十七 ヌクモりに酔って蕩けていって
コアイは東へ向かって歩く。休むこともなくひたすら歩く。
何日間そうしていたか、コアイは覚えていない。幾度となく夜を迎え、朝に照らされながら……コアイは歩き続けた。
時折彼女の描かれた厚紙を懐から取り出し、その瞳を見つめながら……コアイは歩き続けた。
コアイは、タラス城へ帰り着いた。
安全な城へ帰ってきたコアイが真っ先にすること、それは決まっている。
コアイは一切寄り道せず、寝室へと向かう。
コアイは寝室で、スノウの描かれた厚紙を取り出し……名残惜しさに抗いながら、厚紙をそっと床に置いた。そして指先を噛んで表皮に血を滲ませ、それに命を伝える。
召喚陣を描けよ、と。
指先から、血がドクドクと流れ出す。流れ出た血は厚紙に触れぬよう、されど俊敏に流れて召喚陣を象どった。コアイはそれを見て左手を高く掲げ、指先を召喚陣に向ける。
そして、
「mgthathunhuag Moo-la-la!!」
コアイは、何故か文言だけをはっきり覚えている、この世界の言語とは異なる文法、発音の呪文を唱えた。
赤い線で形作られた召喚陣が、淡い色に変わる。召喚陣は周囲の色など素知らぬように薄紅色に変わり…………
やがて術者を含む全てが、召喚陣を抱きしめたように熱を届けていく────
力を喪った召喚陣の中央に、彼女が横たわっている。
コアイは居ても立ってもいられない。直ぐさま側に添い、彼女を抱き上げる……が。
「えっちょっと待って くさい」
酒の臭いを漂わせる彼女は、目覚めてすぐに顔をしかめて見せた。
「臭い? わ、私がか?」
「運動場の砂ぼこりと雨上がりの道路と、図書館の奥のにおいをまぜて濃厚にしました的な」
コアイには彼女の例えが理解できず、また彼女の態度も理解できない。
「ど、どういうことだ」
「とりまくさいからはなれて~」
離れて?
私は、拒まれている、のか……?
なぜ。
なぜ。私を。触れてくれないのだ。
視界が、ふと光を失う。
私は。彼女は。
彼女に触れられない私ならば、それは……
彼女に受け入れられない私ならば、それなら…………
「~~!? ~~~~!?」
「だ、だいじょーぶだから!? 落ち込みすぎだってば!」
声が聞こえて、コアイの心は寝室に引き戻された。
「そんなヘコまないで!? お風呂入ればだいじょーぶだから!? ねっ!」
「あ!? あ、ああ……」
「……なんか、ゴメンね」
コアイの沈んだ様子を見かねたのか、彼女はぽつりと謝罪する。
「ぁぁ……」
コアイは溜め息混じりの応えを返すのが精一杯だった。それは返答というよりはむしろ、安堵の溜め息だった。
コアイは風呂の支度を指示してから、二人で浴室へ向かう。
「最初に、かけ湯をしましょ~う!」
先に浴室へ入ったスノウはそう言いながら、コアイに湯をかけようと桶を振り回す。コアイはそれを、棒立ちで受け止めてみる。
彼女は何度も、桶に汲んだ湯を私にぶつけてくる。
私に触れるそれは、湯である。彼女ではない。
なのにそれが、彼女のあたたかさを身体に伝え、私に教えてくる。
それは、とても……とても、心地が良い。
彼女がそれに飽きるのを待ってから、二人は湯に浸かる。
「西の土地から珍しい酒を持ってきた、後で飲もう」
「マ? じゃあ今飲もっか!」
「ここで、か?」
「これやってみたかったの~」
彼女は酒器を底の浅い木の大皿に載せて、それらを湯に浮かべて笑っている。
楽しそうな彼女を見ながら、コアイはラッキ──西方の酒を注いでやる。そしてそれに水を加え、白濁する様を見せて笑っていた。
そして二人は何度か酒を飲み干し、また注ぎ、飲み干して。
やがて彼女は、コアイに寄りかかり黙り込んでしまった。
「んぅ…………」
心地良さそうにすら聴こえる高い声とは裏腹に、表情はさえない。
肩を掴んで揺すってみても、柔らかそうな耳や頬を軽く引っ張ってみても、彼女は起きようとしない。
コアイは彼女が眠ってしまったと思い、抱き上げて寝室へ運ぶことにした。
浴室を出てまずは己のローブを着て、のち彼女に衣服を着せようとしたが、彼女の服をうまく着せられない。コアイは仕方なく、衣服で彼女の身体を覆い隠して彼女を抱きかかえた。
コアイが彼女を抱きかかえて寝室へ向かう廊下を歩いていると、正面に翠魔族の女が現れた。女はコアイに気付いたらしく、一礼しながら声を掛けてきた。
「陛下、ご無沙汰しております」
「クラン……だったな、城に居たのか」
「はい。奥方さま、どうかなさいましたか?」
女は、コアイに抱かれぐったりとしているスノウの様子を見ている。
「先程まで風呂に入っていたのだが、この通り動こうとしないのだ」
「なるほど、湯に当たったのかもしれませんね……ん? いや、ずいぶんお酒臭いですね」
「彼女に勧められて、風呂で酒を飲んでいた」
「そういう飲み方というか、お風呂の使い方もあるんですね……」
コアイも知らなかった。だがその時間は、一際楽しかったと断言できる。
「ひとまず、寝室で休ませてあげてはいかがでしょう」
「ただ、その前に……服くらいは着せてあげては?」
「長靴下のようなものは穿かせられたのだが、それ以外は見たことのない衣服ばかりで、着せ方がよく分からぬ……」
「ひとまず彼女の身体に被せてきたのだが、途中で落としてしまった」
「そうでしたか。では、ここから浴室まで探して、それらしいものがあれば寝室へ届けますね」
「頼む」
女が微笑みながら頷いたとほぼ同時に、後方から男の声が聞こえた。
「お、珍しい組み合わせじゃねえか」
「ん、貴様か」
コアイは半裸の彼女を抱きかかえていながら、つい振り返ってしまっていた。視線の先には、大男アクドがいる。
「あっ、ち、ちょっと!? 見ちゃダメですっ!!」
女が大男へ向かって駆け出し、その顔面を叩くようにして目元を覆い隠した!
「わっ!?」
「見ないでっ! 目をつぶってください!」
「お、俺はなんにも見ちゃいねえよ、つか何もな痛だァッ」
女は大男の言葉に反応して、顔を押さえていた手を横へ回し、その耳を器用につねり上げる。
「しっかり見てるじゃないですかっ!? バカ! ヘンタイ! スケベ筋肉!」
女は大男を見上げながら罵声を浴びせる。
「全く、もう……」
「つか、スケベ筋肉ってなんだよ……」
コアイは二人の他愛もない言い合いを背にして、寝室へ戻ることにした。




