序章①『向かいの気になるあの子』
西暦2008年の夏の終わり。
連夜は、港町沼津の高校に通う1年生。
彼は自習室の向かいに座る女の子、陽に友達になって欲しいと意を決して声を掛ける。
序章①『向かいの気になるあの子』
朝。 俺……碧 連夜は目を覚ます。目覚ましは使っていない。大体22時から23時くらいに寝て、おおよそ6時くらいに起きる。それが俺のルーチンだ。
時計を見ると時刻は6時ちょうどであった。
(今日は……始業式か)
カレンダーを見る。今日は西暦2008年の9月1日。夏休みが終わり、新たな学期が始まる日だ。
俺は布団から出て自分の部屋を出る。そしてそのまま階段を下りて居間へと向かった。
「おはよう、連夜」
下に降りると、父が声を掛けてくる。
「飯どうすんだ?」
「とりあえず……シャケ喰うわ」
「おう、自分でやれよ?」
父はそう言うと、制服の袖に手を通した。
俺は冷蔵庫から鮭の切り身を取り出し、ガスコンロのグリルに入れて火にかける。その間に陶器と漆器の茶碗を1つずつ食器棚から取り出し、テーブルに置いておく。
しばらくするとグリルからアラームが鳴り、それと共に魚の様子を見る。……火は通っているようだ。それを用意しておいた皿に取り出すとともに、電気ケトルに水を入れる。
塩焼きが載った皿をテーブルに置いた後、テーブルに電気ケトルをセットしてスイッチを押し、炊飯器から白米を取り出して陶器の茶碗に盛る。漆器の茶碗にはインスタントみそ汁の具と味噌を入れる。電気ケトルのお湯が沸いたら漆器の茶碗に熱湯を入れてかき混ぜる。
かくしてテーブルにはご飯、味噌汁、鮭の塩焼きの一汁一菜が出揃った。
「いただきます」
父が外出の準備をする中、箸を取って俺はご飯を食べ始める。
これが俺の、何気ない日常であった。
朝食を食べ終えたのち、俺はパジャマから高校の制服に着替える。
通っている高校の制服は赤色のネクタイが付いたブレザーである。高校に進学した当初はネクタイの付け方が分からず困惑していたが、父にやり方を教わり、何とか身に着けた。
白いワイシャツを着て、次にズボンをはく。ズボンにベルトを通し、ネクタイを付けてブレザーを羽織る。半年たってようやくこの格好にも慣れてきた。
制服を着た後は忘れ物が無いかを確認し、家を出た。
俺の家はS県東部の地方都市、裾野市の山奥にある。周りは杉の人工林ばかりで、遠くには雄大な富士の巨峰が見える。
家を飛び出した俺は、そのまま歩き続け、1つのバス停へとたどり着く。しばらくするとバスがやってきて、俺はそれに乗って裾野市に2つある電車駅の1つ、岩波駅へと向かった。
岩波駅近くのバス停で降りた俺は、歩いて駅へと向かう。時刻を見ると時計の針は7時近くであり、電車がもうすぐ来る時間帯であった。俺は急いで駅舎を駆けあがり、ホームへと向かう。電車は1時間に2本しかない。乗り遅れたら大変なことになる。
ほどなくして、銀色とオレンジ色の車体の下り電車が3両編成でホームに到着する。俺はそれに乗り込むと、そのまま吊革につかまった。
電車に乗り込んで数十分後、電車はS県東部有数のターミナル駅である沼津駅にたどり着く。俺は電車を降りるとそのまま北口から駅を出て、歩き出す。
駅から20分ほど歩いた所で、学校にたどり着いた。
校舎に入り、教室へ向かい、席に着く。ほどなくして朝礼のため体育館へ向かう。朝礼が終わった後は授業が始まる。
午前中の授業が終わったら、昼食を食べる。昼食の選択肢は、あらかじめ持ってきた弁当か、下にある学食で取るかの2択だ。コンビニで食べ物を買ってくることは校則で認められていない。手作り弁当か、学食かの2択だ。俺は弁当を作れるようなたちではなく、また家庭環境もそのような状況にないため、もっぱら学食の世話になることになる。
