなだれると、潤んだ瞳で、今度はアントンを見た。

 悪魔には見えなかったけれど、でも確かに、レナのような朴訥とした女にとって、この小さな女のしぐさや物言いは、女として邪悪に見える。


「アントン、これは……」

「君の中に入ってたんだ。ようやく出し方がわかったから君を呼んだの。そのままソレ、捕まえてて」


 レナを叩いた本を、アントンは再度開いた。よく見れば、表紙に魔方陣が描かれている、魔術書だった。


「私の中に? いつからですか。それにアントン、魔法が使えたんですか?」

「うるさいな、ちょっと黙ってて。見たところ、大分弱ってるね。僕でも契約できそうだ」

「ちょっと、この紐ほどきなさいよ、それにそこの若造、そんなちっぽけな魔力で私をどうにかするつもり?」


 レナは驚いて声がでなかった。アントンに、うるさいと言われた。突き放すような言葉を、彼から言われたのは初めてだった。それに、いつものアントンではない。優雅な微笑みはなく、底意地が悪そうに、口の端を持ち上げてわらった。


「契約をしたいんだ」

「ふうん? 私と契約するの。違えた場合、魂を食われるのは知っていて?」

「知っている。約束は守る。だから僕の頼みを聞いてくれ」

「この娘の呪いが解きたいの? とりつく前からわかっていたけれど、野獣の呪いがかけられているわね」

「いや、違う。妻の呪いの事じゃない。僕の身体から病魔を追い出してほしい」


 レナは、事態が飲み込めないまま、二人のやり取りを聞いていた。自分の中に悪魔がすみついていたというのも驚きだったし、アントンは、どうやら、悪魔と契約しようとしている。一般家庭以上の教育を受けた者ならば、悪魔との契約が禁忌であることはよく知っていた。


「僕と契約しないの? するの? 早く僕の望みに見合う要求を教えてよ。じゃないと、この本の中に載っている、初級悪魔の撃退呪文ってやつを、唱えちゃうよ?」


 アントンは悪魔を急かした。縛られたうえ脅されて、悪魔は気を悪くしたのか、アントンを無視すると手の中からレナを見上げた。


「ちょっと、この男、あなたの恋人?」

 レナが答える前に、続ける。

「私、この男はやめた方がいいと思うよー? ぜったい、外面よくて家庭ではふんぞり返ってるタイプ」

「夫です」

「まあ、それはご愁傷さま」

 あら、と悪魔は口を押さえたけれど、悪びれる風もない。

「どうして私の中に入ってたの?」

「今、六月でしょ? 私、七月の悪魔なの。ちょっと早く目覚めちゃって、まだ力が戻ってないの。このままじゃ猫に襲われても撃退すらできなくて、どうしようかと思っていたら、偶然あなたが通りかかって、あんまり頑丈そうな子だったから、とりついてあなたの中で眠っていたの。七月になったら出ていく予定だったのよ?」


 レナがひとつ喋る度に、悪魔は十も喋る。

 アントンが本を勢いよく閉じた。

その音で、女性二人、女型の悪魔を女と言うのなら、だけど、女性二人は黙った。


「契約しないの? するの?」


 悪魔は、大きな猫目の瞳を細めて、アントンを睨めつけた。


「ふん、仕方ないわね、契約するわ。私は七月の悪魔ダーリエ。あなたの病気は、病魔によるものじゃない。あなたの身体、魔力に拒否反応起こしてる。魔力をとりのぞけば、健康な身体になるはずよ。それでいい?」

「こんな微量の魔力なんて、あってないようなものだ。なくなっても気にしない」

「なら、私の要求を言いましょう。私をシララキの森に住む魔法使い、ヴィルヘルム・ドールのもとへ連れて行きなさい。そうすれば、私はあなたの魔力を取り除きます」


 レナは身を竦めた。アントンが、悪魔と契約をしてしまった。それに、彼女は何と言った?


