七 サヨナラ、そろそろ
「そろそろ起きろ」
私は彼女に促す。
いちじかん、という概念は理解できないが、彼女は「大体でいい」と言っていた。つまり、いちじかん……とは、時を測る何らかの単位なのだろう。であれば、ある程度の時を経た状態がいちじかん、でありそれを大まかに感じ取って彼女を起こせば良いのだろう。
私には時を測る意識も能力もなかったが、十分に彼女の寝顔を見つめられた。頃合いだ、ということにしよう。
「ほら、起きなさい」
「ん……す~……」
彼女は目を覚まさない。私はもう一度、彼女の顔を見る。緊張感のない、安らかな表情。私は、これを変えたくないものと感じている……しかし、彼女と約束した以上は、それを為さねばならない。
……約束?
私は、そんなものを気にしていたか?
いや、今は考えないでいよう。心の欲する、そのままでいよう。
私は彼女の手を引いてみる。あたたかいその手を、自分の胸元に引きつけてみる。
「んぅん……」
くぐもった声が伝わってきたが、彼女は起きない。起きずに、手を引き返してきた。
そのとき何故か、身体の力がふわりと抜けた気がした。
私は脱力したまま、彼女に引き寄せられる。私の身体は、彼女に覆い被さった。
「むぐっ」
彼女は小声で呻き、やがて眼を開いた。
「……キレイな顔」
私達は、玉座の間へと歩き出した。
「う~ん、夢のような、夢じゃないような」
「ともかく、そなたを送り帰そう」
玉座の間には適当な広さの空間がある。
ここで再度、召喚陣を描き、そこに彼女を放り込んで呪文を発する。そうすれば、彼女は元居た世界へと送り帰されるはず。
……実際に送り帰すのは初めてだが。
「そうだ、そなたを帰す前に」
「んー?」
「そなたの持ち物を、何か呉れないか」
私は、また彼女に会いたかった。だから。
「何でもいいの?」
「ああ、そなたとの出会いの記念に」
「フフッ、クサい台詞は言えるんだね、おねーさん」
私は嘘を吐いた。彼女に悪いと思いながら。いつか彼女と再会したくて。
「んじゃ、これ」
彼女はどこからか奇妙な小物を取り出し、私の手に取らせた。それはとても、あたたかかった。
「ありがたい、では……そこに立っていなさい。動かぬように」
私は彼女から数歩離れ、人差し指の先を齧る。チクリ、と痛みが走る。
私は指先に滲む血に命ずる。彼女の足許の床に、召喚陣を描けよと。
指先から、血がぐずぐずと流れ出す。流れ出た血は彼女に触れぬよう滑らかに走り、やがて召喚陣を象どった。
「ひゃあ……」
彼女は驚いていることだろう、だが今はそれを気にしない。
私は左手を高く掲げながら指を折り、その先端を召喚陣に向ける。そして、
「La-la mgthathunhuag!!」
私は、どこで知ったかも定かでない、この世界の言語とは異なる呪文を発声した。
赤い召喚陣が鈍く輝く。召喚陣は淡い光を発して辺りを照らしていく…………
「またね、おねーさん!」
チクリ、と痛みが走る。
淡色は少しずつ周囲の空間に混じり、やがて私を含む全てが、柔らかい光に晒されていく────
彼女は、この世界を去った。
……私は、玉座に腰掛けていた。
太陽の光が、部屋に差し込んでいる。幾度となく過ごしてきた、この世界の昼。
私は、誰もいない部屋を見回してから、ゆっくり立ち上がる。今すぐに、何かをしなければならぬということはない。少なくとも、この部屋と寝室は以前とほぼ変わりなく使えるようだから。
しかし、何もしなくて良いからといって、何もしないで居られる訳ではない。特に何をするでもなく座していたが、既に私は退屈であった。
……つまらない…………
私はふらふらと立ち上がり、書庫へ行き、厨房へ行き、物見の塔へ行き、寝室へ行き
気付くと私は、玉座に戻り腰を下ろしていた。今、ここには、私の心を動かすもの、心を彩るものは何一つない。
私は、こんなに退屈な世界で、生きていたのか?
私は、こんなに退屈な世界で、生きていたいのか?
つまらない、つまらない、つまらない、
私はふと、魔力を練ってみる。しかし、それを影響させたい事象が何一つ思い浮かばない。
つまらない。私は練り上げた魔力を純粋な魔力として存在させたまま、手持ち無沙汰になる。純粋なままの魔力は少しずつ私の体内を暴れ、歪みを起こし身体を蝕んでいく。
少し痛い、それがどうした。つまらない、つまらない。
純粋なまま濃度を高められた魔力はやがて行き場を失くし、私の身体のあちこちから噴き出して霧散した。
身体が痛い、それが……何だというのだ。つまらない、寒い、つまらない。
魔力が貫けた私の身体のあちこちから、血が流れ出した。
さみしい。
……さみしい?
私はこの世界で、何を求めて生きてゆけばよいのだろうか。
今の私には、それが……それを問う相手すら、いない。
あいたい。
……あいたい?
ああ、そうだ。そうだった。
あいたい。