学食のメニューは、正直言って貧弱だ。あるのは「カレー」「ラーメン」「そば・うどん」の3系統のみ。カレーはカツカレーと普通のカレーの2種類、ラーメンは醤油ラーメンの1種類、そば・うどんは天ぷらそばと肉うどんの2種類。後は大盛りかそれ以外か程度。数カ月食べて概ね飽きつつある。
俺は学食の後ろに配置されている自販機に足を運ぶ。ここには飲み物の他、カ◯リーメイトの自販機がある。俺はカ◯リーメイトの自販機に硬貨を入れ、黄色い箱を1つ買った。カ◯リーメイトはフルーツ味とチョコ味とメイプル味が売られている。シンプルで飽きづらい。俺はメイプル味がお気に入りだ。
メイプル味の箱を開けて取り出し、中に入っている2本のスティックをネズミのように少しずつ齧って口に運ぶ。先に書いたように学食に飽きていたし、何より午後食べすぎると眠くなってしまうため、このようなシンプルな昼食をとるのが日課になりつつある。
昼休みが終わると午後の授業があり、それが終わると放課後となる。
放課後、本来なら部活動に精を出す時間なのだが、俺は部活動には参加していない。
だが帰宅部でもない。俺は校舎の一角にある部屋に向かう。そこは特に名前が付いている訳ではないが、中にはいくつかのテーブルが並べて置かれている。
俺がここに行くのは、部活動の時間を利用して自習をするためだ。
なぜ俺が部活動の時間中自習に明け暮れているのかと言えば、学校の環境が理由だ。
俺が通っている高校は、この地域の中でも偏差値がかなり低い高校だ。学生の大半は卒業後就職し、進学するのは自分が所属する普通科進学コースの面々だけ。しかもその大半は推薦やAO入試での進学を目指すことになる。俺みたいな国公立の、それも理系の大学を目指している子なんて前例はほとんどないと担任の八雲先生は言っていた。
治安も正直良くない。校則はかなり厳しいが、その反面髪型や服装を律義に守っている生徒は俺くらいで、訳ありな子や問題児のたまり場と言っていい様相と化している。なにせ謹慎・停学・退学処分になった生徒の名前が定期的に掲示板に張り出されるくらいなのだ。学級崩壊の要因になるような不良は……少なくとも進学コースにはいない。普通コースや他のコースがどうなのかは知らないが。
そんな環境なので、理系の国公立の大学に進学するために必要な学習内容は学校の授業だけでは到底賄えない。このことは八雲先生も把握しており、先生の勧めもあって、こうして部活動の時間を特別に丸々自習に充てさせていただいているという訳である。
俺が「自習室」に入ると、そこには既に先客がいた。
「……」
椅子に座って机に向かい、黙々とノートに何かを書き留めている1人の少女。黒い髪を一つの大きな三つ編みにして後ろに下げている。ブレザーは女性用で、着けている蝶ネクタイの色は赤。これは俺と同じ1年生であることを表している。顔の左側に大きく擦れたような傷跡があるが、顔にかかっている眼鏡と髪によって一見すると分かりづらい。それ以外の顔つきは端正で……正直言って、可愛い顔だ。
「……」
少女は俺が入ってきたのに気づいたのか気付かないのか、相も変わらず自習に没頭している。
「……」
俺は黙っていつもの定位置である、少女の向かいの席に座る。机には前方と左右に小さな衝立があり、少女の表情は見えない。
彼女の名前は葵 陽。
俺と同じく国公立大学への進学を目指している……自習室仲間だ。
葵さんとの出会いは、この学校に入学して2週間ほど経ったときのことであった。俺が自習室で勉強をしている中に突然彼女は現れ、同じように自習室で勉強を始めた。彼女が入ってきたとき、彼女がここを利用することを八雲先生から説明され、それに伴い軽く挨拶を交わしたことはあったが、基本的に普段会話を交わすことはほとんどなかった。
