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村人な夫と勇者の妻

作者: 楽市

 初めまして。

 僕は、リオッタといいます。


 大陸の西側にある辺境の農村で、僕は第一村人という仕事をしています。

 第一村人は、村に来た人にこの村の名前と特色を教える、看板みたいな仕事のことです。


 村は本当に何もなくて、周りは林や森ばかりで、奥に泉があるくらいでした。

 住んでいる人も農家か樵くらいで、遊ぶ場所もないような所です。

 ただ、春夏秋冬の移り変わりがはっきりしていて景色は見飽きない、いい村です。


 家は農家ですが、兄が継いだため、次男の僕は第一村人の仕事に就きました。

 正直、あまりやることもなく、仕事のやり甲斐は薄いです。賃金も高くありません。


 でも時々、思い出したように外から人が来るため、必要な仕事でもあります。

 村長からは「成り手がいない仕事だから、助かるよ」と言われています。

 体が弱くて農家になれなかった僕でも、できる仕事があるのは悪い気分ではないです。


 さて、まずは僕の妻との出会いを語りたいと思います。

 僕の妻は、名をティーネといいます。

 世界の半分を支配した魔王を倒して人々を救った勇者、らしいです。


 だけど、村の外に出たことがなく、学もない僕には何のことやら、でした。

 実際、最初に会ったときも、彼女がそんなすごい人のようには見えませんでした。


「すまない、ここはカルリの村で間違いないだろうか?」


 それは、秋の終わり頃のことでした。

 村の入り口でボ~ッと空を眺めていたときに、後ろから声をかけられました。


「はい? はいはい、ここはカルリの村ですよ。ようこ――、あれ?」


 慌てて振り返っても、そこには誰もいません。

 視線を左右に巡らせても、誰もいません。あれ、あれ、と僕は辺りを探しました。


「……私はここだ」


 すぐ目の前から、何ともバツが悪そうな声が聞こえてきます。

 声の主は、確かに目の前にいました。

 ただ、僕が無駄にのっぽで、彼女が少しだけ背が低いため、わからなかったのです。


「あ、ごめんなさい」


 気づいた僕は、彼女にペコリと頭を下げました。


「いや、いい。よくあることだ。それよりも、村長の家はどこだろうか?」


 尋ねられたので、僕は頭をあげて改めて彼女を見ました。

 小柄だけど、随分と物々しい恰好をした女の人だな、というのが第一印象でした。


 使い込まれた鎧は傷だらけで、その下の服も薄汚れています。

 顏も、右頬に大きな傷痕があって、左頬には乾いた泥。

 三つ編みにしてある長い赤髪は、色が褪せてところどころほつれています。


 そして、背にはとても大きな剣を背負っていました。

 手にする荷物袋もかなり中が詰まっていて、持ち歩くのも大変そうです。


 それに、目が怖かったです。

 顏はきっと可愛らしいのに目つきが険しくて、随分と張りつめていました。


 僕は困りました。

 もしかしたら、この人は怖い人なんじゃないかと思ったからです。どうしよう。


「私はここで待っていてもいいぞ」


 困っていると、女の人はそう言ってくれました。

 それにしても声が高い人だなぁ、という印象をそのとき持ちました。

 とても高くて、でも、甘くとろけるような、とてもいい声です。


「えっと……」

「村長には、勇者が来たとだけ伝えてもらえればいい」


 この人はユーシャさんというらしいです。

 いえ、本当はティーネなのですが、このときの僕は勘違いしていました。


「ユーシャさんですね、わかりました」


 変な名前だなと思いながら、僕は村長にユーシャさんのことを報せに行きました。

 すると、村長は跳びあがらんばかりに驚いて、僕もびっくりしました。


「何と、こんな僻地に勇者様が!?」

「はい。ユーシャさんが来てますけど……」


 村長は、村の入り口にすっ飛んでいきました。

 ユーシャさんは、様付けで呼ばれるほど偉い人なんだ、と、思いました。


 汚れた格好をしていたけど、綺麗な人でした。

 だから、もしかしたらどこかの国のお姫様なのかも、と考えたりもしました。


 これが、僕と妻との出会いです。

 このときの僕は、彼女が魔王を倒す旅をしていることすら、知らなかったのです。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 季節が二つ巡って、年の半分を過ぎた頃。