「シ、シララキの森の魔法使い? だめよアントン、あの魔法使いの住む森には決して近づいてはならないって、言われているわ」


 しかし、アントンはレナを無視して、ダーリエに頷いた。


「いいとも。君をシララキの森へ連れて行く」

「アントン!」


 レナが叫ぶと、アントンは煩わしそうにレナを見た。


「なんだよ、夫の病気がなおるのが嫌なわけ? もしかして、君の野獣の呪いを解いてほしかったの?」


 レナは首を振った。アントンの病気がなおるなら、何でもしたいと思っていた。だけど、シララキの森で殺されてしまったら元も子もない。それに、アントンの言いぐさがあんまりだった。


「さあ、支度をして。使用人や両親たちには、新婚旅行に出掛けたことにしておこう」

「私も行くんですか?」

「そうだよ。何のために君みたいな娘と結婚したと思ってるの?」


 レナはどきりとした。今までずっと、疑問に思ってきたことだ。おそるおそる、レナは聞いてみた。


「・・・・・・どうしてですか?」

「君が付け入る隙のある悪魔につかれていて、武芸に秀でていて、役に立ちそうだったからだ。それ以下でもそれ以上でもない」


 レナの胸に、悲しみが広がった。レナは、ほのかにアントンに恋心を抱いていた。馬鹿みたいだ。アントンは自分の事など、道具のようにしか思っていなかったというのに。レナだけ、夫婦に愛が生まれることを、期待していた。


「安心しろ。病気が治っても、離縁などは考えていない。君は丈夫な子どもが産めそうだからね」


 アントンはそう言って、レナに追い打ちをかけた。


「さ、契約が成立したら、ほどいてよー、このリボン!」


 レナは、手のひらに乗っている悪魔を解放した。とても惨めな気分だった。耳はしょんぼり垂れ下がっている。

 だけれど、アントンの病気が治るのであれば、協力しようと思った。レナに、それ以外の選択肢はない。どんなに酷い人でも、これから何十年も一緒に生きていく人なのだ。


「出発は明朝だ」


 アントンは満足げに言った。


 こうしてクライン夫妻は、昨今貴族の間で流行っている、治安の良い南のリゾート地へのバカンスではなく、馬にのり、危険な北の森を目指す、前例のない新婚旅行へと旅立つことになった。



【二】


 クライン夫妻の住むローゼン・ガルテンからシララキの森までは、馬で急げば二日の距離だった。レナはアントンの体調が心配だったけれど、アントンは時間のかかる馬車での旅を拒否し、馬での旅を強行した。


 レナはドレスではなくズボンをはいた。正直、こちらの方が動きやすいし、自分に似合っていると思っていた。腰には剣を携えている。結婚してからは一度も振るっていないけれど、北への道は治安が悪いから、護身用に持ってきた。


 小さな悪魔のダーリエはというと、レナの肩に座っている。彼女は非常におしゃべりだったので、レナは道中ずっとダーリエの相手をすることになった。


「シララキの森の魔法使いはね、恋人なのよ。七月の間だけね。私は八月になったら、またおやすみするの。あなたは何で呪いをかけられているの?」


 悪名高い魔法使いの恋人が悪魔だというのは、妙に納得できた。レナは、過ぎ行く野原を眺めながら、なんとなしにダーリエの話を聞いていたので、急に訪ねられてまごついた。


「えっと・・・・・・私がお腹にいるときに、魔女が呪ったの。どうして呪われたのか、わからない」

「呪いを解かないの? いずれ野獣になってしまうのでしょ?」


 斜め後ろにいたアントンが反応した。どうやら、二人の話を聞いていたらしい。


「野獣になる? そんなこと、言っていなかったじゃないか」

「あ、はい・・・・・・野獣になる呪いなんですが、私はとても頑丈で、呪いの進行もゆっくりだし、せいぜい、あと尻尾が生える程度らしいので」

「ふうん・・・・・・ていうか、旅に出てから、なんでそんなよそよそしいの?」


 レナは怯えながらアントンを見た。アントンに言われたことがまだレナを苦しめていた。そこに愛はない、役に立つから結婚したのだと言われたことを思うと、また涙が滲みそうになる。それにレナの好きだった優しいアントンはどこかに行ってしまったようだ。本性をあらわしたアントンは常に不機嫌そうで、レナは距離をおいていた。


「気のせいではないでしょうか・・・・・・」


 そう返してみるものの、探るような視線を感じて、レナはアントンの方を見ることができなかった。


 一行は泉のほとりで休憩した。屋敷から持ってきたサンドイッチで昼食をとる。呑気な午後のピクニックのようだった。

 ダーリエはあくびをした。レナのひざですやすやと寝息をたて始める。おしゃべりを聞いているのも疲れたけれど、しゃべっていてくれた方が良かったかもしれない。レナは食事を終える間、アントンとの沈黙に耐えなければならなかった。


