最終章:母の言葉
葬儀の日。
しとしとと降る雨が、まるで涙のように人々を濡らしていた。
会場の中は、白い菊の花と線香の香りに包まれている。
静まり返った空気の中で、棺の中の幸子は、まるで長い眠りについたように安らかな顔をしていた。
「……やっぱり、最後まであの人らしいわ」
棺を前に立つ幸は、口角をわずかに歪めて呟いた。
その声は皮肉に聞こえたが、震えを隠すための強がりだった。
彼女は黒い喪服をまとい、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
周囲から見れば毅然とした娘に見えただろう。
けれど胸の奥では、どうしようもない空虚が広がっていた。
「……ほんと、頑固者」
小さく吐き捨てながら、幸は唇を噛みしめた。
それ以上言葉にすれば、自分の心が壊れてしまいそうで。
式が終わり、参列者が少しずつ会場を後にする。
雨音だけが残った空間で、かすみが静かに近づいてきた。
「……幸さん」
深く一礼し、両手に包むように封筒を差し出した。
「生前、幸子さんからお預かりしていたものです。
……必ず幸さんに渡してほしい、と託されました」
幸の手がぴたりと止まる。
眉間に皺を寄せ、低く吐き捨てた。
「……今さら、何よ」
それでも、その手は震えながら封筒を受け取った。
中には、一通の手紙と、色あせたハンカチ、小さなアルバム。
アルバムには、幼い頃の幸の笑顔がいくつも収められていた。
母の膝の上で笑う姿。七五三の着物に袖を通して照れる姿。
ページをめくるたび、胸の奥に鋭い痛みが突き刺さる。
そして――震える指先で、便箋を開いた。
幸子の手紙
「幸へ。
あなたが生まれたとき、私は人生で初めて『守りたい』と心から思いました。
小さな手で私の指を握り、泣きながらも笑ったあなたを、世界一愛おしいと感じました。
だけど、私は母として下手でした。
叱る言葉ばかりで、優しい言葉をかけることができなかった。
あなたを突き放すような態度でしか、想いを伝えられなかった。
ごめんなさい。
本当は、あなたともっと笑いたかった。
もっと話したかった。
もっと触れていたかった。
強くあってほしいと願ったのは、あなたを守りたかったからです。
でも、私は……最後まで、あなたの弱さを抱きしめてあげられなかった。
幸。どうか、これからは自分を責めず、幸せになって。
私は最後まで、あなたを愛していました。
ずっと、ずっと――愛していました。
お母さんより」
その文字を目で追ううちに、幸の視界が滲みはじめた。
呼吸が荒くなる。
唇を噛んでも、もう抑えきれない。
「……ふざけないでよ……今さら……」
声が震え、手が震え、やがて便箋を抱きしめるように胸に押し当てた。
「なんで……なんでもっと早く言ってくれなかったの……!
私、ずっと……嫌われてるって思ってたのに……!」
張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れた。
その場に膝をつき、嗚咽が喉を突いて溢れ出す。
肩を揺らし、涙がとめどなく流れた。
「ごめん……ごめんね、お母さん……!
私……私も、本当は……っ、あなたに甘えたかったのに……!」
声にならない叫び。
幼い頃に言えなかった「大好き」を、今になって必死に吐き出す。
けれど、その言葉はもう届かない。
冷たい現実だけが、彼女の頬を打ち続けた。
かすみはただ黙って立ち尽くしていた。
慰めの言葉など意味をなさないことを知っていたから。
ただ、深く頭を垂れ、幸の慟哭を受け止めることしかできなかった。
雨が、強く窓を叩いていた。
まるで、母と娘のすれ違いを悼むかのように。
幸は泣き続けた。
涙でぐしゃぐしゃになった手紙を胸に抱きしめ、声を枯らして泣き続けた。
強さを武器に夜を生き抜いてきた女が、初めて少女のように泣き崩れていた。
その涙は、母の愛を知った証。
しかし同時に、取り戻せない時間への後悔を刻む痛みでもあった。
母はもういない。
けれど――彼女の言葉は、幸の胸に永遠に残った。
「……お母さん……ごめんね……ありがとう……」
絞り出すような声は、誰に届くこともなく、静かな葬儀場に吸い込まれていった。
そして、雨は止むことなく降り続いた。
まるで、母と娘の涙を洗い流すかのように――。
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
母と娘。
それは誰にとっても、避けられない出会いであり、時に最も難しい関係でもあります。
言葉にできない思いがすれ違い、ほんの一歩近づくだけで救えたはずの心が、気づかぬうちに遠ざかってしまう。
そのすれ違いの果てに、和解の機会を失ったとき、人はどう生きていけばよいのか――。
幸子と幸の物語は、決して派手ではありません。
戦いも奇跡もなく、ただ人が人として老い、弱り、そして別れを迎えるという現実を描きました。
しかし、その中にこそ「普遍の痛み」と「それでもなお続く愛」があると信じています。
かすみは最後まで、介護士としてできる限りのことを尽くしました。
けれど、彼女の奮闘は「家族」という絆には届かない。
その無力さは残酷ですが、同時に真実でもあります。
他人には埋められない溝があり、だからこそ、母と娘の絆は特別なのです。
幸子が遺した言葉は、幸の心に深い傷と同時に救いを残しました。
それはきっと、これからの彼女の生き方を変えるものになるでしょう。
母の愛を知った娘は、その痛みを抱えながらも、きっと歩んでいけるはずです。
読者の皆様にとっても、この物語が誰かとの関係を見つめ直すきっかけになれば、これ以上の喜びはありません。
言えなかった言葉、伝えられなかった想い。
それを胸に抱えながらも、人は前へ進んでいく――。
この物語を通して描きたかったのは、その「人間の弱さ」と「愛の確かさ」でした。
最後にもう一度。
ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。