また、彼女は俺と違い普通科普通コースの学生で、使用している校舎が違うこともあって放課後以外顔を合わせることもない。彼女と出会うのは、この自習室だけだ。
自習室で向かいの席に座り、黙って自習をして時間が来たらそのまま帰る。
入学してから1学期の間、俺はそうやって過ごしてきた。
だが、新学期の今日、俺はある1つの決意をしていた。
俺は意を決し席を立ちあがり、並べられた机を回り込むように移動し、少女、葵さんの真横に立つ。すると葵さんは気配に気づいたのか手を止める。
「あの……」
声を掛ける。胸がバクバクし、身体が上手く動かない。
「ん……? 何ですか?」
彼女は振り向き、俺の方を見る。その表情は怪訝と言うよりは、不思議そうな目つきをしている……ような気がする。
「俺と……」
言葉が途切れる。考えが上手くまとまらない。
だが言うのだ。言わなければ。
「俺と……俺と友達になってくれませんか!」
……俺が一言喋った後、葵さんは少し考えこむような仕草をした後、俺の方に顔を向けてこう告げた。
「……すみません、少し、考えさせてください。具体的には、1日」
「1日……」
「そう。1日です。明日の放課後、回答します」
「わ、分かりました……」
1日考えるそうだ。
ともあれ、何とか言いたいことを伝えることはできた……と思う。
俺が友達を作ろうと思ったのは、高校に入って数カ月経ってからのことだ。
校内で時折話しかけてくる人は2人いるが、友達と呼べるような付き合いをしている人は、いなかった。俺と周りの面々とで学習に対する意識に大きな差があったせいか、ぶっちゃけ俺は進学コースの中で浮いていた。クラスの中で1人だけ校則を律義に守り、1人だけ放課後や空いた時間に勉強していることもあって、周りからどんな目で見られているかはあくまで想像でしかないが……いわゆるストイックで近寄りがたい系と見られていることだろう。四六時中どうやったら国公立大学に進学できるか、そのためにどんな勉強法をしたら良いか考えている俺とは違い、周りの面々は勉強について会話している様子は特に見受けられなかった。
周りと目指している世界が違う以上周りと付き合う理由もないし、それで問題ないと当初の俺は考えていた。
昔から内向的で、友人関係を作れなかったのもあるだろう。中学校時代に周りにいじられたりからかわれたりはやし立てられたりする日々で友達どころではなかったこともあって、友達作りには消極的だった。
だが……孤独に終わりの見えない勉強を続けていくうちに、俺はどこかで孤独感にさいなまれるようになっていた。自分の気持ちを共有できる同志が欲しい、そんな気持ちが湧き始めていた。
そんな中現れたのが葵さんだった。彼女のことは当初気にも留めていなかったが、同じ国公立大学を目指していることをある時八雲先生から聞かされ、その時から興味を持っていた。奇しくも直後夏休みに入ってしまったため自習室での対面は途絶えたが、夏休みに1人孤独に勉強を続けている間も、彼女と交流したい、友達になりたいという思いは強くなっていった。
かくして、始業式の日にあのような言葉を伝えたわけである。その結果は明日にならないと分からないが、正直好意的な回答は期待できないだろう。人の表情を読むことが苦手で大体声色を基に判断している俺の見解としては、あれは嫌そうな気持ちがある声色だった気がする。そんな気がするのだ。
葵さんに友達になりたいと伝えた俺は、その後何事もなかったかのように向かいの席に戻り、自習を再開した。その間会話はなく、部活動の終わりの時間となった。
「その……葵、さん。また明日」
俺は迷いながら言葉を紡ぐ。こんな風に挨拶をしたのはいつぶりだろうか。というか同年代の人間に名前で呼んで挨拶をした覚えがあまりない。
「……さようなら」
葵さんは一言そう返すと、俺より先に昇降口へと向かっていった。
