3 楽しい平民生活!
離縁の手続きを行うと約束していた11月22日【いい夫婦の日】の前日。マリーは屋敷を抜け出し、行方を晦ませた。
使用人数人を買収してしまえば、家出は簡単だった。資金は潤沢にある。マリーは既に離縁の慰謝料と(分与された)財産をファビアンから受け取っていた。勿論、ソッコーでマリー自身の個人資産口座(ファビアンには内緒のへそくり口座)に入金している。ちなみに法外な額の慰謝料や財産分与は請求していない。あくまで常識の範囲内で“ちょい高めかな”という程度の金額を頂戴しただけである。マリーは良識ある淑女なのだ。そこのところ夜露死苦。
せっかくなので、自室に書き置きも残してきた。
〈ファビアン様、さようなら。私は南部の田舎町に行き、憧れのスローライフを送るつもりです〉
大嘘である。陽動作戦は家出する者の基本戦略だ。
勿論、マリーは王都にいた。伯爵邸から馬車で20分ほどしか離れていない王都の中心部だ。土や虫が大嫌いなマリーは田舎町でのスローライフなんてまっぴらごめんである。
外国語が得意なマリーは、とりあえず有名な貿易商会に乗り込み、自分を雇ってくれるよう売り込んだ。その際【DV夫の元から逃げ出して来た平民の女】を装ったら、商会長の妻がえらく同情してくれて、すぐに採用された。ラッキー!
今のマリーは、平民として暮らすなら一生遊んで暮らせる程の金(夫から受け取った金ね)を持っている。本当なら働く必要などない。だが、若い女が一人で優雅に遊び歩く生活などしていれば、良からぬ連中に目をつけられて危険な目に遭うのがオチだろう。贅沢をせず真面目に働くことこそが1番のセキュリティ対策だ、とマリーは考えたのだ。
マリーは商会の従業員寮に住むことになった。17歳まで貧乏男爵家で育ったマリーは、身の回りのことも家事も問題無くこなせる。使用人が少なかったから必然的に自分でするしかなかったのだ。何なら裕福な育ちの平民女性(豪商のお嬢さんとかね)より、むしろ家事能力に長けている自信がある。貴族としては情けないが、こんな所で役に立つとは。「若い時の辛労は買うてもせよ」とはよく言ったものだ。
そんなこんなで早速、貿易商会で働き始めたマリー。5ヶ国語を操るマリーは重宝され、商会長の妻の【同情】という名の依怙贔屓もあり、あっという間に重要な仕事を任されるようになった。
17歳で伯爵家に嫁いだマリーは、勿論今まで仕事をした経験など無い。貧乏男爵家の当主(マリーの父)でさえ、貴族の意地だろう、さすがに娘を外で働かせる事はしなかったのだ。
⦅女性が【労働】するなんてバカにしていたけれど、なかなかどうして楽しいじゃないの!⦆
マリーは貴族女性特有の偏見などあっという間に捨て去り、日々張り切って働いた。明るい性格のマリーは他の従業員ともすぐに打ち解け、親しくなった。毎日がハッピーで楽しくて仕方ない。
⦅やだ、私ったら凄過ぎ! 新しい【ハッピーライフ】をもう手に入れちゃった?!⦆
マリーは貴族の女性としては、あまり目立たない容姿であったが、平民の目から見ると充分に「華やかな美人」らしい。そう気付いたのは就職して暫く経った頃だった。商会の男性従業員や取引先の男性達から次々とデートを申し込まれるようになったのだ。悪い気はしない。夫ファビアンに裏切られたマリーは、一人の女性として深く傷付いていた。傍から見ればそうは見えなかったかも知れないが、やはり傷付いていたのだ。緊張した顔でマリーにデートを申し込んでくれる平民の男性達に少し救われた気がした。まぁ、だからと言って誘ってくれる男性全員とデートする訳にもいかない。職場の風紀を乱すのは重大なコンプライアンス違反だろう。男性に誘われる度に、マリーは哀し気な表情を作りながら、こう言った。
「ごめんなさい。私、夫から暴力を受けていた所為で、男性と2人きりになるのが怖いんです」
はい! 主演女優賞!
それなら、大勢で飲みに行こう! と言い出した吞兵衛がいて、結果、男性従業員も女性従業員も取引先の人間も加わった飲み会が頻繁に開かれることとなった。
実はマリーもお酒が大好きである。
「それでは第10位から発表しま~す!」
酔うと必ず【一度言ってみたい台詞】自分ランキングを披露するマリー。
「「「「「「「「ぃよっ! 待ってました!!」」」」」」」」
「それでは第10位!【光あるところ、必ず影あり! お前が光なら俺は喜んで影になろう!】」
「「「「「「「「マリーちゃん! かっこいい!!」」」」」」」」
毎回、飲み会は超盛り上がる。楽しぃ~い!
家出した当初、マリーはあくまで「仮の暮らし」のつもりで平民生活を始めた。ファビアンは離縁手続きをする予定だった【いい夫婦の日】の前日に消えたマリーを必死で探すだろう。マリーとの離縁が成立しなければ愛人ロジーヌを妻にすることは不可能なのだ。そりゃあもう、血眼でマリーを探し回るはずだ。だから、夫に見つからぬよう、当面の目眩ましのつもりで平民に紛れたのだ。ほとぼりが冷める頃を見計らい、身内や友人に連絡を取って、これからの身の振り方を相談しようと、マリーは考えていたのである。
だが、日々楽しく暮らすうちに、マリーはすっかり平民の生活が気に入ってしまった。
⦅もう、このままずっと平民暮らしでもいっかぁ~。お金も沢山あるしね~⦆
マリーは、そんな風に思い始めていた。
ちなみに彼女の座右の銘は「人生は風任せ」である。