第一章 契約の朝
「ありがとう」と言えぬまま、母は旅立った。
残されたのは、一通の手紙と——消えない灯り。
住み込み介護士が見届けた、涙と後悔の親子物語。
第一章 契約の朝
介護事務所「ケア・フロント大阪」の朝は、いつも時間がゆっくりと流れている。
古林かすみは、出勤してからまず机の上の書類をきちんと揃え、前日の記録を整理していた。窓の外では小雨が降り、道路に映るネオンがにじんで見える。
その時、事務所の電話が鳴った。受話器を取ったのは、事務机の向かいに座る社長・永吉。背筋をまっすぐに伸ばし、抑揚のない落ち着いた声で名乗る。
「お電話ありがとうございます。ケア・フロント大阪、永吉でございます」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、やや低めで早口の女性の声だった。
「母の介護をお願いしたいんですけど…」
永吉はメモ用紙に素早くペンを走らせながら、丁寧に質問を重ねていく。
「かしこまりました。差し支えなければ、お母さまのお名前とご年齢、ご病状や介護の必要な状況をお教えいただけますか」
「藤本幸子、85歳です。足腰が弱っていて、立ち上がるのもつらそうで…。でも頭はしっかりしてます。頑固で、人の言うことを聞かないタイプです」
永吉は必要事項を一通り確認し、次に依頼人自身の名前を尋ねた。
「ありがとうございます。では、ご依頼主さまのお名前を…」
「藤本幸です。母とは二人暮らしですけど、私、夜の仕事をしてて。昼間は寝てるし、ほとんど家にいません」
永吉は短く頷き、契約に向けた案内を始めた。
「承知いたしました。それでは、一度お時間をいただき、当事務所で詳しくお話を伺いながら、必要なサービス内容や契約条件をご説明させていただきたいと思います。ご都合はいかがでしょうか」
数日後、約束の時間ぴったりに、藤本幸は事務所に現れた。
ドアを開けた瞬間、ほのかな甘い香水の匂いが漂う。金髪に近い茶髪を緩く巻き、ネイルは深紅に輝く。短いスカートから伸びる脚はスラリとしており、夜の街で生きる女性らしい華やかさをまとっていた。
受付に顔を出すと、永吉が立ち上がって会釈をする。
「お忙しい中、お越しいただきありがとうございます。どうぞこちらへ」
応接スペースのソファに腰掛けた幸は、開口一番こう切り出した。
「母はね、とにかく厄介なんですよ。口うるさいし、自分でできることも全部やろうとして、転んだりする。…もう私じゃ無理なんです」
永吉は表情を変えずに聞き取りを続ける。
「ご事情、よく分かりました。当事務所では、利用者さまの生活の質を保ちながら、安全に暮らしていただけるよう、専任の介護士が24時間体制でお世話いたします。今回は、お母さまの生活習慣やご性格を踏まえ、住み込みでの在宅介護を提案いたします」
一呼吸置いて、永吉はゆっくりと言葉を紡いだ。
「担当は古林でございます。経験もあり、人柄も信頼できる職員です。お母さまのおそばで、日常生活全般のサポートをさせていただきますので、ご安心ください」
かすみは隣で軽く背筋を伸ばし、笑顔で頭を下げた。
「古林かすみと申します。お母さまの生活が少しでも心地よくなるよう、精一杯努めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
幸はしばらくかすみをじっと見てから、少しだけ口元を緩めた。
「…まあ、母が気に入ればいいけど」
契約書に署名が終わると、永吉は静かに締めくくった。
「では、明日から古林が伺います。初日は生活の様子や動線を確認し、必要に応じて介護プランを整えます」
初書きですが、頑張ります。
誤字脱字、おかしな句読点や改行があっても多めにみて下さい。