その後はいつものように家に帰る。沼津駅まで歩き、そこから電車で岩波駅まで向かう。帰りのバスは1~2本しかないため、乗り損ねると父に車で迎えに行ってもらう必要がある。幸い今日は、父の出番はなかった。
「ただいま~」
「おう、おかえり」
家に帰ると、父が居間でくつろいでいた。
「晩飯は何?」
俺がそう質問すると、父は一言こう答える。
「朝香がカレー作ったから、それ食べろ」
「分かった。朝香は?」
「もう食べたよ」
「そうか……」
階上の個室に居るであろう妹に思いを馳せつつ、俺はカレーを食べるべく食器棚の方へと向かった。
その後は風呂に入り、自分の部屋でPCに向き合い、ゲームをやった。
余談だが、俺は最近とあるシリーズ物の弾幕STGにはまっている。同人作品らしいが世界観と音楽がよく、何作か買って遊んでいる。実力としては……4段階ある難易度の内の下から2番目をノーコンティニューでクリアできる程度、なのでまぁそんなに上手くはないが、まぁやってて楽しいからやってるのだ。それでよいのだ。
ゲームをやり終え、ネットサーフィンをした俺は、そのまま眠りについた。
翌日。俺はいつものように学校に向かったが、放課後が近づくにつれ緊張していった。
「よう。みーどりくん」
最後の授業が終わったところで、俺を呼ぶ声がした。緊張の糸が思わず切れる。
「……将軍」
俺に声を掛けてきたのは、同じクラスのボサボサ頭の男子学生。髪は黒以外の色に染めており、制服はだらしなく着崩されており、ズボンは少し下がっている。正直言って校則違反だ。
名は一橋 晴斗という。俺と同じ進学コースの1年生だ。
「何してんだ?」
晴斗、いや将軍は、ごくたまに俺にこうして話しかけてくる。最初に話しかけてきたのは始業式の時だったか。
「いや……別に」
「放課後、またいつもの自習か?」
「……ああ」
「そうか……」
将軍はそれ以上何を聞くこともなく、俺の近くから離れていった。
ちなみに彼のことを俺は「将軍」と呼んでいる。理由は苗字を見たとき、江戸幕府最後の将軍である「徳川 慶喜」の通称「一橋 慶喜」が頭によぎったからだ。彼を最初この呼び名で呼んだときは何でそう呼ぶのかと聞かれたが、理由を話すとふーんとだけ返された。もっとも彼自身この呼び名を気に入っているのか、以降俺が将軍と呼んでも、特に何も言ってはこない。
レアイベントである将軍との会話を消化した俺は、そのまま自習室へと向かった。
自習室に入ると、案の定葵さんが座っていた。
「……こんにちは。葵さん」
俺は彼女に挨拶した。すると。
「こんにちは。碧さん」
葵さんも挨拶を返してきた。何というか機械的というか、オウム返しのような返し方をするなと、この時の俺は思った。
「その……葵さん、昨日の、件なんだけど」
早まったか、とすぐに思ったが、考えるより先に言葉が出ていた。
俺の言葉を聞いた葵さんは、まるで答えを用意していたかのようにこう答えた。
「一晩考えました結果としては……OKです。友達になりましょう」
「え……いいの?」
「はい。同じ道を目指す者同士、仲良くしましょう?」
そう言うと、彼女は右手を伸ばしてくる。
この回答は予想外だった。前振りは明らかにお断りムードな感じであったが、声に拒絶の色は見受けられない。
「ああ。よろしくお願いします」
俺は右手を伸ばし、軽く握手を交わした。
「それじゃあ、早速なんだけど……ここの問題だけど、解き方分かる?」
椅子に座ろうとした俺を呼び止め、葵さんが質問をしてくる。彼女が開いている青い参考本……自分が数学の勉強に使っているのと同じものの問題文を見ると、数学Iの問題のようだ。
「えーっと……」
問題を見る。これは前解いたことがある問題だ。
「これは……xの2乗をXみたいに別の文字に置き換えれば因数分解できるよ。それでXを元のxの2乗に直すと……」