 ユーシャさんはまた、カルリの村にやってきました。


「すまない」


 僕が近くの森の方をボ~ッと眺めていたら、後ろから声をかけられました。


「はい? はいはい、ここはカルリの村ですよ。ようこ――、あれ?」


 慌てて振り返っても、そこには誰もいません。

 視線を左右に巡らせても、誰もいません。あれ、あれ、と僕は辺りを探しました。


「…………私はここだ」

「あ、ごめんなさい」


 僕は、半年前と同じように彼女に気づくのが遅れました。

 彼女は、ちょっとだけプリプリしていました。それと、前より傷が増えていました。


「えっと、フーシャさん?」


 半年前に来たのは覚えていたので、名前を思い出そうとしましたが、間違えました。


「風車ではない。勇者だ」

「あ、間違えました。ごめんなさい」


 眉根を寄せるユーシャさんに、僕はペコリと頭を下げました。


「いや、いい」


 と、ユーシャさんは言ってくれましたが、目つきは険しいままです。


「……怒ってます?」

「別に、怒ってはいないが。どうしてだ?」


 聞き返されてしまいました。


「えっと、ものすごく怒っているような顔だったから、怒ってるかと思いました」


 僕は、ユーシャさんに思ったことを正直に告げました。


「私は、怒っているように見えるか?」

「はい。すごく」


「すごくか」

「はい。ものすごく」


「ものすごくか」

「はい。とってもものすごく」

「…………」


 ユーシャさんは腕を組んで黙り込んでしまいました。


「あ、ごめんなさい」

「ん? 何故、君が謝るんだ。君は何もしてないだろう?」


「でも、ユーシャさんが黙っちゃいました。きっと僕が悪いことをしたからです」

「おいおい、何でそうなるんだ?」


 ユーシャさんはわからなそうに首をかしげています。

 僕は、悪いことをしていなかったのでしょうか。わかりません。


「ごめんなさい、僕は頭が悪いから、自分が悪いかどうかも、わかりません」

「……そうか。じゃあ言うが、君は悪くないよ。何も悪くない」


 僕が正直に言うと、ユーシャさんはそう言ってくれました。


「私が怒っている風に見えたのは、少し前まで魔物と戦っていたからだよ」

「マモノ、ですか」


 魔物については、兄や父に少しだけ聞いたことがありました。

 狼や毒蜂よりも怖いものだって、兄は言っていました。僕は会いたくないと思いました。


「ユーシャさんは、マモノをやっつけられるんですね。すごいです」

「ああ、まぁ、それが私の仕事みたいなものだからな」


 ユーシャさんは少し笑って、背負っている大きな剣の柄を軽く掴みました。


「仰々しい武器だろう? これは聖剣と言って、私にしか使えないんだよ」

「セイケン、ですか」


 このときの僕は、聖剣がどういうものかも知りませんでした。

 ユーシャさんに見せられても、ただ『持つのが大変そう』としか思いませんでした。


「じゃあ」


 僕は、ユーシャさんに言いました。


「ユーシャさんは、セイケンを使ってマモノをやっつけるお姫様なんですね」

「…………んん?」


 ユーシャさんが、キョトンとなってしまいました。


「あれ、何か間違いましたか? ご、ごめんなさい……」


 また悪いことをしてしまったのかと思って、僕は慌てて謝りました。

 ユーシャさんは「いやいや、違うから」と手を振って、僕に教えてくれます。


「君は何も悪いことはしていない、が、何故私をお姫様、などと……?」

「え、違うんですか!?」


 逆に、言われた僕がびっくりしてしまいました。


「こんな格好をしたお姫様がいるものか!」

「ひぅ、ごめんなさい。……だって、村長がユーシャ様っていってたから」


 ビクリと震えて説明すると、ユーシャさんはまた目を丸くしてしまいました。


「……つまり、私が様付けされていたから、お姫様と勘違いした、と?」

「え、はい。そうです。間違えてたなら、ごめんなさい」


 僕がまた謝ると、ユーシャさんは少しの間そのまま固まって、


「――ップ」


 突然、笑いだしました。


「そうかそうか、様付けされてたから私はお姫様、か! ハハハハハハハ!」


 ユーシャさんは両手でおなかを抱えて、体をくの字に曲げて大笑いしていました。

 そのときの彼女はとても楽しそうに見えて、僕もなんだか嬉しくなりました。

 でも――、


「……本当に、お姫様だったら楽だったんだがな」


 笑い終えて、涙を拭うユーシャさんが、声を低くしてポツリと呟きました。

 僕にはそれが、何だかとても印象に残りました。


「お姫様じゃないんですか?」

「違うよ。前回も言ったと思うが、私は勇者だよ」


「はい、ユーシャさんですよね」

「その通り、私は勇者だ」


「ユーシャさんは、お姫様じゃないんですか?」

「いや、だから勇者だと言ったろ?」


「はい、聞きました。ユーシャさんはユーシャさんですよね?」

「うん。私は勇者だよ。当代の勇者であるティーネだ」


「え?」

「ん?」


 僕が初めて彼女の本当の名前を聞いたのが、このときでした。


「……ユーシャさんじゃないんですか?」

「だから、そうだと。私は勇者だと、何回も、……いや、待てよ」


 そこで、ティーネさんは腕を組んだまましばし視線をさまよわせて、


「もしかして君は、私の名前がユーシャだと思っていたのか?」

「えっ、違うんですか!?」


 僕はびっくりしました。

 人様のお名前を、間違えて覚えてしまっていたみたいです。とても悪いことです。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさい! お名前、間違えてました! ごめんなさい!」

「アハハハハハハハハハハハ! 何てこった、面白すぎる間違いじゃないか!」


 顔を青くして謝る僕に、ティーネさんはまた大笑いしていました。

 僕はすごく恥ずかしくて、顔が焼けるように熱くなったのを覚えています。


「おお、勇者様! またいらしていただけるとは!」


 そこに、ティーネさんの笑い声を聞きつけたらしい村長が、走ってきました。


「これ、リオッタ! 勇者様がいらしていたなら、何故わしに報せないのだ!」

「あ、村長。ごめんなさい! えっと、ユーシャさんがティーネさんだったから……」

「何だそれは……?」


 僕がしどろもどろになって説明すると、村長はちんぷんかんぷんという顔なりました。

 それを見て、またティーネさんが大笑いしていました。


「はぁ、ひぃ、こんなに笑ったのは久しぶりだ……」

「おお、勇者様。申し訳ございません、ウチのリオッタがとんだご無礼を」

「いえ、村長殿。大丈夫です。楽しませていただきました」


 二人が話している間も、僕はずっとアワアワし続けて、頭を下げていました。

 それから、ティーネさんは村長の家に行くことになりました。


「君は、リオッタというのか。覚えておくよ」


 去り際、ティーネさんは僕にそう言っていきました。

 そのときの微笑みを見て、僕は一つ、思い出しました。


 僕があの人をお姫様だと思った理由。

 それは、ティーネさんがすごくすごく、綺麗な人だったからです。


 今日初めて見たティーネさんの笑顔も、本当に可愛かったです。

 そう思った僕は多分、もう、彼女のことが好きになっていたんだと思います。


 でも結局このときは、それを彼女に伝えることはできませんでした。

 僕が次にティーネさんに会うのは、それから一年以上経ったあとでのことでした。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 四季が巡って、一年が経ちました。