 その時だった。

 背後から、馬がいななく音が聞こえた。

 レナとアントンがそちらに目をやると、金の甲冑に白いマントをつけた兵たちが、こちらに向かってきた。男たちは剣を抜いている。レナは木に立て掛けていた剣をとった。まさか、こんなに早く剣を抜くことになるとは思わなかった。


「アントン、馬を! ダーリエ、起きて!」


 男たちの目的もよくわからぬまま、レナは最初にたどり着いた兵と剣を交えた。重い衝撃が腕に走る。受け止めた衝撃で、レナは後ろにずり下がった。

 のどかな田園風景が、急に血生臭い争いの場に変わる。


 レナの父は将軍で、レナも兄弟に混じって剣の稽古をしてきた。並みの男になら負けない自信があったけれど、男たちは腕がたつようだ。

 レナは剣を振り払うと、アントンを抱き抱えた。馬にのせると、自身も飛び乗る。そうして馬の腹を強く蹴った。ダーリエが飛んでついてくる。


「ダーリエ、このままじゃ追い付かれちゃう・・・・・・なんとかできる?」

「せっかく気持ちよく寝てたのに! いいわ、あれを追い払う代りに、さっきのサンドイッチもうひとつちょーだい?」


 悪魔はなんでもかんでも契約にするようだ。それに、要求に見合う対価は、悪魔の主観で決まるらしい。


「全部あげるよ!」


 必死に馬を走らせながらレナが叫ぶと、ダーリエが風を巻き起こした。しかし巻き起こった風は、そよ風として、兵たちの頬を優しく撫でていっただけだった。

 ダーリエは悔しそうに、レナの頭の上で地団駄を踏んだ。


「あーん、無理よ、まだ七月じゃないもの!」

「ちょっとレナ、手、どけて」


 手綱をとるレナの前、向かい合わせに座っているアントンが魔術書を取り出している。レナが身を少しどかすと、アントンがなにやら呪文を唱えた。


「えーと・・・・・・これなんかどうかな、ヴェロッタまし!」


 すると、急に周りが静かになった。水の中にいるように、風景も音もぼやけている。どこか別の空間を走っているような気がした。

 レナたちは、無我夢中で走った。

 やがて魔法が切れると、森のなかを走っていた。レナは様子をうかがう。兵たちが追いかけてくる気配はなかった。


「良かった・・・・・・アントン、助かりました」


 しかし、アントンからの返事はない。


「アントン? アントン、しっかりして!」


 レナの前に座っていたアントンは、ぐったりと身をレナに寄せてきた。身体がとても熱い。ダーリエがアントンの様子を見て言った。


「あーあ、耐性がないのに、魔法なんか使うからよ。でも、アントンが目眩まししなければ、あいつらに捕まってたけど」

「どうしよう、どこか休憩できる場所・・・・・・宿を探さなければ」


 レナは泣きそうになりながら森を抜けた。幸いにも、夜のとばりが降りる前に、宿にたどり着くことができた。アントンは息が荒く、汗をかいている。高熱を出しているようだ。宿のベッドに横たえると、アントンはようやく薄目を開けた。


「あいつらは・・・・・・なんだ?」


 レナは、父について王宮へ行ったときのことを思い出していた。あの格好には見覚えがあった。


「あれは王宮の兵たちだと思います」

「なんで僕たちを襲ったんだ?」


 アントンは苛立ちを隠そうともせずレナに聞いたが、レナに分かるはずもなかった。するとダーリエが、はいっと手をあげた。


「あ、それね、たぶん私を襲ったの。数年前、いたずらで王宮の書庫を焼いたんだ。それで私、目覚めるたんびに王宮付き魔法使いに察知されて、殺されそうになるのよね。力が戻っていれば返り討ちにしてたんだけど」


 レナとアントンは呆れてダーリエを見つめた。明らかにこちらが悪者だった。ダーリエはこうしているとただのおしゃべりな女にみえたけれど、邪悪な悪魔だと言うのは、本当なのかもしれない。


「でも大丈夫。もうすぐシララキの森でしょう? あいつら、あの森の近くまでは追ってこないから。私の魔法使いが怖いのよ。ああ、眠たい。まだ六月だもの。私、ちょっと寝るわ。出発するとき起こして」