「……ああーっ! そういうことか! そうやって解くのかぁ」
説明したところの途中で、葵さんも解法を理解したようだ。
「じゃあこの問題は?」
「えーっと、これはこのままだと因数分解できないんだけれど、こんな感じで2乗の展開公式を使って変形すると……」
「ああ……2乗引く2乗の形になるね。なるほどね」
こんな感じでいくつか問題の解き方を教えてあげた。人に教えるのは初めてなので、ちゃんと教えられるか不安であったが、葵さんは問題なく理解できているようで安心した。というより、葵さんは俺が言うのもなんだが理解力が高い。自分が今回教えられたのは、葵さんの理解力に助けられた部分も大いにあったと思う。
「ありがとう。助かったよ」
「いや……どういたしまして。俺も何かあったら、聞いていい?」
「……いいですよ。友達、ですからね」
「……ありがとうございます」
葵さんの声色には、マイナスな要素は見受けられなかった。
その後の俺は、葵さんとちょくちょく自習室で会話を交わすようになった。勉強の質問もそうだし、今日はいい天気ですねとか、どこ出身かなど……。今思うと語彙のレパートリーが少ないなと感じて恥ずかしい気持ちになる。
「学食はどんなものを食べてますか?」
「学食は……ラーメンをよく食べます。……碧さんは?」
「最近は自販機のカ◯リーメイトですね。何というか、飽きちゃって……。あれは何回食べても飽きないし、俺には合ってるって思います」
「そうなんですね……そういえば食べているのを見たことがありました。ハムスターみたいにちびちび食べていましたよね?」
「あ……見られてたんですね。ハムスターか……うーん……」
「そうそう。ハムスター。……今度私も食べてみようかな」
……とまぁ、こんな感じで会話をしていると。
「こんにちは~。葵さん、碧君」
校内で俺に時折話しかけてくる2人のうちのもう1人が現れる。髪型は校則準拠の黒髪に、二つ結び。ブレザーの蝶ネクタイは青色で、これは2年生であることを表している。その恰好は正に、折り目正しい模範的な女子高生と言ったところだろう。
彼女の名前は真白 萌衣。俺は真白先輩と呼んでいる。
「ま、真白先輩……。こんにちは」
「……こんにちは」
挨拶を交わす。
「なになに~? 2人が話しているの、初めて見た。何話してたの?」
「えーっと……」
「碧君とは、普段食べている学食の事を話していました」
俺が答えるのに手間取るなか、葵さんは迷いなく答えた。
「そうなんだ~。私はね~カツカレーが好きだなぁ」
「そうなんですか……。私はラーメンをよく食べます」
葵さんの回答に対し、のんびりとした喋り方で返す真白先輩。
「葵さんはラーメン派なんだね。碧君は何食べてるの?」
「え? あ? カ……カ◯リーメイト……」
真白先輩も葵さんも普通に学食を使っていたため、俺は後ろめたい気持ちになった。
「へぇ意外だね。もっとがっつり食べるタイプだと思ってたけど、結構少食なんだね」
「は、はい……」
「そっかぁ。興味深いね」
「は、はい……」
真白先輩の目線が自分の目に合う。琥珀色の綺麗な瞳で見つめられて、胸がドキドキする。考えがまとまらなくなる。
「あ。そろそろ出ないと。またね~! 2人ともっ!」
俺の胸のドキドキが止まらなくなったところで真白先輩は腕時計を確認し、自習室から出ていった。おそらく塾の時間が近いのだろう。
「……先輩、行っちゃいましたね」
「ああ……」
基本的に快活で、風のように現れ、風のように去る。
その底抜けに明るく、かつさっぱりした雰囲気が……俺は好きだった。
真白先輩との出会いは、入学してからすぐ、八雲先生に自習室を紹介してもらった時のことだ。出会いのタイミングとしては葵さんより早い。
「こんにちは~。君も国公立志望?」
