一 ただヒトツの願いのために
厳めしい鉄仮面を着けた人影が、背中を丸めて佇んでいる。周囲に他の人影はない。誰もいない広間で、コアイは力なく項垂れていた。
……寒い。
彼女は、平時の気温で寒さを感じることはない。つまり寒いと感じるのは、身体でなく精神なのだろう。しかし、彼女にはそれをはっきりと理解することができない。
何故だろう? 分からない。けれども、あの娘に逢えれば、私はきっと満たされる。それだけは、解っている。
名前も訊いていない、あの娘に。あの娘に、再び逢えれば。
早く、彼女に逢いたい。
やはりそれこそが、凡そコアイの考える、求めるものであった。
再び、確実に「彼女」を召喚する、そのために小物を貰っておいた。抜かりはない筈であった。しかし彼女は先刻、気落ちからか徒に魔力を垂れ流し、己の術の礎となる血液をも失ってしまっていた。
恙なくあの娘を召喚ぶために、また不測の事態に備える意味でも、まだ余裕の残っているうちに食を摂り、血を補っておく必要がある。コアイはそう、理解している。
ただ、食を摂ることは平時のコアイにとって不可欠ではなく、はっきり言ってしまえばそれは面倒事であった。この世界で食事を必須としない、そんな性質の者は彼女以外には居ないようであるが。
この世界で彼女だけは、他人が嬉しそうに肉を喰らい、美味そうに酒を飲む姿を滑稽なものと見ざるを得なかった。だから過去の彼女も、日頃宴を催し、配下達と酒食……無論酒色をも、楽しもうとすることはなかった。
彼女が食を摂らねばならぬのは、己が血を流したときのみであった。それも、ほとんどは此度のように、彼女の不安定さが原因である。強敵との闘争ではなく。
「……外へ行くか」
独り言。思わず、呟いていた。
先に厨房を徘徊したとき、食べられそうなものは残っていなかった。食料を得るためには、屋敷の外へ出ざるを得ない。幸い、彼女は獣でも、菜でも、この世界で食料として扱われうるものの大半を己の血肉とすることができる。ただし、そこに歓びだとか、充足感だとかいったものを感じることは無いが。
コアイは歩き出す。全身を支配したがるような気怠さをなんとか、あの娘の記憶で追いやりながら。
そう、あの娘のため。あの娘に、もう一度触れるために。
そう考えると、それ以外の一切がコアイの思考から脱け落ちていく。
彼女の顔、彼女の声、彼女の吐息、彼女の手触り。
思考が、彼女になっていく。胸のあたりから全身が、爪先までが……あたたかさに沈んでいく。
軽い眩暈を感じたような、浮かされているような心地でふらふらと歩き出す。辺りは薄暗いように感じたが、コアイにとってそんなことはどうでも良かった。彼女を感じている、それだけを意識していた。
……しかし、そんな夢見心地は無粋な呼び掛けに破られる。
「おい、アンタ何をしている」
その声は、コアイをすぅっと現世に引き寄せた。そしてそれは、彼女にとって不愉快極まりない現象であった。
「お前か、邪魔をするのは」
そう言いながら、声の方向に冷たい視線を向ける。
「旅人か? アンタのような者が滞在しているとは聞いていないが」
「……五月蠅いな」
コアイの眼に映ったのは、弓を持った壮年の翠魔族であった。
「なに!?」
「翠魔族が一人で、私に歯向かおうと」
「……翠魔族、だと? 今時そんな呼び名を使う者がいるとは」
男は、コアイの言に何か違和感を抱いだようだ……が、そんなことはコアイには関係ない。
「まあいい、とりあえず尋問を゛あ゛っっ゛」
「五月蠅い」
コアイは指先に精神を集中し、指先の血流に強い斥力を持たせ相手の喉笛を圧し込んでいた。男は喉を潰され、濁った呻き声を上げて崩れ落ちた。
「がっ…げっぐ……」
男は目を見開き、首元を押さえてのたうち回っている。コアイはその姿を見下ろしながら面をずらして口元を露にした。そして中指を齧り、そこに浮かんだ血を尖らせて男に突き刺した。男の肩口に小さな穴が穿たれ、着衣に赤い血が滲む。
コアイは躊躇いなく男の肩、出血部に口を付けて思い切り吸い込む。ただ血を吸うのではなく、眼の前にある生命のすべてを吸い込み、呑み込めるように!
男は声を上げることもなく、瞬く間に枯れ木のような干物となってしまった。
コアイは力が漲るのを感じたが、それは意に介さず先ほど齧った中指に魔力を通わせる。すると男だった干物は黒く光り、すぐに焼き尽くされた。まだ腸までは干からびていなかったのか、少し臭う。
しかしそれは最早、些末なことであった。彼女にとって、十分な血を、力を取り戻せたことだけが重要なのだ。
……これなら、何の憂いもなく彼女を喚び戻せる…………
コアイがそう確信すると、心がまた浮かされていた。けれどそれが、何故か心地好い。ふわふわとあたたかくて、堪らない。それに沈められたいと、願ってしまう。
夢か現か定かでないほど茫洋とした、ひどくぼやけた柔らかさとあたたかさを身体の奥で感じながら、コアイは屋敷へと帰っていった。