 僕は相変わらず、カルリの村で第一村人の仕事をしています。


 去年、ティーネさんに会ったあとで、父から勇者について教えてもらいました。

 この世には魔王というすごい魔物がいて、勇者はそれをやっつける仕事だそうです。


 聖剣というものが魔王をやっつける武器で、それを使って戦うのが勇者だ。と。

 そんな話を、父は僕にしてくれました。

 ティーネさんが見せてくれた、あの大きな剣が魔王をやっつける聖剣だったのです。


 そうか、ティーネさんは綺麗なだけじゃなく、とってもすごい人なんだ。

 と、頭の悪い僕でも何となく理解することができました。


 あれから、僕はボ~ッとすることが少なくなりました。

 来る日も来る日も、ずっと村の入り口を眺めながら、仕事をしていました。


 ティーネさん、来ないかな。

 僕は毎日、そうお祈りしながら村の入り口を眺めていたのです。


「あ」


 僕のお祈りが通じたその日、ティーネさんが村にやって来ました。

 季節は夏の始まり。強い陽射しの下で、そろそろ蝉が鳴き始めた頃のことでした。


「ティーネさん、ようこそ!」


 村の入り口までゆっくり歩いてきた彼女に、僕はすぐに近づいて声をかけました。

 すると、口を半開きにしたティーネさんが焦点の定まらない目で僕を見ました。


「…………」


 彼女は、少しの間ボ~っとして僕を見つめました。


「……あ。ああ、君か」


 数秒くらいして、やっとティーネさんは僕のことがわかったみたいでした。

 よく見れば、彼女の姿は去年よりもさらに傷が多くなっていました。


 鎧は傷だらけどころかベコベコで、下に着てる服も、褪せた茶色の汚れが目立ちます。

 あとで聞いたことですが、その汚れは血の跡らしいです。


 ティーネさんの肌も浅黒く焼けて、見えている部分の傷の数も増えていました。

 村まで歩いてくるのも、歩くというよりは体を引きずるようで、大変そうでした。


 夏の熱い空気を介して、鼻を衝く異臭が伝わってきます。

 放置した肥溜めのような、牛舎のにおいをさらに煮詰めたような、そんな感じです。


「匂うだろう、私は」


 ティーネさんが笑って言いました。

 異臭は、彼女からでした。

 今、ティーネさんが浮かべている笑みは、僕が前に見た笑顔とは全然違ってました。


 見ているこっちが、何故か悲しくなってしまう。

 そんな、心にズキリと痛みが走ってしまうような笑顔です。


「少し前まで、魔物の群れと戦っていてね。すまない。こんな格好で」


 ティーネさんはそう言って、体を引きずりながら僕の前を過ぎようとしました。

 もう、三度目の来訪になります。第一村人の僕の案内も必要ないのでしょう。


 そうすると、僕にできることはありません。

 仕事がないので、このままティーネさんを見送ればいいだけです。


「…………」

「ん? 何だい?」

「あれ?」


 ティーネさんが、僕を見ていました。

 僕も、僕の手を見ていました。

 何故か、僕の右手がティーネさんの頭の上に置かれていました。


「……えぇと、この手は?」


 まばたきをしながら、ティーネさんが不思議そうに僕に問います。

 その問いに咄嗟に答えを返せず、僕は、ティーネさんの頭に置いた手を動かしました。

 つまり、ティーネさんの頭を撫でました。


「リオッタ、な、何を……?」


 撫でたら、ティーネさんの体がフルフルと震えだしました。声も同じです。

 僕は、さらに彼女の頭を撫でながら、言葉を探し続けました。


「えっと、えらいえらい、してます?」

「私に尋ねるな。君が私にしていることだろう!?」

「あ、そうですね、ごめんなさい」


 僕は手を放しました。


「な、何なんだ、一体……」

「だって、ティーネさんは魔物をやっつけたんでしょう? すごいです。えらいです」


「称賛は嬉しいが、何故頭を撫でるんだ。私を幾つだと思っている!」

「え、ティーネさんの年齢……?」


 ついつい、見た目から僕より年下かと思って撫でてしまいました。

 しかし、言われてみれば確かに、僕はティーネさんの年齢を知りませんでした。


「私は今年で、19だ」

「僕は18です」

「君の方が私よりも年下じゃないか!」


 ああ、怒られた。またやり方を間違ってしまいました。


「ごめんなさい、ごめんなさい! 僕、頭が悪いので……」

「頭が、とかそういう問題ではなくてだな……」


 ティーネさんがハァ、とため息をついて肩を落としました。


「何故、頭を撫でたりした。私は、そんなにも褒められたそうだったか?」

「え、違います。ティーネさんは頑張ってる人だから、撫でてあげたいなって思って」


 死んだ母が、僕や兄が頑張ったときによく頭を撫でてくれました。

 撫でられたときはすごく嬉しくて、だから、撫でたら喜んでくれるかな、って。

 それをティーネさんに伝えたら、彼女は唇をもごもごさせていました。


「そんなことを言われたら、叱るに叱れないじゃないか……」

「ごめんなさい。怒らせちゃいましたよね。本当にごめんなさい」

「怒ってはいない。……困りがしたが」


 やっぱり、僕は悪いことをしていたようです。

 勇者っていうすごい仕事をしているティーネさんを、困らせてしまいました。


「いや、それはいいんだが。そろそろ離れたらどうだ?」

「え、何でですか?」

「何でも何も……、言っただろう、今の私は臭いんだ」


「はい、臭いです」

「――正直且つ、率直且つ、剛速球だな」


 あれ、また僕は何か悪いことを言ってしまったのでしょうか。


「臭いとわかるなら離れてくれ。君にまでにおいが移るぞ」

「移るのは悪いことなんですか?」


 ティーネさんの言っている意味がわからず、僕は思わず問い返してしまいました。


「…………」


 すると、ティーネさんはものすごくびっくりしたような顔になっていました。


「あ、ごめんなさい。変なこと言いましたか?」

「いや、その、君は私のにおいが気にならない、のか……?」


「臭いです」

「それは聞いた。だが、君はそれが、気にならないのか?」

「え、何でですか? お仕事を頑張ったから、においがついたんでしょう?」


 畑仕事を頑張った父も兄も、仕事が終わると大体臭いです。

 それは汗臭さであり、肥料のにおいだったりします。

 他にも、鍛冶屋のおじさんもいつも鉄臭いし、村長もインク臭くなります。


 みんな、頑張った分だけ臭くなるものだと、僕は知っています。

 だけど僕だけはいつも、においが薄いです。

 きっと、僕は楽をしているから、においがつかないんだと思います。


「ティーネさんは、臭いです。すごく臭いです。つまり、すごく頑張ったんですね」


 彼女は、そのにおいを嫌っているように見えます。

 でも、僕はすごくいっぱい頑張った彼女を、とても尊敬できる人だと思いました。


「……私は、すごく頑張った、か」


 フ、っと、ティーネさんの顔に笑みが浮かびました。

 それは、さっき見せた悲しくなる笑みじゃなくて、前に見た綺麗な笑顔でした。


「でも」

「ん、何だい、リオッタ」


「今のティーネさんは、すごく疲れてるように見えます。頑張りすぎです」

「それは、まぁ、そうかもしれないな。……痛いところを突く」


 ティーネさんは、そう言って下を向いて、軽く苦笑していました。


「頑張り過ぎたら、体に悪いです。疲れたら、誰かに替わってもらうといいです」

「誰かに替わってもらう? 勇者の仕事をか?」

「はい。父も、兄も、病気になったりケガをしたら、そうしてます」


 僕が言うと、ティーネさんは「そうだな」と言って顔をあげます。


「リオッタ」

「はい?」

「……いや、何でもないよ」


 何かを言いかけたティーネさんはかぶりを振って、言葉を止めてしまいました。

 ただ、そのすぐあとに、


「誰かに替わってもらえるなら、替わって欲しいさ、こんな役割」


 小さくそう零したティーネさんの表情は、前に会ったときと同じでした。

 前に、お姫様なら楽だったろう、って言ってたときの表情と。


「ティーネさん……?」

「長居をしてしまったな。すまない。そろそろ村長の家に行くよ」

「あ……」


 僕が尋ねる前に、ティーネさんは行ってしまいました。


「ティーネさーん、またお話ししましょうねー!」


 遠ざかるティーネさんの背中へ、僕は大きく声を出して手を振りました。

 ティーネさんからの返事は、ありませんでした。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 次にティーネさんと会えたのは、二か月後でした。