「私もそうで、八雲先輩にここ使わせてもらってるんだ。……まぁ最近は帰宅部して塾に行ってることが多いんだけどね」
初対面の印象としては、気さくでいい人そうだなと思った。
なんでも、彼女も俺や葵さんと同じ国公立志望だそうで、「部活の時間に自習室を利用する行為」を初めて行ったのが先輩だったらしい。
その後もちょくちょく自習室に現れ、俺に声を掛けてくることがあったが(俺じゃなくて葵さんに声を掛けてくることもあったが)、正直上手く対応できていたとは思えていない。なにせ俺は人と話すのが苦手で、まして異性となるとしどろもどろになりがちなのだ。ずっと同じ部屋にいながら、葵さんと言葉を交わさなかったのもそれが影響している。
俺と真白先輩、葵さんと真白先輩でそれぞれ線が結ばれ、俺と葵さんに線が無い。それがこれまでの自習室の日々であった。
実のところ……俺は真白先輩のことを人として尊敬していると共に、好意を抱いている。自分と同じく理系の国公立大学への進学を目指して日々勉強にいそしんでおり、かつ気さくで優しそうな声色。そんな様子に共感を覚えるのに時間はかからなかった。先輩が教えてくれた勉強法をまねてみたり、同じ参考書を買って勉強してみたりした。今の勉強生活に先輩が与えた影響は大きいのだ。
憧れの人であり……おそらく俺の初恋の人。それが真白先輩と言える。
……え? 何で真白先輩じゃなくて、葵さんと友達になろうとしたのかって? そりゃあ……先輩は高嶺の花で、初めての友達にするにはハードルが高すぎると思ったからだ。つまるところ先輩より楽に友達になれるだろう、という考えで葵さんと友達になろうとしたという感は否めない。正直、葵さんにはその点で申し訳ない気持ちがある。OKしてくれた彼女には全くもって頭が上がらないと思った。
真白先輩が去った後も俺達は勉強を続け、そして部活動の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「それじゃあ、また明日。碧君」
葵さんは荷物をまとめ、自習室の外へ出ようとする。
「あ、ちょっと待って! 葵さん!」
その後ろ姿を、俺は呼び止める。
「……何ですか」
葵さんは問いかける。
「あの……今週の土曜日、空いてます?」
「……空いてる、けど。何か、お誘いですか?」
声色が、少し険しくなった気がした。
「……今週の土曜日に、裾野駅近くの図書館で、一緒に勉強会しませんか?」
ゆくゆくは切り出そうと思っていた。学校以外で、交流がしたいと考えていた。正直時期尚早な気がするが……色々あれこれ考えて何とか喉から絞り出せたのが、この言葉であった。
「うーん……」
葵さんは少し考え、こう答えた。
「……1日、考えさせてください。明日、回答します」
友達になってくださいと頼んだ時と同じように、1日待つよう言われた。
「分かりました。……あの、無理はしなくて、いいんで。ダメならダメって言ってくれて、いいんで」
俺は咄嗟に予防線を張る。
「分かりました。でも、考えさせてください」
「ああ……」
会話がぎこちなくなる。
結局今日はそのまま家に帰った。
(ああーっ!)
家に帰った俺は、自分の部屋の布団の中で1人悶絶していた。
(いやいやいやいやいや! まだ会話を始めて1週間程度だってのに、いきなりあれはねぇだろ!)
自分的には、実利重視の勉強会をやりたいと考えており、そこに彼女を誘ったつもりだった。というのも週末家で勉強しようにも、家には漫画やゲーム、インターネットがあるのでどうしてもサボりがちで、それゆえ環境を変えて勉強に集中したいと思ったのだ。葵さんが俺と同じ裾野市に住んでおり、しかも最寄り駅が裾野駅とのことだったので、裾野駅近くにある図書館に行けば丁度いいのではないかと思ったのだが……。
(勉強会とは言ったけど、男が女誘うとか、こんなん実質デートだろデート! バカ!)