 矢継ぎ早にそう言うと、ダーリエは隣のベッドの枕に飛び降りて、猫のように丸まって寝息をたて始めた。

 ダーリエの寝顔を見たら、レナはようやく安堵して、どっと疲れを感じた。

 ふうと息を吐くと、アントンの険しい声がとんでくる。アントンの苛立ちは収まらないようだ。必要以上にレナに噛みついてくるのは、熱のせいもあるだろうか。


「言っておくけれど、ここまで来て、帰らないからね?」

「わかっています。願わくば、シララキの森の魔法使いが、私たちに害を加えないことを祈ります」

「なんだよ、その言い方は。今さら後悔しても遅いよ。それに、もう森はすぐそこだ。危ない目にはあったけど、無事にたどり着けそうじゃないか? そうしたら、僕のこの生まれつきの体質も変わる。君も、病弱な夫より、健康な夫の方がいいだろう?」

「いえ・・・・・・」

「はっきり言えばいい。弱い男は嫌だって」

「そんなこと思っていません」

「言えよ。結婚して後悔してるって」


 レナは困惑していた。アントンは明らかに普段の様子とは違い、苛立っていた。だけどなぜそれをレナが黙って受けなければならないのだろう? レナは、こんなふうに感情を人にぶつけるのは初めてだった。だけど我慢ができなかった。


「ええ、後悔しています! あなたと結婚したことを」


 言ってしまってから、ハッとした。今のは、言ってはいけないことだった。しかし、口から出てしまった言葉を戻すことはできない。もう遅かった。アントンは先程とはかわって、静かな冷たい目でレナを見つめた。


「・・・・・・ようやく君の本音が聞けたよ」


 アントンは、シーツを被ると、そっぽを向いた。


「ア、アントン・・・・・・今のは・・・・・・」


 しかしアントンはいくら呼び掛けても答えなかった。

 レナは項垂れると、ランプの灯りを消して、ダーリエに枕を取られてしまったベッドに入った。アントンの寝息は聞こえない。

 アントンが怒るのはもっともだった。結婚したことを後悔しているだなんて、嘘でも言ってはいけない言葉だ。しかし、先にレナのことを、拒否したのはアントンではないか? レナもムカムカと苛立ちを感じながら、シーツにくるまる。苛立ちがおさまると、次には悲しみが襲ってきた。レナはシーツで涙をぬぐいながら、眠りについた。



 明け方ごろ、咳き込む声で目が覚めた。

 となりのベッドをみると、アントンが身体を起こして、苦しそうに咳をしていた。レナはおきあがり、ためらいながらベッドから出て、彼の背中をさすった。


「大丈夫ですか? 水・・・・・・薬を出しましょうか?」

「君、実家に帰りなよ。馬に乗って行っていいからさ。ここからは、僕ひとりで行く。離縁したいなら、そうしてあげる」

「そんなことは言ってません」

「だけど幻滅したんじゃない? 妻に守ってもらうことしかできない夫なんて。襲われたとき、怖かっただろう。もし僕が普通の男だったら、君は体を張ることなんてなかったのに」


 レナは、ハッとした。アントンは、幼少の頃から身体が弱く、外に出ることができなかったと聞く。レナが女性らしさを持たない自分に劣等感を感じているように、アントンもそうだとしたら? イライラとしているのは、レナにではなく、自分自身に憤っているのだろうか? レナはしかし、胸のうちでうずまく感情をうまく言葉にできなかった。

 レナが何か言葉を繋げるか、アントンは待っていたようだけれど、やがてアントンはため息をついた。


「マルガレーナ。君って人形みたいに表情がよめないし、僕には滅多にしゃべらないし、その耳でしか感情を伝えてくれないんだね。さっきから垂れ下がってるよ」


 レナは唇を湿らせた。伝えなければ、伝わらない。レナは初めて、自分から感情を伝えたいと思った。


「結婚したのを後悔してはいません。私が悲しかったのは、役に立つから結婚したのだと、言われたことです。怖かったのは、あなたを失いそうだったから。幻滅なんてしません」


 アントンは、レナを見つめた。レナはみじめな気持ちで俯いた。アントンはしばらく、何か思案しているようだった。明け方の薄い明かりが窓から差し込んで、ベッドに影を落としている。アントンはやがて口を開いた。