 それまでの間に、僕は村長から彼女がこの村を何度も訪れている理由を聞きました。


 魔物の血には、悪いノロイが混じっているらしいです。

 ティーネさんは魔物をやっつけることで、その血を何度も浴びてるということでした。

 ノロイの血を浴び続けると、体がどんどん悪くなっていくと村長は言っていました。


 実は、村の奥にある泉で体を清めると、そのノロイがなくなるとのことでした。

 村長の説明を聞いて、僕はなるほどと思いました。

 そういえば、村に来るとき、ティーネさんはいつも汚れていました。


 きっと、魔物の血のノロイで体を悪くしていたんだと思います。

 だから泉で身を清めて、体を悪くするノロイを洗い落としていたのだと知りました。


 つまり、ティーネさんが魔王を倒すまで、まだ何回もここに来るということです。

 それは僕にとっては嬉しいことだけど、でも、心配なことでもありました。


 自分のにおいのことを言って笑う彼女の顔を思い出したからです。

 僕は、あんな風に笑うティーネさんの顏は、あんまり見たいとは思いません。


 だって、あの笑顔は痛くて悲しいです。

 悲しい笑顔だってことを、ティーネさんも自分でわかってると思います。


 だから僕は、彼女のあの笑顔は見たくありません。

 僕は、心の底から笑っているときのティーネさんが大好きだから。


 でも、次に村に来たとき、ティーネさんは最初から、あの悲しい笑顔だったんです。

 その日の朝、僕は今までと同じように村の入り口から外を眺めていました。


 森を切り拓いて作られた道に、ポツンと小さな影が見えました。

 僕は、それに気づいた瞬間、ティーネさんだとわかりました。僕は手を振りました。


「ティーネさん!」


 このときの彼女の状態を知りもしないで、僕は、のん気に手を振ったんです。

 でも、ティーネさんの様子がおかしいことにはすぐに気づきました。


 これまでと比べて、ずっとずっと、入り口に来るまで時間がかかったからです。

 遅かったです。とても遅くて、僕は、どんどん怖くなっていきました。


 もしかしたら、ティーネさんは村の入り口までこれないんじゃないか。

 このまま、倒れて死んでしまうんじゃないか。そう思ってしまったんです。


「ティーネさん、大丈夫ですか!」


 気がつけば、僕は走り出していました。

 村の入り口を越えて、ティーネさんの方に駆け寄りました。


「…………ぁ?」


 息を乱した僕が前に立つと、ティーネさんは小さく声を出しました。

 僕は、驚きのあまり口をあけてそこに棒立ちになりました。


 二か月ぶりに見るティーネさんの姿は、前よりもずっとずっと、傷だらけでした。

 額にも、頬にも、腕にも、足にも、数えきれないくらいたくさんの生傷があります。


 ティーネさんの目は虚ろで、僕を向いているのに、僕を見ていません。

 鼻からは鼻血と鼻水が垂れて、開きっぱなしの口からはよだれが垂れていました。


 三つ編みはほどけて、腰まで届く長い髪が額や首筋に張りついていました。

 そして、とても臭かったです。前のときよりも、ずっと。

 ティーネさんが歩くのが遅かった理由は、聖剣を杖代わりにしていたからでした。


 右腕はブランと垂れ下がらせて、左腕だけで剣を杖にして、歩いていました。

 それじゃあ、早く歩けるはずがありません。そんなことはいくら僕でもわかります。


「ティーネさん……」


 彼女は、ボロボロでした。

 鎧も服も血だらけで、きっと、やっつけた魔物のノロイの血なんだと思いました。


「……あ? ぁ、ああ、きみ、か」


 ティーネさんは、やっと僕に気づきました。

 何も映していなかった目に、少しだけ光が戻ったような気がしました。


「すまない、村長の家に……」

「頑張りすぎです!」


 言いかける彼女に、僕は、つい叫んでしまいました。

 だって、見ていられません。こんなボロボロになるまで頑張るなんて、おかしいです。


「…………。……うん、そうだな。わかっているよ」


 ちょっとだけ黙ってから、ティーネさんはヘラリと笑って、僕にそう言いました。

 またです。また、あの悲しくて痛い笑い方です。

 それをするティーネさんを見て、僕は胸の奥がキュウと締め付けられました。


「この前、君は言ったな。疲れたら、誰かに替わってもらうといい、と」


 ティーネさんはボソボソと、とても小さな声で話します。

 とろけるようだったその声は低くかすれていて、今の彼女の疲れ具合がわかります。


「はい、言いました。お仕事、休めばいいじゃないですか」

「休めないんだよ、残念ながら」


 悲しい笑顔のままで、ティーネさんは首を横に振りました。


「私が休んでしまえば、それだけ世界が救われる日が遠くなる。それは、許されない」

「何ですか、世界が救われるって。どういうことですか」


 意味がわからなくて、僕は聞き返してしまいました。


「……そうか、こんな平和な村に暮らしていたら、わからないだろうな」


 悲しい笑みが、ますます深まっていきます。


「だけど、外は大変なんだ。斬っても斬っても、魔物は湧く。魔王のせいだ。魔王がいる限り、外の世界に平和は来ない。だから私は、戦い続けるんだ。魔王を倒すまで」

「お休み、できないんですか?」

「できないさ。できるはずがない。誰もそんなこと、望んでいない」


 また、ティーネさんは首を横に振ります。


「何故なら、聖剣の力を引き出せるのが私だけだからだ。魔王は聖剣でしか倒せない。だから、私がやるしかない。私が戦って、強くなって、魔王を倒すしかないんだ」

「でも、ずっとずっと頑張ってたら、体がおかしくなっちゃいます」


 僕が言っても、ティーネさんは「いいんだ」と返してきました。


「私が戦うだけ、誰かの苦痛が薄れる。それは私にとって何にも代えがたい報酬だ。それに、金銭も得られる。名声だって。私が勇者であるからこそ、得られるものだよ」


 そう語る彼女の顔は、ずっとずっと、笑ったままです。

 僕の心を突き刺して痛くさせる、あの悲しい笑みが、さっきから消えていません。


「だからいいんだ。私は、これでいいんだ」

「……納得、してるってことですか?」

「そうだとも。私は納得して戦っている。だから、そろそろ通してくれないか?」


 ティーネさんは、笑みを消して、面倒くさそうに言いました。

 彼女にそう言われて、僕はドキリとしました。悪いことをしたんだと思いました。


「ごめんなさい」


 僕は、いつものように頭を下げて謝りました。