俺が葵さんの立場でそれを言われたらどうだろうか。
昔の俺なら、友達付き合い自体が面倒だったので断っていただろう。
今の友達が欲しい俺が、同性の友達に誘われたのなら、誘いに乗ったかもしれない。
でも俺が女で、男の友達に誘われたら……流石に別の、邪な目的があると疑うだろう。女の子が男の子に誘われるとはそういうことなのだ。
(やっちまったなぁ……。というか、異性と友達になろうと考えたのが根本的な間違いだったのかもなぁ。……同性から始めるべきだったのかなぁ)
俺はふと、将軍こと一橋 晴斗の顔を思い浮かべる。先に彼に友達になってくださいと言うべきではなかったか。
(いや、でも将軍は別に勉強好きって感じでもなさそうだしなぁ)
校則を守っていない、チャラい服装の彼を思い浮かべる。
(いや……! 人を見た目で判断しちゃだめだ……! つか、同じ志を持ってないから駄目とか、それは将軍に失礼じゃねぇか?)
内心どこかで彼を見下していたことを悟り、己の愚かさを恥じた。
(はぁー……どうしよっかなぁ。多分ごめんなさいって言われるんだろうな)
どうせそう言われるに決まっている。自分で言うのもなんだが、俺はとても自己評価が低い。
(言わなきゃよかった)
言わなければ、今まで通りの関係を続けることができただろうに。
(はぁー……)
何もやる気が起きない。食欲も湧いてこなかった。
しばらくそうして悶々としていると、ドアを叩く音がした。
「れんやー! ご飯できたよー!」
ドアを開けて中に入ってきたのは一人の女の子、というか俺の妹、朝香だ。
「分かったー……」
俺は朝香の後を追い、そのまま下へと降りたのであった……。
次の日。俺は普通に起きて、高校に向かう。昨日はあれほど悶絶したが、あの後風呂に入って一晩寝た効果もあってか、俺は冷静さを取り戻していた。
(まぁ、だめならだめでいっか)
そんな風に思っていた。
(これで葵さんとの関係が終わるなら、今度は将軍を誘おう)
俺の中では、もう葵さんとの関係は終わると思っていた。
気持ちを何とか切り替え、高校の門をくぐった。
放課後、いつものように自習室に向かうと、そこにはすでに葵さんが来ていた。
「……こんにちは」
その声色には、俺に対する不信感は見受けられない。
「こんにちは」
俺も挨拶を返すが……内心とても気まずかった。
(気を使わせちゃってるよなぁ)
彼女の回答を聞くのが躊躇われたが、聞かなければずっと悶絶して過ごすことになり、自習に影響すると思ったので、聞いてみることにした。
「その……葵さん。昨日の、事なんだけど……」
「ああ。……そうですね。……いいですよ。一緒に、勉強会やりましょう」
葵さんは椅子に座りながら、向かいに座る俺に軽く会釈した。
「え……いいの?」
予想していなかった回答が出てきたため、思わず口に出る。
「はい。後で待ち合わせ場所や、時間を詰めましょう?」
「わ、分かりました……」
何とか言葉を返すものの……この時の俺は内心動揺していた。
(え? いいの? ええんか? ……ど、どうしようマジで来るんか?)
誘ったのは俺の方だったのに、いざOKを出されると、心の奥底から戸惑いと共に躊躇いの気持ちが湧きあがってきた。
(どうしようどうしよう! いやでも……ここで断ったら一体何なんだ、って話だよな。そうだよな……)
机に両肘を付け、両手で頭を抱えて考え込んでいると……。
「碧君?」
「は、はい!?」
突然葵さんから声を掛けられ、素っ頓狂な声を出してしまう。
「いや……なんかさっきから難しそうな顔してるけれど、何か悩みでもあるの?」
「あ、いや……特に何も」
君の答えを聞いて悩んでいるだなんて、言える訳が無かった。
「何か困っていることがあったら、遠慮なく言っていいですよ? ……友達ですから」
「あー……そうだね。友達、だね……。うん……」
「……?」
結局その日は、勉強に集中することができなかった。