「・・・・・・君は僕に愛されることを期待していたの?」


 その答えに、レナはしばし考えたあと、呟いた。


「夫婦ですから」


 家同士の決めた結婚だった。アントンのことを、レナはほとんど知らない。アントンだって、レナのことを知らない。レナは伝える努力もしてこなかった。求めるばかりではダメなのだと、この時ようやく、レナはわかった。夫婦とはきっと、二人で作り上げていくのだ。


 またアントンが咳き込んだ。

 ゴホ、ゴホ、と口をおさえてかがみこむ。


「だ、大丈夫ですか?」


 レナはベッドにかがみこんだ。身を寄せて、アントンの背をなでる。

 すると・・・・・・急に咳が止まって、アントンと目があった。その青に吸い込まれそうだと思った瞬間、レナはアントンにキスされていた。

 

 レナは驚いて固まった。ふれあう唇は、教会での誓いのキス以来だった。

 唇がはなれると、アントンは口の端を持ち上げて、いたずらっぽく笑った。


「今のは、嘘」


 レナはしばらく呆けていた。アントンの言葉の意味を飲み込むまで時間がかかった。

 咳き込んだのは、レナをおびきよせる嘘だったと、そう言ったのだろう。

 レナは全身が熱くなるのを感じた。


 だけど、今の話の流れで、何故、キスされたのだ?


「さあ、もう少し、寝なよ。もう明け方だけど、まだ一時間は眠れるでしょう」


 アントンはシーツを被ると、またそっぽを向いて寝てしまった。シーツから出ているアントンの耳は、赤い。熱のせいだけではないだろう。それを見たレナは、急にもどかしい気持ちが込み上げてきて、胸が苦しくなった。アントンは、きっと寝たふりをしている。もう一度ベッドへ戻ったけれど、レナにも眠気はやってこなかった。


【三】

 アントンの熱は大分良くなったようで、日が上ると、予定通り出発した。

 宿から二時間ほどで、シララキの森のある山が見えてきた。昼過ぎには魔法使いの居城にたどり着きそうだった。

 ダーリエは、魔法使いがレナたちに気害を加えない事を約束した。だけど森が近づいてくると、緊張が増してきた。


 森への道の途中、黄色い花をつけた植物が群生しているのを見つけて、一行はそこで休憩することにした。宿で作ってもらった昼食を食べる。


「レナ、水をとってくれる?」

「あ、は、はい・・・・・・」

「ありがと・・・・・・」


 レナはアントンの顔をまともに見ることができなかった。アントンも、どこか物言いが丁寧だったし、レナの様子につられてぎこちない。ダーリエがその様子をからかった。


「ねえ、私が寝ている間に何があったの? ぜったい何かあったでしょ! ねえ、ねえ、ねーったらあ、教えてよー!」


 しかし、レナもアントンも答えない。ダーリエはひとり仲間はずれにされて拗ねている。

 レナはアントンを盗み見た。チーズをかじっているアントンと、目が合う。すると、どうにも恥ずかしくなって、黒パンをかじることに夢中になっているふりをした。


 ダーリエの言う通り、もう兵隊に襲撃されることはなかった。

 シララキの森には、順調に何事もなくたどり着いた。青い小さな実のなる白木の森は、幻想的で美しい。それはラピスラズリの宝石に例えられる実で、レナは本の中でしか見たことない風景に息を飲んだ。


 魔法使いは森の奥にある古びた城に住んでいた。半壊しているドアの外で、関係性のわからない少女とアフタヌーンティを楽しんでいた。魔法使いはまだ若く見える。少女とは、年の離れた兄妹のようにも見えるけれど、似ていないので、弟子だろうか。噂に聞く魔法使いとは、ずいぶん印象が違うようだ。