「心配してくれたのは、嬉しいよ。それじゃあ、私は――」

「勇者、やめてください」


 頭をあげて、僕ははっきりと大きな声で、ティーネさんにそれを伝えました。

 彼女は、ポカンとなっていました。


「……君は、今、何て?」

「ティーネさんは、勇者をやめた方がいいと、僕は思います」


 聞き返されたので、僕も言い返しました。

 だって、おかしいです。絶対におかしいです。ティーネさんの言ってること。


「な、き、君は自分の言っていることの意味が、わかって……!?」

「ティーネさん、全然、何も納得できてないです。ただ、諦めてるだけです」


 僕に説明したときのティーネさんの表情を、僕は知っています。

 それは、治らない病気になった母が時々見せていたものと同じです。諦めの顔です。


「納得した人は、そんな顔しません。そんな、悲しくなる顏、しません!」

「言わせておけば……!」


 ギリ、と、ティーネさんの口から音がしました。

 奥歯が軋んだ音だって、すぐにわかりました。彼女はとても怒っていました。


「諦めだと? ああ、諦めているさ。だって仕方がないだろう!」

「何が、仕方ないんですか?」

「聖剣は私にしか使えない。私が勇者になるしかないんだ!」


「それでも、疲れたら休めばいいじゃないですか。休んじゃいけないんですか?」

「ダメに決まっている! 私は勇者だ、誰もが、私に期待をかけているんだぞッ!」


 ティーネさんの怒鳴り声が、僕はすごく怖かったです。

 彼女は僕を睨みつけて、全身からピリピリとした感じを漂わせていました。


 でも、やっぱりおかしいです。

 彼女の言っていることはおかしいって思えて、僕は、納得できません。


「魔王をやっつけるお仕事は、きっとすごく大変なお仕事だと思います」

「そうだよ、大変だ。だから私は戦い続けているんだ!」

「それが、おかしいです。どうして一人でやってるんですか。何でですか?」


 大変な仕事は、みんなでやるもんだって、父が言っていました。

 新しい畑を作る仕事も、家を建てる仕事も、たくさんの人に手伝ってもらいます。


「ティーネさんは、ずっと一人だけでお休みもしないで頑張ってるようにしか見えないです。何でですか? 大変な仕事なら、誰かに手伝ってもらえばいいのに」

「……それが簡単にできるなら、私はこんな風にはなっていないよ」


 またです。

 また、ティーネさんが、あの悲しい笑いを浮かべました。


 やっとわかりました。

 それは、諦めの笑いです。彼女の中にある諦めが、表に顔を出してるんです。


「手伝ってもらえないんですか?」

「当然だ。言ったろう、誰もが私に期待をかける。私に、弱音なんか許されない」


 笑みを消して、ティーネさんはそう言います。

 それって、期待なんでしょうか。この人に、こんな辛そうな顔をさせるものが?


「いい加減、通してくれ。こんなところで無駄な問答をしている時間も惜しいんだ」

「どうしてですか?」

「だから無駄な問答は……、まあいい。これまでのよしみだ、説明くらいはしてやる」


 ティーネさんは小さく息をついてから、僕に説明をしてくれました。


「魔王の居城に乗りこめそうなんだ。やっと、そこに通じる道を見つけた。だから、カルリの泉で身を清めて呪いを浄化したら、すぐにまた戻らなければならないんだ」


 頭の悪い僕では、彼女がしてくれた説明の半分も理解することができません。

 ただ、ティーネさんがこれから大事なお仕事をしようとしていることはわかりました。


「それは、誰かに手伝ってもらえないんですか?」

「無理だ」


 彼女は、きっぱりと僕にそう言いました。


「私も勇者として、様々な国から支援は受けてはいるが、それはつまり、私に厄介な仕事を押し付けるための対価でもある。どこの国も、他の誰だって、そんなモンさ」


 ああ、また。

 またティーネさんが笑いました。諦めの笑顔です。とても辛い笑いです。

 それを見るたびに、僕は胸が痛くなって、苦しくなります。


「君だって、私に勇者をやめろと言うが、私に替わってくれるのか?」

「それは、無理です……」


 僕はうなだれました。

 体が弱い僕では、魔物の相手なんてきっとできません。戦いのやり方も知りません。

 ティーネさんを手伝おうとしても、邪魔になるだけに決まっています。


「ほらな」


 彼女は、うなだれる僕を見てハンと鼻で笑いました。


「私以外になれる者もいない。手伝ってくれる者もいない。……だったら、私がやるしかないじゃないか。だから私は勇者をやっているんだ。私の本音など、些細な問題だ」


 そう言って、ティーネさんは肩を落としました。


「だから、もういいだろう?」


 そう言って僕を見るティーネさんは――、泣きそうになっていました。


 瞳には光が揺れて、頬は引きつって、唇は震えていました。

 溜まった涙を一滴も零さないよう、彼女は、必死に我慢して堪えていたのです。


「君が私を心配してくれているのはわかったよ。それは嬉しいよ。ありがたい。……でも、やめられないんだ。私は勇者であることをやめられないんだよ、だから」


 そんな顔を見せられて、僕には、もう何も言えませんでした。

 でも、その表情から伝わってきたこともあります。


 やっぱり、ティーネさんは勇者をやりたくないんです。

 心の底では、彼女は勇者でい続けることを嫌がっているんだって、わかりました。


「…………」

「もう、いいようだな。私は行くよ」


 ティーネさんが、剣を杖にして体を引きずって進んでいきます。

 最初から最後まで諦めの笑いをその顔に張りつかせて、変えることもないまま。


 ……僕は、許せませんでした。


「ごめんなさい、ティーネさん」

「何だ、いきなり?」


 僕の横を通り過ぎようとする彼女から、僕は、聖剣をバッと取り上げました。


「え、な……!」

「ごめんなさい、僕、この聖剣を村の肥溜めに捨ててきます!」

「はぁ!!?」


 聖剣を両手に抱えて、僕は村へと走り出しました。

 僕は、許せなかったんです。

 ティーネさんを泣かしかけた僕自身と、勇者っていう仕事が、許せませんでした。


「ま、待て! やめろ!」

「ごめんなさい、ごめんなさい! でもイヤです! 捨てます!」

「やめろってばァ――――ッ!!!!」


 朝のカルリ村で、僕とティーネさんの追いかけっこが始まりました。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 肥溜めは、村と畑のちょうど間くらいにあります。

