第五章 社長の判断
翌朝。
かすみは臨時交代の職員に一時的に幸子を任せ、事務所に向かった。
夜の出来事が頭から離れず、どうしても社長に相談しなければならなかった。
ノックをして社長室に入ると、永吉は既に机に向かって書類を整理していた。
「……古林か。契約はまだ継続中のはずだが、現場を離れてここに来た理由は?」
冷徹な声音に、かすみは深く頭を下げた。
「昨夜……利用者の娘さん、藤本幸さんが、契約の解除を言い出しました」
永吉は手を止め、視線だけをかすみに向ける。
「経緯を話せ」
かすみは正直に話した。
幸が酔って帰宅したこと、母娘の言い争いになったこと。
そして、幸子が感情的に「アンタの世話にはならない」と口走り、激昂した幸が契約解除を叫んだこと。
一通り聞き終えると、永吉は腕を組み、表情を崩さずに言った。
「……依頼人は娘の藤本幸だ。依頼人が契約解除を望むならそれで契約は解除される。」
かすみは喉に言葉を詰まらせながら答えた。
「……はい」
少しの沈黙の後、永吉が口を開いた。
「......だが、正式に解除の一報はまだ届いていないな?
ならば、契約は有効だ。古林、まずは持ち場に戻り、自分の職務を果たせ」
永吉の言葉は淡々としていたが、そこに揺らぎはなかった。
「ですが……!」
かすみが思わず声を荒げると、永吉は手で制した。
「心配するのは分かる。だが、感情で仕事を放り出すのは職務放棄に等しい。君は介護士として、利用者の生活を守るのが役目だ」
かすみは唇を噛んだ。
「……はい」
永吉は淡々と続ける。
「幸さんへの対応は私が行う。こちらから正式に連絡を入れ、依頼人としての意思を確認する。必要ならば、契約の継続に向けた条件を提示することも考える」
「……社長が、直接?」
かすみの瞳に驚きが走る。
永吉は冷ややかに答えた。
「それが上に立つ者の責任だ。会社に不利益を生じさせぬよう、最も確実な方法を選ぶだけだ」
そして視線を落とし、書類にペンを走らせながら、言い放つ。
「古林。君はまず現場で結果を出せ。感情で語るのではなく、職務で示せ。それが唯一、会社にとっても利用者にとっても意味のあることだ」
かすみは深く頭を下げた。
「……承知しました」
社長室を出た瞬間、かすみの胸に冷たい緊張が走った。
永吉の言葉は徹底して冷徹で、感情を一切排したものだった。
けれど同時に彼が上司として、この契約の舵取りを確実に担ってくれることも理解できた。
「……社長なら、なんとかしてくれる」
そう思えた瞬間、かすみの肩から重荷が少しだけ下りる。
だからこそ、自分がやるべきことがはっきりと見えた。
――私は、幸子さんの心に寄り添おう。
――この人が抱える寂しさや不安を、少しでも和らげたい。
その決意を胸に刻み、かすみは足早に幸子の元へと戻っていった。
次回、第6章は9月9日に投稿予定です。