 ダーリエは魔法使いを見るなり、その頬に飛び付いてキスの嵐をふらせた。


「ヴィル! 一年ぶりー! 会いたかったよお」

「ダーリエ・・・・・・君、まだ六月だよ?」


 魔法使いはダーリエを頬から引き剥がすと、レナたちを見た。あきらかに嫌な顔をする。弟子の少女はというと、ダーリエに目が釘つけになっていた。


「人間を連れてきたのか?」

「ごめん、ヴィル。あなたが人間嫌いなのは知っていたけど、でも契約をしたの。ここまで連れてきてもらったのよ」


 アントンは魔法使いに怯むことなく、馬を降りて、前に進み出た。


「ダーリエ、これで対価を払えたか?」

「ええ、確かに」

「では僕の要求も聞いてもらう。・・・・・・しかし、まだ七月には遠い。力がなくてもできるのか?」

「うん、それは出来るよ。サンドイッチを食べるみたいに、魔力を食べちゃうの。私の力も少し戻って、一石二鳥よ」


 ダーリエは自信たっぷりに請け合った。

 しかしアントンは、奇妙な顔をして、レナを見た。レナはわけがわからず見つめ返した。アントンはまたダーリエに向き直った。


「要求を変えることはできるか?」

「どういうこと?」

「・・・・・・僕の魔力を抜き取るのではなく、妻の・・・・・・レナの呪いを解いてほしい」


 レナは驚いて馬から飛び降りた。


「アントン! 何をいってるの!」

「だって・・・・・・君はその耳を気にしているんだろう? 僕は気にならないけれど」

「でも、あなたの病気を直すために来たんでしょ? それに、アントン、あなたが気にならないなら、私は耳と尻尾があっても気になりません」

「でも・・・・・・」


 言い合う二人の前に、ダーリエがふよふよと飛んできた。


「まってまって。残念だけど、契約を変えることはできないわ。あと、やっぱりあんたたち、何かあったわね?」


 レナはアントンと目を合わせて、そして同時にそらした。それを見て、ダーリエはニヤニヤと二人を見比べた。


「レナの呪いは、そこにいる魔法使いに解いてもらったら? 数年前、ヴィルは野獣にされた男の呪いを解いたことがあるから、実績は確かよ。さあ、アントン。あなたの魔力をくださいな」


 ダーリエはアントンに近づくと、やけに鋭い犬歯を剥き出して、アントンの口にかぶりついた。


「んむ!」


 アントンは眉を寄せた。レナは、口を開けたままアントンとダーリエを見守った。そして、もう二度と、夫と悪魔を契約させるのは止めようと、胸に誓った。


「んー! ごちそうさま! どう? 体調は?」


 ダーリエはぐいっと口を腕でぬぐっている。レナもアントンをのぞきこんだ。


「アントン? どう?」

「うん、大分良くなっ・・・・・・げほ、ごほ、」


 アントンはまた咳き込んだ。


「アントン・・・・・・どうして?」


 魔力をとりのぞけば、アントンの体調は良くなるはずだった。レナは説明を求めてダーリエを見上げた。ダーリエは小首をかしげた。


「あれー? おかしいわね、ねえヴィル。どうしてかな? この子、魔力が体に合わないのに、生まれつき魔力があって、拒否反応起こしてるみたいなの。だから魔力をなくしたら健康になると思って、ちゃんと吸いとったのよ?」


 話をふられて、長い足を組んでティカップを傾けていた魔法使いは、横目でちらりとアントンを見た。黒髪に、青い瞳。魔法使いは、アントンとはまた違ったタイプの、美青年だ。


「僕は人間の客をとらない。・・・・・・だけど助言をするなら、その人は魔力による拒否反応はなくなったけれど、もうひとつ、やっかいな体質があるようだね」

「何ですか?」


 咳き込みながらアントンが聞くと、魔法使いはほとんどアントンと目を合わせずに言った。


「アレルギーだよ。獣アレルギー」

「ア、アレルギー?」


 レナとアントンは同時に声をあげて、そして見つめ合った。


「そういえば、咳が出はじめたのは、君と結婚してからだ。・・・・・・じゃあ、レナの呪いが解けたら、一緒にいても大丈夫になるのか?」

「そういうことになるね」


 魔法使いはしれっと言った。しかし、では呪いを解いてあげようとか、どうしたらいいとか、そういう話をする気はないようだ。拒絶のようなものを感じたけれど、レナはおずおずと魔法使いに話しかけた。


「では、あの・・・・・・私の呪いを解いていただけますか? ドールさん」


 魔法使いは肩をすくめた。


「僕の出番はないと思うな」

「ヴィル、どういうこと?」

「わからないかい? 彼女の呪いは解けはじめている」


 ダーリエとアントンが、レナを見つめた。二人の視線が、耳に集まっている。

 レナは自分の耳をさわってみた。そういえば、髪の毛から飛び出ていた獣の耳が、なんだか小さくなっている気がする。

 魔法使いは面倒くさそうに、弟子らしき少女に声をかけた。


「さあダイアン、教えてあげて。この手の呪いを解くには、何が必要なんだっけ。この世界で一番強力な魔法はなあに?」

「愛する人のキスです」


 ダイアンと呼ばれた少女は、普遍的な真理についての回答をするように、厳かにきっぱり言い切った。


 愛する人のキス。

 キス。


「あっ」


 レナは小さく声をあげて、口を押さえた。

 レナとアントンは、再び顔を見合わせた。そして、二人で赤くなる。


 それを見て、魔法使いは席をたつと、するりと半壊したドアに身を入れて姿を消した。少女もついていこうとするけれど、魔法使いが背中越しに言ったことを聞いて、ため息をついた。