 僕は、そこまで大きな聖剣を抱えて、何とか走ってきました。


 聖剣はすごく重くて、僕は、走りながら何度も落としそうになりました。

 僕は体が弱くて、走るのも一苦労で、肥溜めに着いたときには心臓が破れそうでした。


「待て、リオッタ! 聖剣を返せ!」


 肥溜めの前で足を止めると、すぐにティーネさんが追いついてきました。

 彼女はとても怖い顔をして僕を呼び止めました。僕は、聖剣を抱えたまま振り向き、


「そこから近づかないでください! 聖剣を、肥溜めに捨てますよ!」

「どっちにしろ、捨てるつもりだろう、君は!」


 その通りです。

 僕は、この聖剣を肥溜めに捨てて沈めようと考えています。


「何故だ! 何故、こんなことをする!?」

「だって、ティーネさんが苦しんでるのは、この聖剣があるからじゃないですか!」


 腹の底から、僕は叫びました。

 ティーネさんが勇者をやめられないのは、聖剣を使えるのが彼女だけだからです。

 だったら聖剣なんか、なくなってしまえばいい。僕はそう考えました。


「バカなことを……」

「そうです。僕はバカです。でも、勇者をやめないティーネさんも同じです!」


「なっ、わ、私の何がバカだと言うんだ、君は!」

「辛くて、痛くて、苦しくて、勇者なんかやりたくないのに、やめないところです!」


 イヤなことを続けるのは、とても苦しいです。

 ティーネさんにとって、勇者を続けることはただ苦しいことだってわかりました。

 それがわかってしまったから、僕は、彼女に勇者を続けてほしくありません。


「ティーネさんは、勇者をやったらダメな人なんです! だから僕は聖剣を捨てます!」

「捨ててどうなる! それで、私が勇者をやめられるワケじゃないんだぞ!」

「あっ」


 そ、そうでした。ティーネさんの言う通りです。

 僕がここで聖剣を肥溜めに投げ捨てても、彼女は勇者のままです。


「…………」

「…………」


 ティーネさんと僕は、少しの間、無言で睨み合いました。

 意を決して、僕は言いました。


「やっぱり、肥溜めに捨てます!」

「だから、何でだ! 捨ててどうなると言っているだろう!」


「す、捨てたら……」

「捨てたら?」


「捨てたら、拾うのが大変です! 肥溜めは、結構深いです! それに臭いです!」

「臭いのはわかってる。もう、今の時点で私の鼻はひん曲がりそうだ!」

「ご、ごめんなさい!」


 つい、謝ってしまいました。


「だが、どうしてだ!」

「え?」


「何で、君は私に勇者をやめさせようとする、君には関係のない話だろうが!」

「関係なくないです!」


「何故!?」

「勇者のティーネさんは悲しそうだからです。だから、僕も悲しいです!」


「そ、そこは『だから』で繋げていいところなのか?」

「僕は悲しいから、繋がります!」


 戸惑うティーネさんに、僕は言いました。

 僕は、彼女にちゃんと笑っていてほしいです。諦めの笑いなんて、いらないです。


「だから僕は、ティーネさんを悲しませる聖剣を、捨てます!」


 僕は、聖剣を両手で持ち上げて、肥溜めの方を向こうとしました。

 ティーネさんが顔を青くしながら、僕に向かって手を伸ばそうとしてきます。


「やめろ、やめてくれ――、お願いだからやめてよ!」


 彼女の物言いが変わりました。

 その変化にハッとなって、僕は反射的にティーネさんを見てしまいました。


「……どうしてよ」


 ティーネさんは、今度こそ泣いて、僕を睨んでいました。

 眉をいっぱいに下げて、細めた目から涙を溢れさせて、彼女は訴えてきます。


「どうして、こんなことするの? 私、何か恨まれるようなことしたの!?」

「……してないです」


 ティーネさんを泣かせてしまったことに、僕はショックを受けていました。

 やりすぎてしまったんだと、わかりました。

 ごめんなさいと謝っても許されることではありません。僕は、悪い人間です。


「でも」


 でも、それでも僕は、やっぱり言うことにしました。


「僕は、ティーネさんに勇者をやめてほしいです」

「イヤよ!」


 だけど、ティーネさんは僕のお願いをきっぱりと断ってきました。


「私は勇者をやめないわ! だって――」


 涙をポロポロ流しながら、彼女は叫びます。


「勇者じゃない私なんて、何の価値もないもの!」

「え……」

「私にあるのは、勇者として戦うことだけ! それ以外には、私には何もないの!」


 僕は、自分でもはっきりわかるくらい、目を丸くしてしまいました。

 目の前の女の人が何を言ってるのか、全然わかりませんでした。


「聖剣を使えることだけが、私の取り柄なの。それ以外、私には何もないの!」

「そ、そんなことは……」


「どうして、わかるのよ? 私のことなんて何も知りもしないクセに!」

「ごめんなさい……」


 言い返そうとしても、ティーネさんの形相に気圧されてしまいます。

 僕は、彼女を本気で怒らせてしまったようです。

 そして始まったのは、大きな怒鳴り声でのティーネさんの独白でした。


「私はね、生まれたときにその聖剣が反応したの。聖剣が、私を選んだの」

「そうなんですか……」

「そうよ。生まれたその日に、私は勇者になることが決まったのよ。そんな大きいばかりの鉄屑のせいで、私は夢も見れなくなったのよ! 勇者になるしかなくなった!」


 それから、彼女は語りました。

 家が聖剣を伝える家系であること。そして、勇者として厳しく育てられたこと。


「私が生まれたのと同じ頃に、魔王も現れたわ。私は魔王を討つために生まれたんだからって、父も母も、祖父も祖母も親戚も、誰も甘えなんて許してくれなかった」

「そんな、ひどいです……」

「ひどいと思うわよね。でも、それが当たり前だったの。だって私は勇者だから」


 勇者を名乗るティーネさんの目は、血走っていました。


「そう、どこに行っても、私は勇者。何をしても、私は勇者。勇者、勇者、勇者! 聖剣を使って魔物を倒して、自分を鍛えていつか魔王を倒す。私はそれだけの存在なのよ!」


 目を見開いたまま、まばたきもせず、体をガクガク揺さぶって。

 ティーネさんは、笑っていました。泣きながら、あの諦めの笑いを浮かべていました。


「――私に比べたら、あなた達は気楽よね」


 そして突然、声の調子を落として、ポツリとそんなことを言い出しました。


「第一村人ですっけ? 楽なお仕事だわ。村の入り口に立って、ただ、案内するだけ。簡単で、誰でもできるお仕事。毎日、さぞヒマをもてあましてるんでしょうね」

「ティーネさん……」

「お城にね、行くの。魔物を倒したあとで、報告とかに行くときがあるの」


 僕の声は、彼女には届いていないようです。

 ティーネさんの震えた声での独り語りを、僕はそのまま聞き続けます。


「そこで、本物のお姫様に会ったりもするわ。生きてるのが楽しそうなの。すごく楽しそう。お金もあって、苦労もなくて、甘やかされて、欲しいものも手に入れられて」


 彼女の語りが、そこで途切れました。

 次の瞬間、ティーネさんの顔が歪みます。グシャリと、歪んだのです。


「……ずるいわよ」


 その声は、とても激しい恨みに染まっていました。


「私だって、色んなものが欲しかった。気楽に生きたかった。甘えたかった。でも、私は勇者だから、勇者として生まれてしまったから、そんなもの望めない。私は、勇者だから!」


 恨みと、僻みと、苦しみばかりが、彼女の声にあるものでした。


「いつか魔王を倒しても、その先に待っているのどこかの貴族との望みもしない婚姻でしょうよ。そして子を産むの。勇者の血をひいた子を。それが私の役割で、唯一の存在意義なの。勇者じゃない私はただの小娘で、そんな小娘には何の価値もないのよ!」


