外伝 社長の手腕
夕刻ごろ、
永吉は携帯を手に取り書類に書かれた番号を入力した。
「ちょうどよかったわ、おたくの介護士のせいでウチはめちゃくちゃよ。契約なんて即刻やめるから!」
開口一番に電話口から飛び込んできたのは、怒りに満ちた幸の声だった。
酒に焼けた吐息が受話器を震わせる。
「昨日だってそうよ!母親と口論になったとき、あの女は間に入るどころか黙って見てるだけ!結局は何の役にも立たないじゃない!あんたらは人を置いとくだけで金を取るクズ会社なのよ!」
だが、永吉は一切の動揺を見せなかった。
低く、静かな声で応じる。
「……昨夜の件で、藤本さんのお話を伺いたく、お電話しました」
「話?聞くだけで何になるの?私は依頼人よ?金を払ってんのは私!その私が“もういらない”って言ってるのに、まだ続けろってわけ?母親の前で偉そうに仕切って……所詮は赤の他人でしょうが!」
永吉はすぐには反論せず、数秒の沈黙を作った。
相手の感情が昂っているときに、あえて空白を置くことで、相手自身に言葉を重ねさせる――それを彼は熟知している。
案の定、幸は苛立ったように舌打ちをした。
「……ほんと、ムカつく。私が必死で働いて金稼いでんのに、母親もあんたらも、感謝の一つもしない。何が“介護”よ。笑わせないで」
永吉は、そこで声を落とした。
「――必死で働いておられるのですね」
「……は?」
優しい声音で続ける。
「夜の世界で上位に立ち続けることが、どれほど大変か。私は多少は存じています。お客様の好みを見極め、気を遣い、苦手な事でも笑顔を絶やさない。さらにプライベートの時間でも、スキンケアや体型維持に気を配る……簡単にできることではありません」
「……あんたに何がわかるのよ」
吐き捨てるような言葉の奥で、幸の胸にはかすかな誇りが疼いた。
それは彼女が心の奥に隠し持つ、自らの努力への自負だった。
永吉はさらに畳みかける。
「だからこそ、藤本さんは立派です。責任感を持ち、自らの選んだ道で成果を出している。その姿勢は――きっとお母様にも伝わっているはずです」
「伝わってる? バカにしてるだけよ。『夜の仕事なんて』って、ずっと否定ばっかり」
「否定するのは、理解したいからかもしれません。人は本当に興味のないことには怒りすら抱きません。憎まれ口も、裏を返せば関心の証です。お母様にとって、藤本さんはかけがえのない存在なのでしょう」
「……っ」
永吉の言葉に、幸は口を閉ざす。
苛立ちと迷いが入り混じった沈黙が訪れる。
「――古林のことですが、彼女は確かに至らぬ点はあります、しかし、“仕事を投げ出す”人間ではありません。お母様を第一に考え、最後まで責任を果たす職員です」
「責任? ふん、見てるだけだったじゃない」
「本当にそうでしょうか? 口を挟めば、母娘の間に立って余計にこじれることもある。止めなかったのは無責任ではなく、むしろ“信頼”があったからかもしれません。藤本さんが、自分の母と真正面から言葉を交わせる強さを持っていると」
「……私は、信頼なんてされてない」
「いいえ。古林は、そう見ていた。私もそう思います」
永吉の断言に、幸の胸はわずかに震えた。
誰からも得られなかった「認められる」という感覚が、そこにあった。
永吉は契約の継続を求めなかった。
ただ淡々と事実を並べ、幸自身に考える余地を与えた。
「……っ。わかったわよ。今すぐ解約はしない」
苛立ちと戸惑い、そしてかすかな安堵が入り混じった声。
永吉はそれ以上追い込まず、簡単なやりとの後、電話を切った。
電話を終えた永吉のもとに、若い職員が恐る恐る声をかけた。
「……社長って、そんなに人のことをちゃんと見ておられるんですね。驚きました」
永吉は資料から目を離さず、淡々と答える。
「見ていたわけではない。ただ手順を踏んだだけだ」
「手順……ですか?」
永吉は静かにペンを置き、説明を始めた。
「興奮している相手を落ち着かせるには、まず“沈黙”を置くことだ。人は自分の言葉を繰り返すうちに、自然と熱を冷ましていく。
次に“共感”を装う。努力を認め、理解していると伝えれば、相手は“この人は味方だ”と思い込む。
そして最後に、“信頼している”という言葉を利用する。相手は『信じてもらえているなら応えたい』と、自分から契約を続ける方向へ動き出す」
「……全部、計算だったんですね」
「そうだ。こちらから“続けてくれ”と頼む必要はない。本人にそう思わせれば済む話だ」
永吉は視線を再び書類に落とした。
ペン先が紙を滑る音だけが室内に響く。
部下は何かを言いかけて口を閉じた。
冷徹とも言える説明の中に、確かに人の心を読み切る眼差しがあったからだ。
会社を守り、利益を確保するために人の心を利用する冷徹な経営者の横顔だけが若手社員の瞳に写っていた。
次回は9月16日に投稿予定
もっと社長を冷徹、仕事出来に描きたいけど、僕には表現力が無かったみたいだ、済まない、社長