「ではダイアン、あとは適当に」

「もうっ先生・・・・・・」


 レナとアントンは、まだ見つめあっていた。 

 愛する人のキス、だと少女は言った。ということは、つまり、アントンはレナを愛しているということだ。

 レナは迷いながら、アントンに訪ねた。


「アントン、どうして私の呪いを解いてくれようとしたの?」


 アントンはばつが悪そうに、目を泳がしながら、白状する。


「・・・・・・君は知らないだろうけれど、結婚を申し込んだのは僕の意思だ。武道会で大立ち回りをする君に一目惚れしたんだ」


 レナは信じられなかった。そして、今年の冬に行われた、王宮での武道会を思い出した。アントンに見られていただなんて、穴があったら入りたい。アントンは続ける。


「だけどバッタバッタと剣で男をなぎ倒す君が、僕なんかを好きになるとは思えなかった。だから・・・・・・その、意地を張って、心にもないことを言ってしまった。おわびに君が喜ぶことをしたかったんだ。僕の病気は、死ぬようなものではなかったし」


 アントンの素直な様子は、レナの胸をくすぐった。

 レナは心から微笑んだ。もう感情を代弁する耳は必要ない。レナは、アントンに気持ちをぶつけることを、もう怖いとは思わなかった。


「・・・・・・嬉しいです。アントン。私たち、こうやって正直に話し合えば、きっと上手くいくわ。そんな気がしました」


 アントンも頷いて、照れ臭そうに微笑む。


「レナ。もう一度、今度は心を込めて、本当に誓う。僕は君を、妻として、あ、愛したいと思う」

「・・・・・・はい。私も、これから少しずつ、お互いを知って、愛していきたい」


 レナとアントンは、手を取り合った。それは教会での誓いよりも、真摯で心が通じあっていた。

 ダーリエが飛んできて、二人をからかった。


「やだっもー、あんたたち、夫婦でしょ? そんな初々しくて、どうするの?」


 アントンはレナの太ももに手を回して、抱き上げた。そのままくるりと一周回るけれど、とと、とよろけて、尻餅をついた。レナは叫び声をあげたけれど、アントンの上でクスクス笑った。


 先程の弟子の少女が、小瓶のようなものを持ってやってきた。二人の様子を見て、微笑んでいる。少女は小瓶をレナに差し出した。


「魔術師ヴィルヘルム・ドールから、使い魔を助けてくれたお礼です」


 透明な紫色の小瓶に、小さな粒がたくさん詰まっている。


「これはなあに?」


 レナが聞くと、少女は少し目をそらして、頬を染めた。


「えっと・・・・・・子どもを作るのに、不足しがちな栄養がとれるそうです」


 レナとアントンは顔を見合わせた。

 アントンの病は消えた。そしてアレルギー原もなくなる。アントンはもう、ベッドで臥せることはないだろう。家に帰れば、夫婦は一緒に眠りにつく。

 レナは少女にお礼を言うと、小瓶を受け取った。


「めでたしめでたしってやつね?」

 ダーリエはまだニヤニヤしている。


 ダーリエに別れを告げると、クライン夫妻は共に馬に乗り、来た道を戻ることにした。

 レナが振り返ると、風に揺れながら、ダーリエがいつまでも手をふっていた。


「ダーリエって、本当に悪魔なのかしら」


 二人にとっては、恋のキューピッドかもしれない、とレナが言うと、アントンは肩をすくめる。


「あんなおしゃべりでふしだらな天使いないよ」

「そういえば、キスしてましたね、アントン。妻の目の前で」

「あれは……数に入らないだろう?」

「そうでしょうか?」

「困ったな。君が早く忘れるように、がんばらなきゃ……今日からあの薬が必要になるよ」


 夕闇の迫るシララキの森は幻想的で、夫婦は満ち足りて、幸せに包まれていた。

 クライン夫妻の家路は、今度は本当に夫婦水入らずの、新婚旅行となるようだ。

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