 もう、見ていられませんでした。


「ティーネさん、ダメです」

「ダメ? 何がダメなの? あなたも、私に甘えるなって言うの?」


 違う。違います。

 僕がダメだって思ったのは、そういうところじゃないです。


「ティーネさん、みんな、頑張ってます」

「……は?」

「僕は、きっと他のみんな程頑張れてないですけど、でも、他の村の第一村人だって、お姫様だって、頑張ってます。他のどんな仕事をしている人も、みんな頑張ってます」


 畑を耕すのは、大変です。鍛冶仕事で農具を作るのも、大変です。

 よくは知りませんけど、王様の仕事も大変で、お姫様の仕事も大変だと思います。


 頑張ってないお姫様がいるなら、それはその人が頑張ってないだけです。

 お姫様だから頑張ってない、ということではないはずです。


「お仕事は、みんな大切で、みんな大変で、だからみんな、頑張ってます」

「それが、何だっていうのよッ!」


「自分が苦しいからって、他の人が何も苦しんでないと思うのはダメです!」

「――――ッ!?」


 ティーネさんが、ハッと息を飲み込んで、体をのけぞらせました。


「勇者以外のお仕事をしてみるといいと思います。きっと、同じくらい辛いです」

「アハ、ハハハハ、何を言いだすかと思えば……!」


 提案する僕に、ティーネさんは長い髪を振り乱しながら叫んできました。


「私には勇者の道しかないって言ったでしょ。本当に、何度言わせるのよ!」

「僕も何度も言います。ティーネさんは、勇者をやめるべきです!」

「この……ッ!」


 のどの奥で唸るティーネさんを、僕は真っ向から睨み返しました。


「ふざけないでよ。私のことなんて、何にも知りもしないクセに!」

「知ってます。知ってることは少ないけど、僕は、ティーネさんのこと、知ってます!」


「じゃあ、言ってみなさいよ。あなたが私の何を知ってるっていうのよ!?」

「ティーネさんが、本当は笑うととっても綺麗で可愛いことを、知ってます!」


 何度も夢に見たあのときの笑顔を思い返して、僕は、言いました。

 すると、ティーネさんはとても狼狽えました。


「な……、ぇ?」

「ティーネさんは、可愛いです。綺麗です! 僕はそれを、知ってます!」


「う、嘘! 私が、綺麗なんて、嘘よ……!」

「嘘じゃないです。僕はずっと前から、そう思ってます!」


 僕が重ねて言うと、ティーネさんはたじろいだように後ずさりしました。


「適当なこと、言わないで。そんなの、絶対嘘!」

「嘘じゃないです。ティーネさんの笑ったところを、僕はまた見てみたいです!」


「そんなの、あり得ない。だって、私の頬にはこんな大きな傷があるのよ!」

「……それは、おかしいんですか?」


 傷なら、僕の指先にもあります。

 兄の料理を手伝おうとして、ナイフで切った傷の跡です。


「おかしいでしょ、女の顔に傷があったら、普通はおかしいの!」

「え、じゃあ、男の僕の顔に傷が無いのはおかしいんでしょうか? 僕、変ですか?」


「何で、そうなるのよ!」

「ごめんなさい! 男の人と女の人じゃ、逆かなって思って!」


 怒られてしまいました。

 僕は、また間違ってしまったみたいです。色々と難しいです。


「…………本当に、私の傷、気にならないの?」

「はい。だって初めて会ったときにはもうありましたし、別に」


 他の男の人は、そこを気にするんでしょうか。僕にはわかりません。

 傷があろうとなかろうと、ティーネさんは変わらず綺麗だし、可愛いと思います。


「…………」


 でも、どうやらティーネさんにとってはそれは驚くべきことだったようです。

 さっきまでの激怒はどこへやら、口をあんぐり開けて僕を見ています。


「ね、ねぇ……」

「はい。何でしょうか」


「私って」

「はい」


「か……」

「か? 何でしょうか?」


 そこから、ティーネさんは少しの間、「か、か、か」と言い続けました。

 僕はその分、首をかしげ続けました。


「か、か……、可愛い、の……?」

「可愛いですよ。綺麗です」


 何か、普通のことを聞かれたので、僕はそう答えました。


「でも、頬の傷……」

「綺麗です」


「でも、髪の毛もこんなにほつれてて……」

「可愛いです」


「でも、においだってキツくて……!」

「気になりません」


 彼女の声が、少し大きくなりました。


「でも! 着てるものもボロボロで!」

「それだけ頑張ったんですよね、すごいと思います」


 声はもっと大きくなっていきます。


「でも! 女らしさなんてどこにもなくてッ!」

「僕からしたら、綺麗な女の人にしか見えません」


 声は震えて、しかも徐々に濡れてきているように感じました。


「じゃあ、教えてよ」


 ティーネさんが、僕に向かって声を荒げました。


「私なんかのどこが可愛いのか、教えてよ!」


 何という簡単な質問でしょうか。

 僕は、僕が知っているティーネさんの可愛いところを教えてあげることにしました。


「まず、笑顔が綺麗です。見ているこっちが笑いたくなる可愛さです」

「く、詳しくは、どの辺が、なのかしら……?」


「大きな瞳が細まって、本当に嬉しそうに見えるところです」

「へぇ、そう、なんだ……」


「はい。それに、柔らかいほっぺが少し吊り上がるのも、可愛いです」

「う、そんなところまで、見てるの?」


「見てます。当たり前です。……あれ、ティーネさん、顔が赤いですよ?」

「……いいの、いいから、続けて!」


「はい。ほっぺが吊り上がるのも可愛いし、にっこり笑う唇も素敵だと思います」

「う、うぅ……、そ、そんな感じ、なのね……」

「笑顔だけじゃないです。驚く顔とか、話すときの仕草とかも本当に――」


 今度は、僕が一人で喋り続けることになりました。

 ティーネさんは最初は反応していましたけど、少しするとそれがなくなりました。


 彼女は顔を真っ赤にして、ずっと下を向いたままでした。

 僕は、また何か間違えたのかと怖くなりましたけど、でも止まりませんでした。


 知ってほしかったんです。

 自分には何もないっていうティーネさんに、自分がどれだけ魅力的なのかを。


「……ねぇ、リオッタ」


 やがて、下を向いたまま、ティーネさんは僕に話しかけてきました。


「もしかして、本当に、もしかしてなんだけど……」

「はい」


「あなたは」

「はい」

「あなたは、勇者としての私じゃなくて……」


 ゆっくりと、ティーネさんが顔を上げて僕の方を見ようとしてきます。

 その顔は、耳まで真っ赤になっていました。

 でも、不安そうな顏でもありました。大きな瞳が、また涙で潤んでいます。


「ティーネとしての、素の私を、ずっと見てくれていたの?」


 何かを考えたわけじゃないんです。

 ただ、泣きそうになっている彼女を見た瞬間、体が勝手に動いたんです。

 気がつけば、僕はティーネさんを思い切り抱きしめていました。


「好きです」

「え……」

「僕は、ティーネさんのことが好きです」


 二度、伝えました。

 すると彼女は、僕の腕の中で一瞬身を固くして、


「それは、私が勇者だから――」

「違います。勇者とかそういうのは、知りません。ティーネさんが、好きなんです」


 三度目の告白。

 ギュッと抱きしめると、ティーネさんも僕を抱きしめ返してきました。


「う、ぁぁ……」


 そして、彼女は震えながら泣きだしました。

 僕の腕の中で、僕の胸に頭を擦りつけて、大きな声で泣き出しました。


「うあああああ、あああああああああ……、ああああああああああああああ!」


 ティーネさんがこれまでずっと溜め込んできたもの。

 勇者だからと、我慢し続けて、一度も外に出せなかったもの。


 それを一気に吐き出して、彼女は大声で泣いて、泣いて、泣き続けました。

 そんな彼女を僕は、泣き止むまでずっと、抱きしめ続けていました。


 実は、僕もつられて泣きたくなってました。

 でも何とか我慢してティーネさんを抱きしめていたんです。

 こういうのが、母が言っていた男の甲斐性というものだと思ったからです。


 どれくらいの時間が経ったでしょうか。

 泣き声は聞こえなくなってからも、しばらく僕は彼女を抱きしめていました。


「……あのね」

「はい、何ですか?」


「変なこと、聞いていいかな」

「はい。何でも聞いてください。わからないこと以外は、何でも答えます」


 僕は頭が悪いから、わからないことは答えられません。

 でも、ティーネさんのためです。頑張って答えようと思いました。


「えっと」

「はい、何ですか?」


「私、も……」

「はい」


「あなたのこと、好きになって、いい、かな……」

「可愛いです」


 あ、つい、思ったことが声に出てしまいました。


「やめてやめてやめて! なし、今のなし、なしなんだからッ!」

「ごめんなさいごめんなさい! 僕のこと好きになってください。僕は好きです!」

「う~~~~~~~~!」


 ティーネさんが、僕の胸に頭をグリグリしてきます。

 どうしよう、胸がさっきからドキドキしています。顔がすごく熱いです。


 色々と、驚いたり喜んだりするべきなんだと思います。

 でも、頭の中は真っ白で、まるで夢を見ているかのようです。どうしよう。


「ねぇ、リオッタ?」

「は、ひゃい、何でしょうか!」


 声が裏返ってしまいました。

 だけど、ティーネさんは気にした様子もなく、僕を見上げてきます。


「ごめんなさい。もう、許してもらえないかもしれないけど」


 それから、僕は初めて、ティーネさんに謝られました。


「私、あなたのお仕事にひどいこと言っちゃった。ごめん、ごめんね……」

「大丈夫です。あれは、苦しいから出た言葉だって、僕は知ってます」


 また泣きそうになる彼女の背中を、僕はポンポンしました。

 人は苦しくなりすぎると、どうしても心が濁って悪い方に傾きます。


 僕も、母が病気で死んだときに、目に見えるものを全部恨みました。

 それと同じことだと思います。ティーネさんは、悪くないです。


「私、やっぱりもう少しだけ、勇者を続けるわ」

「え、それは……」


「違うの、聞いてリオッタ。もう、さっきまでみたいなことは言わないから」

「はい。わかりました」


 そこから、ティーネさんは僕に教えてくれました。

 押し付けられた役割でも、魔王は倒さなきゃいけないと考えていること。

 でも、魔王を倒したら、そのあとはキッパリと勇者をやめること。


「約束するわ、リオッタ。私、絶対にここに戻ってくるから」


 そう言って、ティーネさんは笑いました。

 吹っ切れた彼女が見せた笑顔。

 それは紛れもなく、僕がずっと見たいと願っていた、あの心からの笑みでした。


「ティーネさんは、綺麗なだけじゃなくて、かっこいいんですね!」

「ねぇ、本当にやめて? 恥ずかしくて、死んじゃうから!」


 そうして、僕はティーネさん――、いえ、ティーネに聖剣を返しました。

 彼女は泉で身を清めて、またすぐに旅立っていきました。


「勇者をやめたら、別のお仕事をしてみたいわ。そのときは教えてね?」

「はい、僕もちゃんと教えられるように、誰かに教わっておきます!」

「何それ。……でも、リオッタらしい」


 それが、村を出る直前の、ティーネと僕との会話です。

 そしてまた季節が二つ巡って、年の半分が過ぎた頃、噂を聞きました。


 ――勇者がついに魔王を討った、という噂でした。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 今日もまた、僕は村の入り口に立って、そこから伸びる道を眺めています。

 明日は来るかな。明後日かな。そう思い続けて二週間目の、今日です。


「あ」


 僕は、すぐに気づきました。

 真っすぐ伸びる道の向こうに見えた、赤い影。それは彼女の髪の色です。


 僕の心は浮き立ちました。

 この半年の間に、僕はがんばって第一村人以外の幾つかの仕事を覚えました。


 それを、彼女に教えてあげるんです。

 勇者をやめた彼女に、僕が、お仕事を教えてあげるんです。


 道の向こうで、彼女も僕に気づいたようでした。

 彼女が、僕に向かって手を振っています。

 いてもたってもいられず、僕は走り出してしまいました。


 すると、彼女も同じように駆け出しました。

 どんどんと、僕の目に映る彼女の姿が大きくなってきます。


 彼女は、いつも持っていた大きな剣を持っていませんでした。

 鎧も着ていませんでした。長い髪を三つ編みにもしていませんでした。


「ティーネ!」

「リオッタ!」


 僕は、帰ってきたティーネを抱きしめました。

 ティーネも、僕の名前を呼んで、抱きしめ返してくれました。


「おかえりなさい、ティーネ」

「ただいま、リオッタ。私、もう勇者じゃないよ」

「はい!」


 そして、僕達は結婚しました。

 父も、兄も、村のみんなも、ティーネがお嫁さんになることには驚きました。

 すごく驚いていたけど、みんな、彼女のことを歓迎してくれました。


 それが、僕とティーネの馴れ初めです。

 他にも一年くらい王都で暮らした話や、復活した魔王の話なんかもあります。

 でも、それを語るのはまた別の機会にしたいと思います。


 ごめんなさい。

 このあと、ティーネとお散歩をする約束なんです。


「リオッター、どこー?」


 ほら、彼女が僕を呼んでいます。

 僕の大好きな、僕の自慢の奥さんが。


 だから、ごめんなさい。

 僕は彼女とちょっとお散歩に行ってきますね。


 え?

 今、幸せかって?


「どうなんでしょう。ティーネが幸せだって思ってくれてたら、嬉しいな」


 あれ? 何か間違えましたか?

 ごめんなさい、ごめんなさい。僕、頭が悪くて、間違えてしまいました。


「リオッター?」


 あ、ティーネが近くに来てるみたいです。僕、行きますね!

 それじゃあ、また!

読んでいただきありがとうございます!

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よろしくお願いいたします!

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[一言] 読み応えのある、素晴らしいお話でした。 ありがとうございました。
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